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第十三話 第五勢力

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


Copyright © 2017-2019 芥川一刀 All Rights Reserved. 


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 朝、テントの中で目を覚ましたティナ・ハルモンドの気分は実に複雑なものだった。

 昨晩のアーベルトの演奏は中々見事なものだった。大都市の劇場でソロコンサートを開催するのは難しくとも、酒場で吟遊詩人の真似事くらいなら、彼の容姿も相まって一躍庶民のアイドル程度にはなれただろう。

 ティナも思わず舞を披露するくらいには心地の良さに身を委ねていた。

 ユニコーンの角笛でのアンサンブルは、確かな一体感のようなものも感じた。


 それにも関わらず、夜這いされて男女の関係になることも無く――、


『簡単に身体を許すつもりなんて無いけど、どうしてもって情熱的に迫られたら……うへへへへへ、どうしよっかなー』


 ――という妄想も無駄に終わり、今となってはただ気持ち悪いだけだ。気色の悪い妄想とは裏腹に清々しい朝を迎えた。


 それでも『少しくらいは……』と思いながら、黒鹿毛に横乗りしてアーベルトの背にしがみ付いて胸を押し付けてみたりすもするが、彼が何かしらの態度を示すような様子は無い。

 いっそ腰に回した手をもう少し下に這わせ――、『いやいや、流石にそれは力業過ぎるでしょ』と思い留まる。

 最早、アーベルトに対する恩義など完全に忘却の彼方という犬以下の有様で、気を引くことばかりが彼女の頭の中を占めていた。


「ねえねえ、もしかしてアー君って女の子よりも男の子に興味があるタイプ?」


「そうか、お前は莫迦なのだな」 


 愚にも付かない言動を右の耳から左の耳へと素っ気なく聞き流す。

 本気で呆れ返っているのは彼女にも伝わっていた。基本的に人間関係とは鏡映しのようなもので、善意を向ければ善意になって戻り、悪意を向ければ悪意が戻って来る。普通なら此処まで素っ気なくされたら女の側も興味を失うのが当然だ。

 だが、此処まで無関心そうにされると意地でも振り向かせてみたくなってくる。

 その決意は、これは彼なりの照れ隠しなのでは無いだろうかと、意図的に自らの認知を歪めようとさえする程だった。


 そういった意味では大きな意識の隔たりに、アーベルトも、意味不明という名の壁を感じずにはいられなかった。

 尤も、アーベルトにしてみればその壁を壊すどころか、二重三重に固めて、強固にしてしまいたいくらいだったが。


「じゃあ、ロリコン?」


「出来ればそのまま死んでくれないか」


 その態度が益々彼女の興味を引く結果に陥っていることには全く気付いていない。

 それもある意味当然だった。

 この男、殺人童貞に関しては十二で卒業し、就業年齢の十五歳を迎える前に戦場で百人切り(ハーレム)を達成する等、闘争に事関して言えば老若男女なんでもござれのプレイボーイっぷりを発揮していた。

 だが、言葉通りの意味で言うなら、この顔と地位にありながら未だに童貞であり、殺意や殺気、悪意、魔力なら兎も角、戦闘行動に関わらない女の感情の機微など全く理解出来ないでいた。

 主のバーグリフが嫁を取り、後継者を作るまでは女には触れないという律儀さを発揮した結果がこの様だ。


 そんな律儀さがあろうと無かろうと主に振り回され、そんな暇がないのもまた事実だが。


 その一方、ティナの人生において男という存在は、自身の魔性に心を狂わされ、一目惚れせずにはいられない。

 そんな心の弱い滑稽な、傀儡のような存在だった。

 男友達がいないわけではない。彼女の魔性に触れても狂わない異性の友人が十四人、いや、十二人いる。

 十二人という数が多いと見るか、少ないと見るかだが、彼女に堕ちた男の数と比較すればあまりにも少な過ぎる。

 その上、出会った状況が状況だっただけに興味を引かれずにはいられなかった。


「もーっ! 私を乗せて馬を走らせるなんてすっごい名誉なことなんだよー? その辺、ちゃんと分かってるのかなぁ!」


「救護義務を果たしただけで名誉になる程、世界は簡単に出来てはいない」


「またそんなことを言うーっ! 私に惚れてる男の人たちが聞いたら殺されちゃうかもだよ?」


 脇腹をくすぐりながら物騒な物言いをするティナに、アーベルトは鼻で嗤って返す。

 

「女に現を抜かす間抜けが相手ではな。せめて一万――、いや、十万、一億、数を集めた所で死体の山が増えるだけだな」


「物っ凄い自信だね」


「ただの事実だ」


 自慢でも増長でも無く、あるがままの当然であるかのような口振りと態度をする男の横顔を女は呆然と見つめた。

 脇腹をくすぐる指の動きは止まっていた。


「ねねっ、アー君。私に雇われてみない? 私の護衛役で、おはようからおやすみまで!」


 それは一番無防備になる寝所に立ち入らせるということで、ティナはアーベルトに対し、絶大な信頼を寄せていると言っているも同然の言葉だった。

 帝国の男の九割は、その言葉を耳にすると同時に涙を流すと同時に彼女に傅くことになるだろう。


 だが生憎とこの男は――、


「先約済みだ」


 傅かない一割側の男だった。


「だよねぇ……」


 その反応を理解していたかのように、ティナは大袈裟に溜息を吐いて肩を落として見せる。


――よくもまあ、ころころと感情を変えられるものだ。


 彼女の呟きから心細さのようなものを感じ取り、徐に溜息を一つ挟んで口を開く。


「私を雇って何と戦わせるつもりだ」


「んー、化け物?」


「ハルモンドに惚れている男達に守ってもらえば良い」


「私の内面を見ずに外見に惚れてるだけの男ではね。せめて一万――、ううん、十万、一億、数を集めた所で死体の山が増えるだけじゃないかな」


 アーベルトを真似た言葉に鼻白む。そんな大層な化け物が何故この女を狙うのか、理由は色々と想像は付く。


「最低でも私と同程度の力を持っている化け物か」


 彼女をあの地に拘束したのが、その化け物なのか。

 それとも化け物から逃れる途中にああなったのかは定かでないが、完全な無関心にもなり切れず、どうするべきか考える。


「明日の昼過ぎにはトレスドア要塞に駐留しているレーンベルグ軍と合流出来るだろう。彼等に相談してみると良い。帝国に仇なす存在ならば始末に動くだろう。倉澤――――、冒険者に依頼するという手もあるが」


『その化け物を私が始末してやろう』とは言えなかった。

 感情論だけで言えば、不安げにしている女――、いや、人の悩みの種を駆除するのはやぶさかでは無い。

 だが、理性を無視する程の強烈な感情をこの女に持ち合わせてなどいない。恩や義理があるわけでも無い。

 主の命令、己の役目、この女の願い。その優先順位など今更考えるまでも無い。

 とは言え、この女が権威を振りかざして来たら切り捨てるのも難しくなってくる。そう考えたが故の助言だった。


「そう言えば、アー君は何をしにきたの? 私の救出ってことは無いみたいだけど」


「主の命令でな、化け物退治だ」


「私を追う化け物と、アー君が退治しようとしてる化け物が同じ化け物なら良かったのにね」


「あの化け物がハルモンドを狙う、か。有り得んな」


「えー?」


「あの化け物達にとって人間という存在は塵芥も同然だ。私も、ハルモンドも、亜人も、獣人も、もしかしたら神さえも自分達以外の存在は等しく屑みたいなものだろう。あの十九体の化け物達にとってはな」


「十九って、ルカビアンの十九魔人? 誰? 誰と戦うの? 誰と戦おうとしているの?」


 それまでの気落ちした態度や人をからかうような態度が一転してティナはアーベルトに縋り付くように迫る。


「お前を狙う化け物と言うのは……魔人のことを言っていたのか? 私はバエルを討ちに来た。お前を狙っている魔人は――」


 あからさまにティナが肩を落としていた。少なくとも彼女を狙う魔人はバエルでは無いらしい。

 当然だがそこまで偶然が重なるということは無かった。


「ねえ、アー君」


「なんだ?」


「バエルの居場所を教えてあげるって言ったらどうする?」


 黒鹿毛の足が止まった。まるでアーベルトの逡巡を読み取ったかのようだった。


「何故、お前がバエルの居場所を知っている」


 問いかける口調と目線は鋭利な刃物を思わせる程鋭く冷たい。

 視線に射貫かれ、ティナは身を竦ませた。

 普段温厚な大人に激しく叱責された子供のような怯え方だったが、アーベルトの詰問するような視線は些かも揺るがない。

 どれ程そうしていただろうか。ほんの数秒か、数分か、それとも数時間か。


 ティナが諦め混じりの溜息を吐く。その中には若干の怒気が含まれていた。

 それどころか彼女が無自覚に放出する魔力に威圧的な力が不可視の力場となって形成され、周囲を浸食していく。

 ただならぬ雰囲気に黒鹿毛が落ち着きの無い様子で足踏みをしたり、鼻息を荒くする。


「あのね、アー君? 私を誰だと思ってるの?」


「知らん」


 アーベルトにとってこの程度のプレッシャーなど圧力の内に入らない。

 たったの一人で魔人の討伐を命じられ、そこに何の悲嘆も無く、それが当たり前であるかのような態度で出向こうとしているような男だ。当然と言えば当然である。

 現にティナの怒気など微塵にも気にも留めることなく、バエルの居場所を知っている理由を答えろと彼の双眸が語っていた。

 同じ言葉を口にするつもりは無いと言わんばかりの、ある種の傲慢さを湛えた眼に、ティナが呆れたような溜息を吐いて肩を落とす。


「む……」


 聞き分けの無い子供を前にした母親にも似たティナの諦観に、アーベルトが『何故だ?』とでも言いたげな戸惑いを見せたのが、奇しくも彼女の溜飲を下げた。


「サマーダム大学に封印されてる魔術兵装の中に、ヤンクロットの眼っていう魔人達の居場所を探知する魔術兵装があるのは知ってる?」


 アーベルトは無言で頷く。グァルプに奪われ、そのまま消失した魔術兵装だ。

 そういった意味では、その魔術兵装の名は屈辱を示すと言っても過言では無い。


「私は魔人に狙われてます。そして、世の中には魔人の居場所を探知する便利な魔術兵装があります。封印されてて持ち出しが出来ません。盗むのはちょっと無理っぽいです。だったら似たようなのを自分で作るのって別に普通のことじゃない?」


「ああ、普通だな。実現不可能ということに目を瞑ればな」


「そこは私が凄いからってことで」


「しかし、ハルモンド。お前は何者だ? 恐らく貴人なのだろうが、一個人が魔人に付け狙われるなど聞いたことが無い」


 先程、アーベルトが口にした通り、魔人にとって乞食も神も大差は無い。

 彼女が貴族であったとしても、その立場や血は魔人にとって何の価値も、何の意味も示さないものの筈だ。

 ならば、魔人の興味を引く、他者とは違う何かが、魔人達にとって致命的な価値があるのでは無いかと考えた。


「それはグァルプに聞いてよ」


「また奴か……!」


 呻くように声を絞り出し、頭を掻きむしる様に抱える。

 ティナにとっては意外過ぎる姿だが、アーベルトをよく知る者にとっては普段通りのポーズである。


「また……って、アー君もグァルプと因縁があるの?」


「直接的な面識は無いが、色々とな。そもそも、バエルやフィラビオが帝国各地で暴れ回っているのもグァルプを燻り出す為だ。比較的居場所が分かり易いという理由でその二体を討ち滅ぼす為に私が出向いた。つまり、私にとっての諸悪の根源だ。早かれ遅かれ、私か倉澤が奴を殺すことになる。お前が隠れている間にケリを付けてやる」


「そうしたいんだけど、グァルプって今は絶無の零って人間になったでしょ?」


「……成る程。奴が零になってから居場所を調べることが出来なくなったということか」


「そういうこと! 今は対グァルプ専用の隠匿術の重ねがけで誤魔化してるけど何処かで鉢合わせになったら怖いし……」


「繰り返しになるが早かれ遅かれ、私か倉澤が殺す敵だ。それまでの間、ソウブルーの庇護に入ると良い」


「んー、アー君に守ってもらいたいんだけどな」


『ならば、私と共に来るか?』と口にしようとして止めた。

 これからバエルを討ち滅ぼしに行く。今の段階で勝敗を明確にするのは困難だが、仮に勝利してソウブルー要塞に帰還を果たしたとしよう。

 次に主が望むのは魔人フィラビオの討伐だ。

 倉澤蒼一郎が故意に敗北し、クラビス・ヴァスカイルに渡り、刻印装甲を手に入れたことで単独で上位の魔人を討ち滅ぼす程の力を得た。

 それと同様に、忠実な右腕に上位の魔人を討ち滅ぼすことを命じてくるのは想像するまでも無い。

 どうやら主君は忠臣の勝利を信じて疑っていないようだ。

 単独でも上位の魔人と渡り合えると信じ切っている。

 つまり、主君の気が済むまで当面の間、アーベルトは危機に身を委ねる他無いのだ。

 そんな状況で年若い女を巻き込む気にはなれなかった。


「私にも役割というものがある。お前の期待には応えられん。だが、窮地に陥った時に私がまだ生きているようなら言え。役目を果たすついでに始末してやっても構わん」


 そう口にするのがアーベルトの精一杯だった。


「魔人と戦うって言うのに、そんなことが言えるのはアー君くらいだよ」


「そうでも無い。私が知るだけでも後二人くらいは同じ台詞が吐ける」


 彼自身の魔人との交戦経験はライゼファーくらいのものだったが、過信でも謙遜でも無く、『下位の魔人程度なら何とか出来る』

 それがこの男の正直な感想だった。


 暫く、道なりに進み山道の半ば程まで進んだところで土砂で崩落した大地に行く手を阻まれる。


「これは私の出番かな?」


 何が楽しいのかティナが揚々と声を張り上げるが「そんな物は無い」とあっさりとその出番を奪った。

 アーベルトが懐から取り出したのは長さ四十センチ程の、指揮棒のような細く撓る棒だった。

 棒の先端を真正面に突き付けると同時に、魔力によって形成された力場の影響を受けて辺り一帯が捲り上がっていく。

 そして次の瞬間、アーベルトが手にした棒が瞬時に膨張した。それは巨大な武器と言うよりは巨大な物体だった。

 直径にして五メートル。長さ約二キロ。巨大な鉄柱だ。

 それが崩落した土砂を貫いた。鉄柱の形が更に変わっていく。崩落した大地を貫くと、空洞(トンネル)を形成したのだ。

 アーベルトは中身ががらんどうになった鉄柱から手を離すと「行くぞ」と身近な言葉だけを放って、黒鹿毛に歩を進ませた。


「これって魔術兵装?」


「そうだ」


 自在事法の理――。それがアーベルトを象徴する唯一無二の魔術兵装だ。

 その能力は別に大した物では無い。魔力を対価にしてアーベルトの都合の良い様に形状と性質を変化させる能力を持つ、ただそれだけの魔術兵装だ。

 だが、それだけで魔人にも匹敵する戦闘能力を持つ蒼一郎とメアリの準備運動を、力尽くで中断させる程の威力と質量を持つ巨大剣を構築することさえも出来る。


 力尽くで作ったトンネルの半ば程に辿り着いたところで、黒鹿毛が足を止め、アーベルトとティナが一瞬だけ身体を強張らせた。

 燃え滾るような熱量を思わせる暴力的な魔力。

 その余波を感じ取ったからだ。大集団による大規模魔術の気配だ。


「交戦中、相手は魔人か」


 トンネルを抜ければトレスドア地方だ。大規模魔術を行使する集団がいるとすれば、それはレーンベルグ軍だ。

 レーンベルグ軍にはバーグリフやアーベルトのように個人要塞と称される、圧倒的な個人戦闘能力を保有する者はいない。

 だが、システマチックに管理されたレーンベルグ軍は兵隊一人一人の戦闘能力が非常に高く、総合能力で比較したらソウブルー軍よりも頭一つ、もしくは二つ優れている。

 それだけの力を持つレーンベルグ軍が、大規模魔術を行使せねばならない程の脅威など、魔人か邪神の二つに一つだ。


「あーあ、バエルの居場所を教える代わりに守ってもらおうかと思ったのに」


 アーベルトの独り言にティナが反応を示す。

 確証があったわけでは無かったが、この先にいる脅威がバエルであることにアーベルトは安堵する。

 この先にいる魔人がバエル、フィラビオ以外の魔人で、それを打ち倒したとしても『流石は我が右腕だ! しかし、私の命は魔人バエル、魔人フィラビオの首を獲って来ることだ。我が従僕よ、再び出撃せよ!』となるのは目に見えている。


 しょげ返るティナを無視して黒鹿毛に歩みを再開させる。

 進めば進む程、身を叩く熱波が強くなっていく。

 それは第六感で捉えるものでは無く、物理的な衝動を伴い、ティナの髪やローブを靡かせるまでになっていた。


「戦況は、良くないようだな」


 トンネルを潜り抜けると同時に彼等の側に炎に包まれた人が降って来た。

 地面に叩き付けられ既に炭化していた肉体を粉々に飛び散らせる。

 炭化しているとは言え、肉片は肉片だ。

 好き好んで頭から被ることも無いと、それを掌の返しだけで弾き飛ばし、周囲の様子に視線を向ける。

 どれ程の炎が放たれたのか、見晴らしの良い大草原の至る所から黒煙が立ち昇り、焼き尽くされた草木の残骸が大地を黒と灰色に染め上げていた。

 十キロ程先に屹立するトレスドア要塞にも火の手が上がり、強化した視覚が武装した亜人や獣人たちの姿を捉えた。

 その反対側にはレーンベルグ軍、両軍の中間辺りに武装したドワーフとトロールの軍勢、三軍の間には炎を纏う死神がいた。


「あれが魔人バエルか」


 ワインレッドのスーツに死神を思わせる巨大な大鎌を携え、ヤギの頭蓋骨を模した仮面を被っている。

 延々と燃え盛り、しかし決して燃え尽きることの無い炎のジャケットを纏っている出で立ちも異様だが、視認しなければ認知出来ない程に隠匿された膨大な魔力の塊が人の形を模している姿は余りに不気味だった。


 レーンベルグ軍、亜人・獣人の連合軍、あのドワーフとトロールの軍団は恐らくは絶無軍だろうか。

 状況の詳細は理解出来なかったが、大混戦であることだけは理解出来た。


「ハルモンド」


 ティナを呼ぶ声に返事は無かった。無視されたのでは無い。

 言葉の代わりにアーベルトの腰に回す手に力が少し加わった。

 震えているわけでも、恐れているわけでも無いようだったが、恐怖に近い感情がその細い腕から伝わったような気がして、その手を優しく撫でる。


「一人で引き返せるか?」


「え?」


「私に与えられた命令は魔人バエル、魔人フィラビオの討伐だ。しかし、絶無の零も魔人に匹敵、いやそれ以上の脅威だ。バエルと零が争っているのなら丁度良い。此処でまとめて始末する。それでお前の心配事も全て無くなる」


「勝てるの?」


 彼女の細腕に力が加わっていく。

 行かせることを不安がっているかのようだった。

 その手を優しく引きはがし、アーベルトは黒鹿毛から降りる。


「私が負けるとでも?」


――結果など知れている。


 そう言わんばかりの自信に満ちた態度だった。


 元々、レーンベルグ軍が亜人・獣人連合軍と激戦を繰り広げる中、魔人バエルが乱入。

 両軍を巻き添えにしてトレスドア要塞を攻撃し、その余波でトレスドア地方を混沌と共に火の海に沈めた。

 両軍に限らず、全ての命が危機と混乱に陥った。

 アーベルトが予測した通り、バエルはトレスドア要塞が零に関わりの深い地であることを知り、零を精神的、肉体的に追い詰めんとトレスドア要塞への侵攻を開始したのである。

 既に争い合ってた両軍のことなど気にも留めない傲慢な第三勢力の侵攻が、両軍の足を止めたのだ。

 精鋭から成るレーンベルグ軍はまだマシだった。


 トレスドア地方の支配者アルスディヤが零の手によって殺された後、この地での支配構造が逆転した。

 人間の奴隷扱いを受けていた亜人・獣人たちが一斉に蜂起し、人間達を支配下に置いた。

 だが、その後、この地を誰が支配するかで亜人・獣人たちの間で争いが勃発。

 抑圧からの解放による闘争であったことは事実だが、それ以上に零が有力なドワーフとトロールを引き連れ、この地を去っていったことで制御する者がいなくなったのが、一番の原因である。

 トレスドア地方どころか、トレスドア要塞の中で群雄割拠の内乱が繰り広げられる有様で、レーンベルグ軍が攻め寄せて来たことで漸く、仮初めながら一致団結するに至った。

 だが、所詮は仮初めで、魔人バエルの出現により指揮系統は混乱。

 その場で亜人・獣人連合が解体され、そのまま戦闘が行われそうな程に剣呑な雰囲気が漂っている。


 其処にその混乱に拍車をかける第四勢力が出現した。

 絶無の零こと魔人グァルプが率いる絶無軍である。

 魔人がグァルプ抹殺のために攻勢をかけること自体は、想定していた通りのことだった。


 寧ろ――、


「返り討ちにしてその力をこの身に取り込んでくれるわ」と血気に逸る程だった。


 だが、帝国各地を無差別に襲撃するのは想定外であった。

 かつてのグァルプなら『ヒトモドキの中に紛れて逃げ回る裏切り者がいる? だったら虱潰しにすれば良いでは無いか。その内逃げ場を失い自棄を起こして己から死にに来るだろうよ』と口走っていた筈だ。

 ルーフリード経由で何もかもが露見してしまったが故に、零はありとあらゆることに警戒の眼を向けていた。


 ルカビアン達に自覚があるか定かでは無いが、彼等の大雑把で杜撰で無差別的な攻撃は零に多大なるダメージを与えた。

 肉体的にではなく、社会的にだ。

 帝国各地の主要都市が次から次へと陥落していく原因が元氷の団幹部、絶無軍を率いる絶無の零で、その正体が魔人グァルプだったと事が露見しようものなら――既に露見しているが――、帝国全土が絶無軍の敵に回ることを意味する。

 今までのような遊びも、試しも無く、力を得るためでも無い。

 一刻も早く――既に手遅れだが――、帝国各地を焦土化する魔人達を始末せねば、己が帝国に殺される。

 特に動きが活発な魔人バエルを狙って、この地を訪れたが、零にとっては最悪なことにレーンベルグ軍からも剣呑な空気が漂い始めたのだ。

 亜人・獣人連合は救世主とも言うべき男の登場に歓喜する一方で、トレスドアを無責任に引っ掻き回した張本人と憎む者の声もあがり、連合が更に割れた。

 意図した通りの混沌と予期せぬ混沌が絡み合い、其処に状況を更に悪化させる男が出現した。



 そう、第五勢力――、帝国衛兵団ソウブルー地方統括軍団長アーベルトである。

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