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第十五話 撤退

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


Copyright © 2017-2019 芥川一刀 All Rights Reserved. 


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 ティナ・ハルモンド、いや、魔人ティアメスに抱き抱えられたままアーベルトは沈黙を保つ。

 その静けさに耐え切れず、ティアメスは「ごめんね、アー君。でも、騙すつもりが無かったのは本当。これだけは信じて欲しい、かな」と口にする。

 炎を背負う獣と化したバエルの巨躯から放出される魔力によって大地は炎に包まれ、灼熱地獄とも言うべき熱波に晒されているにも関わらず、無言を貫くアーベルトの態度はティアメスに心血が凍り付くかのような錯覚を与えた。


「答えろ、ティアメス。何故、ヒトモドキを庇う。それに何だ、その許しを乞うような態度は。それが紛い物に対する態度か」


 獣化の影響で声帯に歪みが生じたのか、血気盛んな勢いを感じさせるバエルの声は低く籠り、大気を響かせた。

 その苛立ちは地獄の判官もかくやと言わんばかりで、彼等の戦域から離れている筈のレーンベルグ軍、絶無軍、トレスドア連合軍、所謂普通の人々を怯え竦ませた。


 普通の人ではないティアメスにしてみれば、その程度の恫喝は痩せ犬が吠えている程度の煩わしさでしか無く、苛立ちを露わにする。


「私が誰を好きになって、どんな態度で接していようとバエルには関係無いと思うんだけど? お前は私の何なわけ? 恋人? それともパパ? ま、パパならぶっ殺すけど」


 魔人らしからぬ態度に誰もが内心で戸惑いを浮かべるが、ティアメスの言うことは別段不思議なことでは無い。


 高齢世代なら実の父親でも殺したい程憎いのは彼等の共通認識だ。

 だが、血の繋がりの有無に関わらず、高齢世代は六千年前に絶滅した。

 被災者という共通点はあるが、それも六千年前の話だ。

 ルカビアンが極めて不老不死に近い存在であるとは言え、六千年の時はあまりにも永い。

 悲劇を忘れ、共感を薄れさせるには十分過ぎる歳月だった。 

 純粋種だの人工生命体だので他者を区別するという意識が、共有出来なくなったとしても決して不自然な話では無い。


「って言うかさ、そもそもお前の私に対するその態度は何? 人間の決めた序列を真に受けて上位者でも気取ってるつもり? 人をヒトモドキ呼ばわりするくせに都合の良いことはヒトモドキの言っていることを受け入れるんだ? そういうのを二重規範って言うんだよ。この卑怯者」


 弁解や謝罪の言葉が彼女の口から出て来ることは無く、立て続けに吐き出される非難の言葉にバエルは動揺する。

 平静と無言で聞き入れるかのような態度を取り繕っていたが、極僅かであったとは言え、確実に動揺の気が漏れていた。

 思わぬ反論に何も言えないでいる無様な男を嗤うかのように鼻を鳴らし、ティアメスは言葉を続けた。


「私がこの人を守る理由が知りたいなら教えてあげる。ユニコーンの角笛を吹ける人だからだよ」


「……は?」


 ただでさえ静まり返っていた空気が更に静かに、そして冷え込んだ。


――何を言っているんだコイツは?


 バエルだけでは無い。零も、当事者のアーベルトさえもが心の中で声を合わせた。

 呆気に取られて絶句するバエル。その態度を目の当たりにしたティアメスの反応は、極めて冷ややかなものだった。


「理解出来ない? 自分のやりたい研究と暴力にしか興味の無い野蛮で教養の無い魔人よりも、人間の方が文化的でずっと魅力があるって言ってるの。不服? けど、私にしてみれば魔人なんて文化性も創造性も無く、ただ優れた文化を知っているってだけで、コンテンツを消化するしか能の無い、平凡で無価値な消費者でしかないわけ。以上、趣味や特技で話が合うこの人、アー君の方がお前達よりも遥かに優れていて大切だと思える理由。気が済んだ? 満足したらさっさと消えてくれる?」


「人の獲物を勝手に逃がそうとしてくれるなよ、ハルモンド」


 それまで黙り込んでいたアーベルトがティアメスを押し退け、出鱈目に捻じ曲がった両足で一歩、また一歩と進んだ。

 まともに関節が曲がらず足裏を這わせるようにバエルの方へと近付き、同じく黙り込んでいた零の視線からティアメスを隠すように立ち位置を変える。


「あ、アー君!?」


 とても戦える状態では無い。魔人どころか普通の人間なのだ彼は。

 放っておくだけでも死にそうな程に傷付き、今にも崩れ落ちそうになっているアーベルトを支えようとティアメスは手を伸ばす。

 伸ばす手がアーベルトに触れるよりも、彼の身体が更に歪む方が早く、彼女の濡れた唇から洩れる悲鳴は焦燥感に満ちており、バエルに更なる不快感を与えた。


「レーンベルグやソウブルーの精鋭や長は痛みに耐える訓練として様々な苦痛を与えられると聞いていたが、流石はバーグリフの右腕。伊達では無いようだ」


 その一方で感心したように呟いたのは零であった。

 アーベルトの身体に起こった更なる歪みは零の空間制御能力によるものでは無い。

 アーベルト自身の魔力で歪んだ空間や肉体に干渉し、力尽くで捻じ曲げられた骨や肉を元に戻したのだ。治療などという上等なものでは無い。

 砕けた骨も裂けた肉も魔力で構築した縄で自らの肉体を縛り上げ、添え木と止血テープ代わりをでっち上げ、取り敢えずまともに動けるようにしただけだ。

 本来有り得ない方向に捻じ曲げられた骨や肉を麻酔も抜きに力尽くで元に戻すのは、堪え難い苦痛に苛まれることになるが、アーベルトは想定通りだと言わんばかりに涼しい顔で修復された掌の調子を確かめるように握り締め、そして力を開放する。


――失った血はどうしようも無いか。


 執着するだけ無駄なので諦めた。


「どいつもこいつもお目出度い頭をした莫迦揃いか」


「何?」


 双眸から溢れる血を拭い、口腔に溜まった鮮血と共に罵倒を吐き捨てる。

 死ななきゃ安いを地でいくような態度で、虚勢やカラ元気の類では無いと零は即座に気付き、警戒心を露わに再び構えを取る。


「確かに大した攻撃力だ。だが、それがどうした? この程度の窮地や苦痛など想定していなかったとでも思っていたのか。此方が想定外の弱さに些か驚かされた程だがな」


 零の直感を肯定するかのような態度だった。

 威力があれども常人の一人も殺せないのでは、無意味でしかない。

 アーベルトの態度は確実に魔人を、ルカビアンを白眼視するもので、その態度も当然だと零は歯噛みする。

 零とは対象的に、バエルは不気味な風切り音を響かせアーベルトに肉迫する。

 彼我の距離は約百メートル。肥大化したバエルの巨体にとってはゼロ距離も同然だ。

 アーベルトにしてみれば炎の壁が迫り来るような光景だ。

 だが、竦み上がることなく、目線を上へ上へと向けて無手のままの腕を踏み込みと同時に振り落とした。


「抜け目の無い男め」


 バエルの背部から鮮血が迸った。

 無手から繰り出される不可視の斬撃、それが硝子の剣の一撃による物だと察した零はその周到さに舌を巻く。

 一振りは確実にこの手で破壊した。

 しかし、アーベルトが携える硝子の剣が一振りだけとは限らない。

 空間圧殺(ストレイブ)で受けた肉体の損傷さえも感慨無く修復したことから、この展開事態、既に織り込み済みであったと考えることさえ出来る。

 つまる所、この男は種族的な性能差による劣勢など最初から想定済みだったのだ。

 それどころか想定外の弱さと言ったことから、想定を上回るどころか下回っている。

 それはどれ程の傷を与え、半死半生の体を為していたとしても、死ぬことなく、戦闘続行可能であれば、未だ窮地になど陥っていないということを意味する。


「トレスドア要塞の攻略は諦めねばならんかも知れんな」


 炎の揺らめく中、呟いた零の言葉はバエルの悲鳴と怒りが入り混じる咆哮に掻き消された。

 零との交戦で使った硝子の剣よりも長い刀身と曲線を描く奇怪な形状をしているらしく、アーベルトの斬撃はバエルの後頭部に巨大な裂傷を刻んだ。

 バエルの後頭部には凄まじい圧力が加わっているらしく、アーベルトに頭を垂れるが如く鼻先が地面に付こうとしている。

 オウラノに対する蔑視が強いバエルにとって、この構図は屈辱以外の何物でも無い。


――この状況で本気を出すか、それとも人間相手に本気を出すのは莫迦らしいと、いつものように勝利を譲り渡すか、バエルお前の盆水嶺だな。


 自らの斬撃の反動でアーベルトの骨が軋む音が零の耳にも聞こえていた。魔力によるブーストの反動によるものだろう。

 代償と引き換えにとは言え、二メートルにも満たない人間が十メートル以上の巨躯を抑え込んでいる。

 異様な光景だが、あの男ならばこその芸当とでも言うべきだろうか。

 それはさて置き、介入しバエルの命と肉体を取り込む絶好の機会だ。

 フリーになったティアメスを奪う好機と言い換えることも出来る。

 だが、零はそのどちらもせずにティアメスの動きを警戒しつつ、アーベルトとバエルの衝突の行方を見守った。


――生存したルカビアンの意識は力と研究のみに向けられている。文化的でも創造的でも無い。だからオウラノよりも非文明的で無価値な存在。ティアメスの発言はある意味で正鵠を射ている。ヴィヴィアナが、ヴァルバラが、ティアメスが、それぞれに異なる価値観でルカビアンと袂を分かちつつある。そうだ、ルカビアンだろうがオウラノだろうが我々は人だ。人ならば変わる。変わっていく。変わるからこその人だ。バエル、お前はどうなる?


 今までの魔人ならそろそろ面倒になるか、意地を張ることに恥を感じて勝利を恵んでやる頃合いだ。

 内心からの問いかけが聞こえたわけでは無いだろうが、バエルは硝子の剣が肉の半ば程まで埋まった首を振り回して不可視の刃を砕いた。

 破砕音と共に均衡が崩れ、バエルの巨腕から繰り出される十条の爪撃がアーベルトを切り刻み、胴から離れようとする頭部、その貌には好戦的な感情が張り付いていた。

 時間が巻き戻るかのように飛び散った鮮血が身体の中に納まり、分断された身体が再結合され、不可視の連撃がバエルに叩き込まれる。

 角が、鱗が、手が、足が、そして首が刎ね飛ばされていくが、すぐさま再結合するか、再生されていく。

 炎が走った。斬撃が走った。肉が、骨が、臓腑が、眼球が、飛び散っていくが、それでも決定打には至らない。


――どちらも存外粘る。


 あの男が単騎で魔人に挑んだことは無謀でも増長でも無い。一撃必殺に耐え、耐え切れずとも瞬時に回復する。

 それらを可能とする手段も魔術式か、はたまた魔術兵装か、対策は万全といった様子だった。

 だが、ルカビアンとオウラノ。種族的な差が徐々に、そして確実にアーベルトを劣勢に追いやる。


――この後に私が奴とやり合うことになるか。


 四肢を捥がれ、肉を潰され、骨を砕かれ、それらの全てを再生する能力は大したものだ。

 だが、肝心な血が足りていない。アーベルトの顔色が悪く、精彩を欠いている。


「いつまでも同じ手が通用すると思うな、ヒトモドキが!!」


 バエルの巨躯が跳んだ。上段から振り落とされた不可視の斬撃を空振り、アーベルトの身体がつんのめる。

 落下と共に生じる衝撃波に吹き飛ばされ、体勢も儘ならぬ内からバエルが追撃に打って出る。

 ティアメスと分断され、零が今が好機かと動き出そうとするものの、邪眼や魔眼もかくやと言わんばかりのアーベルトの殺意に刺し貫かれる。


――警戒心の強い男だ。しかし――――!?


 後方から飛翔する鉄塊が零の右腕を吹き飛ばした。


 自在事法の理――――、武器を硝子の剣に持ち替えて以降、地面に放り出されたまま放置されていた魔術兵装だ。

 弾丸の如く打ち出され、零の腕を一本喰っても飽き足りないと言わんばかりに勢いを緩めること無く、バエルの炎を背負う背部を貫き、胸部からその切っ先を覗かせ、遂にその巨躯が崩れ落ちた。

 魔人だけを斬り殺す性質を与えられた鉄塊が、バエルの内部を完全に破壊したのだ。


「まずは一体。次は貴様だ」


 顔を土気色にして炎の中でさえも凍えているかのように身を震わせながらも硝子の剣、不可視の切っ先を零に突き付けるが、零は首を横に振って口を開いた。


「まだ終わっていない」


 地に崩れた巨躯が再び立ち上がった。

 しかし、バエルの肉体は実体を失いつつある。

 満身創痍で世界を覆い尽くすかに見えた炎も、その勢いを急速に失いつつある。最早、戦闘能力は皆無だ。


「いいや、既に終わっている。全く、先達の歴史家共も不用意に危機感を煽ってくれる。この程度の雑魚が世界を揺るがす脅威などと話を盛りおって」


「貴様ああああああああああっ!!」


 炎が消え、獣化も解けかかり、崩壊する肉体を引き摺るようにバエルが怒号と共にアーベルトに飛び付き、地面に押し倒すとマウントポジションから雨霰と拳を叩き付けた。

 肉体はほぼ死んでいるも同然で、拳を振り上げる度に魔力の残骸が大気に流れ、魔力の篭らぬ自前の膂力のみの打撃が振り落とされる。

 何度も何度も。その度にアーベルトの頬骨が砕け、鼻骨が潰れ、歯が折れる。

 その顔面が崩壊したあたりで肩で息をしながら勝ち誇った笑みを浮かべて額に拳を突き刺した。


「弱いか。確かに弱いな。ルカビアンは弱い」


 自嘲を顔に浮かべて口にしたのは零だった。


「弱い? 弱いだと!? どこがだ!? ヒトモドキの中では強者だったかも知れんがまともにやれば圧倒できるのだ!! この力の差が何故理解出来ん!! 無力であるが故に我々は老害共に虐げられた!! 力無き存在に、力無き生命に価値は無い!! それはこの身が、己の過去が証明している!!」


「彼等人間が魔人に想定している脅威度と現実の齟齬。そういうことだよね、アー君」


 ティアメスの問い掛けに弾かれたように視線を下ろす。

 そこには顔を自らの血で赤く染め上げつつも再生を終え、無傷のアーベルトがいた。


「いい加減に退け。男に乗られて喜ぶ趣味はない」


 バエルの喉に指を食い込ませて地面に叩き付けて引き剥がし、やれやれといった調子で立ち上がる。


「魔人に挑むには軍用魔術、封印指定級魔術兵装を針鼠のように武装した一個師団をぶつける。それが常道だが、実体はこんなものか。私や倉澤が満身創痍になった程度で打倒出来る脅威。本気でやれば圧倒できる? 出来て当然のことで勝ち誇るなたわけ者が。たかが人間さえも選ばねば殺せぬ脅威など脅威では無い」


 ティアメスの「じゃあ私が乗ってあげるー」という愚にもつかない戯れ言を聞き流してアーベルトは言葉を続ける。


「人間が強くなったのか、それとも貴様達が弱くなっただけなのかは知らん。魔力が高く、凄まじい耐久性と不死性、常軌を逸した能力の数々。成る程、確かに脅威的だ。お前達は強いが闘争向き力では無い。弱い。条件が同じなら子供よりも弱い。それがお前だ」


「おのれ……! おのれおのれおのれおのれ! ヒトモドキ風情が!」


「吠えるしか能の無い負け犬が。だから私風情に敗北することになる」


「殺してやる……!!」


「帝国は武と力を尊ぶ。敗者の挑戦を受け入れるのは勝者の責務だ。クラビス・ヴァスカイルで貴様が訪れるのを待っておいてやる。だが、次に戦う時の私は今よりも遥かに強いぞ。精々腕を磨いてくることだ」


「ヒトモドキの分際で最期まで気に食わん。次は殺す。必ず殺す! 遊びも手抜きも無しだ、必ず殺してやる!」


 恨み節を吐いて消滅したバエルに感慨を抱くこと無く、もう何本目になるかも分からない硝子の剣を構えてアーベルトが零を睥睨する。


――状況は最悪か。


 弱気を内心で吐露したのはアーベルトではなく、零だった。

 実際には満身創痍で両の足で立つことが出来ているのも奇跡みたいなものだが、零に対する危機感と高過ぎる戦意がアーベルトの意識を繋ぎ止めていた。

 僅かたりとも戦意を緩めようものなら体が回復を求め、アーベルトの活動を完全に停止させることだろう。

 その事実を零が知る由もないし、知ったところで『戦意を緩めたら意識が途切れる? ならば戦意を緩めなければ良い』と言って退けるような男なので、特に意味も無いが。


――硝子の剣は後何本だ。あの得体の知れぬ魔術兵装(自在事法の理)は後どれだけの術式を有しているのだ。


 基本的に魔術兵装は魔石の数だけ術式を持つ。

 倉澤蒼一郎のレーベインベルグとて刻印されている術式は原初(フォルメス)の火だけでは無い。

 身体強化、耐魔力、爆炎召喚等、様々な術式が組み込まれている。

 詳細は知らずとも六つの魔石が埋め込まれていることから、レーベインベルグは最低でも六つの術式を操れると予測出来る。

 だが、自在事法の理は用途に応じて形状を変え、何処に魔石が埋め込まれているのかを確認出来ず、手の内も手数も予測が付かなかった。

 これならば魔力の流れで術式の効力を先読み出来る分だけ、魔術師を相手にした方がまだ楽だと言える。

 更に言えば、ティアメスがアーベルトに味方をしている。普通にやればまず彼が負ける筈が無い。


『人間の決めた序列を真に受けて上位者でも気取ってるつもり?』


 彼女がバエルに言った言葉が脳裏に引っかかった。

 ティアメスの序列は十五位だが、果たして事実はどうだろうか。

 適当にいい加減に帝国を荒らし回った際に付けられた危険度が何処まで信用出来るか。


――ティアメスの記憶には刻印装甲を再建する為の知識と技術がある。此処で引き下がるわけには――……だが、洗脳(ベレス)が通じない魔人との初戦闘で、バエルを真正面から打ち倒す力を持つアーベルトも相手にせねばならんのか……我ながら弱気なことだが……!!


 零は口惜しげに歯噛みしてアーベルト達から距離を取る。


「全軍撤退せよ!!」


 命令に対する反応は迅速だった。

 絶無軍がトレスドア要塞に背を向け、トロールを先頭にした縦陣でレーンベルグ軍に対し正面突破を敢行。

 横陣を貫き、後続に撤退を促すとトロール達はそのまま殿として横陣の中央で待機。レーンベルグ軍に包囲網を作らせる。

 敵陣中央に陣取ったトロール達を放置すれば中央から食い破られ、包囲殲滅に注力すれば絶無軍の撤退を許し、トレスドア連合軍に背後を晒すことになる。

 レーンベルグ軍は結果的に戦力を分断させられることになった。

 更にトロール達は、零が手ずから品種改良した特別製で物理耐性の高さを維持しつつ、それに匹敵するだけの魔術耐性を有する。

 如何にレーンベルグ軍が最強の軍と言われているとは言え、その大半は新兵でトロール達を容易く屠ることは困難を極めた。

 しかし、レーンベルグ軍の兵数、装備の質は絶無軍を遥かに上回る。

 頑強なトロールとは言え、包囲された状態では無類の強さを誇るとは言えず、一人で倒せぬなら十人で倒すと言わんばかりの連携に次から次へと討ち取られていく。

 先に撤退していった絶無軍も背後から撃たれ、斬り捨てられ加速度的に被害が拡大していく。

 トレスドア連合軍もレーンベルグ軍を分散させるなど存在感を示し、亜人や獣人ならではの戦闘能力でレーンベルグ軍に圧力をかけていたが、彼等を見捨てるかの如く撤退していく絶無軍の姿に混乱を生じさせ、全滅、壊滅、そして殲滅されるまで時間の問題だった。


「逃げられると思っているのか? 貴様の存在は魔人よりも脅威だ。倉澤には悪いが此処で確実に殺させてもらう」


「悪いが逃げさせてもらう。お前と戦うにはまだまだ力不足なのでな」 


 斬り落とされた右腕をドルガーノの右腕に変質させ、「我が意に従え!! 旧世界の異物(ネストリス)共!!」

 蜘蛛型機動兵器ネストリスが地面から這い出る。数にして千。

 アーベルトの装備やティアメスにとっては大した脅威にもならないだろうが、ほんの僅かでも足止めするには十分過ぎる性能だ。

 千匹の鉄蜘蛛が一斉にアーベルト達に圧し掛かる。

 押し潰される寸前、アーベルトを庇うように押し倒すティアメスの姿が見えた。


――アーベルト、既に限界を迎えていたか。それともティアメスの過保護か? まあ良い、これで一分は稼げる。


 零は右腕を大地に打ち付け、その反動で飛翔すると包囲されたトロール達目がけて急降下を開始。


「フォーメーション! 光の大洪水(ヴァーザイン)!」


 全身を貫かれながらも彼等の耳朶を叩く零の命にトロールの身体が反射的に動いた。

 隷属から解放された恩義と、本来使える筈の無い魔力の増幅による全能感が忠義となって彼等の身体を突き動かした。

 トロールの身体から魔力光が零に向かって放たれ、拳大程の大きさまでに収束された魔力の塊が攻性の光となって大地に降り注ぐ。

 豪雨にも似た勢いを持つ光の嵐が絶無軍を避けて進行上にある全ての物貫き、焼き尽くしていく。


「殿ご苦労! 貴様達も即時撤退を開始せよ!!」


 絶無軍のトロール達は殆ど原型を残さぬレーンベルグ軍の残骸を踏み潰しながら撤退を再開する。

 レーンベルグ軍を全滅させるには至っておらず、戦闘の継続は十分に可能であることは確実だが、大火力の軍用魔術の威力を目の当たりにしたことで絶無軍の撤退を見逃すかのような素振りを見せていた。


――真正面からぶつかり合うことになったとしても負けはすまいが……。


 ドーム状に積み重なるネストリスの群れを横目で見て、零はこの場での決着はあまりにもリスクが高いと判断した。

 自らが殿についてトレスドア地方からの撤退を継続していった。


 尤も、この判断は零が用心し過ぎた故の失態だった。

 既にアーベルトは意識を失い戦闘不能。

 元々、ティアメスは零を恐れて隠匿術式を使って、零から帝国各地を逃げ回っていた。

 予測の付かないアーベルトの能力と、ティアメスが精一杯張った虚勢が零に誤った判断を下させた。


 この失態が彼にとって、そして世界にとって吉と出るか凶と出るか誰にも分からない。

 千体のネストリスに生き埋めにされたままティアメスは、意識を失ったアーベルトを抱き寄せ、零が去って行くのを怯える様な眼で、早くいなくなれと祈り続けた。

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