第八話 魔人よりも風呂だ
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死したる勇者が行き着く最後の国クラビス・ヴァスカイル。
その死者の国と現世を繋ぐこと。それが錬金術師カトリエルの目的だった。
それが何を意味するのか。それを自分に判断出来るだけの材料は持ち合わせていない。
ただ、それを聞いたリディリアさんが彼女に対し、敬意の念を込めた表情を浮かべていたのが印象的だった。
多分、凄いことなのだろう。
だから、よく分からないなりに尋ねてみることにした。
「クラビス・ヴァスカイルには何かお目当ての物でも?」
「ええ。あの世界に住む勇者たちに聞きたいことがあるのよ」
「聞きたいこと?」
「効果的な魔人の殺し方。彼等ならそれが分かると思うのよ」
彼女の口から矢鱈と物騒な言葉が飛び出した。呆気に取られているとリディリアさんが声をあげた。
「魔人が復活した話、ソウブルーにも届いていたんですか!?
数日前までジエネルで働いていたんですけど、いきなり空から魔人が! それでソウブルーまで避難してきたんです!」
「ジエネルにも魔人が?」
意外そうな口調でカトリエルさんが言った。
トーヴァーさんは魔人の復活に懐疑的な物の見方をしていた。
ジエネルを壊滅させたのは魔人では無く、卑劣の王オライオンでは無いのかと。
だが、彼女の口振りは魔人は一体だけでは無く、ジエネルという地域には存在しない筈だと言っているように聞こえる。
「魔人は一体だけでは無いのですか?」
「歴史上、帝国に敵対的な魔人は十九体が確認されているわ」
厄介な話だった。ジエネルの規模や戦力がどれ程の物か自分には分からない。
だが、単独で人里を壊滅させる程の力を持つ化け物が十九体も存在して、少なくともその内の二体がふらふらと出歩いて人を襲っている。
自分だけなら別にどうでも良い。死ねば夢から覚めるかも知れない。だが、ここには胡桃さんがいる。
例え夢の中の出来事であっても、今の胡桃さんの姿が現実世界とは違っていたとしても、この子が危険な目に遭うなど絶対にあってはならない。
この世の全ての罪と悪が許されたとしても、家族に累が及ぶことだけは許されてはならないことだ。
本来ならこんなことに関わろうとも首を突っ込もうなどとは思わない。
だが、それは駄目だ。駄目になってしまった。
知ってしまった。脅威の存在を。
知ってしまった。脅威に立ち向かう人の存在を。
状況を打破する一手を知ってしまった以上、何もせずにはいられなかった。
この世界が夢だろうが、そうで無かろうが関係ない。俺の家族を害する危険な存在がいる。
その存在からは逃げられない。避けられない。だったら俺のやるべきことは決まった。
――魔人を殺す。皆殺しだ。それしかない。
「カトリエルさん」
「何かしら?」
「貴女の研究に協力させてもらうことは出来ませんか?
極めて個人的な理由により、魔人を皆殺しにしておきたいのです」
カトリエルさんの眉がピクリと動いた。
相変わらず、涼しい顔をしているが何処と無く驚いたような雰囲気が漂っている。
トーヴァーさんが懐疑的な反応を示していたことからすると、魔人の存在を信じ、受け入れるというのは一般的な反応では無いのかも知れない。
彼女を驚かせてしまったが、このままではおちおち散歩を楽しむことも出来やしないのも事実だ。
魔人を皆殺しにするべきだと考えはしたが、生憎と人里一つを壊滅させるような化け物を殺せるような力、自分は持ち合わせていない。
都合良く復活した魔人を皆殺しにして、復活していない魔人を永久に封印するような力が目覚めれば良いがそんな気配も無い。
自分が見ている夢のくせに融通が利かない。
だが、だからこそ自分には魔人と戦えない。殺せない。
それなら彼女の研究に協力して魔人を効率よく殺す手段を得て、戦士ギルドの連中、ルトラール辺りに討伐させれば良い。
「お互いの利益のためってことね。でも、何処まで貴方のことを頼って良いのかしら?」
自分に出来ることなど知れている。魔人は元より、錬金術のことなんて何一つ分からない。
きっと彼女の力にはなれない。
「残念なら自分に出来ることは知れています。ですが、貴女の研究を阻む瑣事を片付けるくらいのことなら」
情けない話だ。力も無ければ知識も無い。出来ることは精々小間使いの真似事だけだ。
それでも胸の奥には止まること無く込み上げてくる衝動があった。何かをせずにはいられなかった。
「そう。だったらまずは冒険者としてギルドに加入してもらえないかしら」
「それでしたらリディリアさんに勧められていたので身の振り方の一つとして検討はしていましたが」
「それなら好都合ね。冒険者ギルドの仕組みはご存知かしら?」
「いえ、全く」
「蒼一郎さんって変な所で世間知らずですよね」
リディリアさんがくすくすと笑いながら言った。
自分は現実世界の人間であって夢世界の住人では無いのだから仕方が無い。
しかし、自分が見ている夢である以上、これまでに自分が(ゲーム等の世界で)見聞きしてきた物の集合体みたいなものだろう。
一応、確認のために冒険者ギルドについての説明を聞くことにした。
冒険者とは新大陸等の新天地、秘境と呼ばれるような未開拓地を探索する者の総称だ。
未知の世界には魔人や魔物といった未知の脅威に遭遇することがある。
時には未知の物質や資源、技術に触れることもある。
それらに対応するため、冒険者には力や技、知識や知恵、技術が要求される。
時代が進むにつれて未知、未開、未踏の存在は加速度的に減少していく。
それでも、力、知恵、知識、技術は残り、冒険者という存在が消えることは無かった。
何より冒険者たちは帝国に数大くの利をもたらし続けて来たという歴史がある。
帝国だけでは無い。戦士ギルドには協力な武器や防具を、魔術師ギルドには新たな真理を、盗賊ギルドには洗練された技術を、サマーダム大学には未知の知を、それぞれにもたらした。
そうして冒険者達は揺るぎない名誉と権威を得た。その総本山が冒険者ギルドだ。
時代は流れ、今や冒険者たちは力、知恵、知識、技術を駆使する荒事専門の何でも屋だ。
当然だが、冒険者ギルドに名誉や権威があるとは言え、新米の冒険者がそれにあやかれるようなことはない。
冒険者たちは最下層のFランクから始まり、能力と実績に応じて、E、D、C、B、A、S、SSの順にランク分けされているが、ギルドの地位や名声にあやかれるようになるのはAランク以降でBランク以下はその日暮らしの何でも屋でしかないらしい。
流石は自分の夢。どこかで聞いた覚えのある設定だ。
それはさて置き、現状、冒険者ギルドに加入したとしても自分が役に立てるとは到底思えなかった。
だが、冒険者ギルドは帝国内に存在するありとあらゆる組織の性質を内包し、その雛型となった組織でもある。
その事から、冒険者ギルドに所属する冒険者は例外的に各ギルドの依頼を受けることが出来、伝統的にそれが認められている。
通常なら戦士ギルドの戦士が魔術師ギルドの依頼を受けるなどということは絶対に許されないし、その逆も然りだ。
冒険者ギルドの冒険者に限って各組織の縄張りを自由に行き来することが出来るのは、それだけ帝国にとって冒険者という存在が特別だということの証明なのだろう。
カトリエルさんは、自分を冒険者に仕立て上げることで帝国各地に点在するギルドが持つ情報を得ることを望んだ。
様々な組織の縄張りを自由に行き来き出来るということは、それだけ多くの情報と人脈を得るれるということだ。
今の自分達に必要なこと。それは情報だ。
この世界とクラビス・ヴァスカイルを接続する方法、もしくは生者のままクラビス・ヴァスカイルを自由に行き来する方法。それが要る。何はともあれ動かなければ話も進まない。
「分かりました。まずは冒険者として身を立てることにしましょう」
「ええ。お願い出来るかしら? 冒険者ギルドへの推薦状は私の方で用意しておくわ。
勿論、仕事の依頼もギルドを通して貴方を指名させてもらう。そうすればランクも早めに上がるでしょ」
カトリエルさんの頼みを二つ返事で引き受け、彼女の店を跡にした。
三日後、胡桃さんのチョーカーに施す魔術効果の付与作業が完了するらしく、その時に冒険者ギルドへの紹介状と一緒に引き渡してもらうことになった。
ついでに重たい金貨を持ち歩くのが億劫だったので彼女に前金と言って、金貨千枚を押し付けてきた。
身軽になって清々する。
リディリアさんが「金貨四桁も持ち歩く人、初めて見ました」と呆れたように言っていたが、銀行制度が確立しているなら予め教えておいて欲しかった。次からは銀行に預けておくことにしようと思う。
カトリエルさんの店に長居が過ぎたらしく、職人地区から商業地区に戻る頃には空が茜色に染まっていた。
美人との話はどんなに長くても苦にならないので何の問題にもならないが。
それはさて置き、日中の喧騒とは打って変わって露天商も引っ込む支度をしていて、店の入り口前で大声を出していた客引き達も姿を消している。
出店が引っ込めば客も引っ込む。あれだけ人の波が出来ていたのにみんな何処へ行ったのやら。
先に宿を探しておいた方が良かったかも知れない。
宿泊所は何処も満席で今夜を過ごす場所が見つからないかも知れない。
幸いにもその懸念はすぐに解消された。
今朝の殺人事件が起こった商業地区入り口の扉のすぐ近くにあった大きな藁葺き屋根の建物。
返り血を浴びたエルフの血痕が残されていたあの建物が宿屋だったのだ。
しかも、八雷神教会の司教二人が被害になった殺人事件の現場直ぐ近くということもあり、かなりの空室が出来ていた。
店の主人には気の毒だが、店探しに難儀をせずに済んで幸運だった。
案の定と言うか、矢張りと言うか、リディリアさんが少しばかり難色を示していた。
ただ自分と胡桃さんが全く気にしていない上に、完全に日も暮れようとしてる中、宿を探して歩き回るのも辛い。彼女は渋々といった様子で、この宿に宿泊することを承諾してくれた。
昨日と同じく自分と胡桃さんに二人部屋を一つと、リディリアさんに一人部屋を一つ借りる。
暫くしてから一緒に食事へ出かけようと一旦リディリアさんと別れた。ここからが大仕事の始まりだ。
自分の現在の心境だが、今のこの状況は夢だという気持ちが七割。
もしかしたら夢じゃないんじゃないかという気持ちが三割だ。
それでだ。この状況が夢じゃない場合、色々な問題が発生する。
差し当たっての問題、それは――
「昨日、風呂入ってないな」
問題は色々あるが、まずは風呂だ。
「うぇ……」
胡桃さんの顔を見て「風呂」と言い放つと胡桃さんの口から変な声が漏れた。
この子は風呂が嫌いだ。嫌いで嫌いで、どうしようも無く嫌いだ。兎にも角にも大嫌いだ。
現実でも、胡桃さんを抱き上げ浴室に連れて行くと全身を震わせ、猫の様に爪を剥き出しにして全力でしがみ付いてくる。
それを引き剥がしてお湯をかけると泣く。
咆えるでも、鳴くでも無く、泣く。
全力で泣く。
その泣き声というのが嫌いな奴を恫喝する時のような重低音に響く咆哮でも無ければ、家族に甘える時の高い声色でもない。
どちらとも似つかず、何処から出ているのかよく分からない凄まじい泣き声を浴室に轟かせる。
声だけを聞いたらまるで自分が虐待しているかのような、そんな尋常では無い泣き声だ。
倉澤家の中でも特に胡桃さんに好かれてる祖母ですら、その泣き声を止めることは出来ない。
さて、今の胡桃さんの身体は犬では無く、人だ。
犬なら汗腺が少なく、体臭も殆どしないから風呂に入らなくても良かった。
だが、人の身体である以上、胡桃さんが嫌がるから半年に一回しか風呂に入らないなんてことを許すわけにはいかない。
「胡桃さん、お風呂入ろっか?」
「……イヤ」
怖がらせないようにいつも以上に声色を優しく、笑顔を意識したが、胡桃さんは耳を倒し、顔面を蒼白にして絶望的な表情で首を横に振った。
人間の女の子の姿をしているせいで、いつも以上に悪いことをしているような気分になる。心が圧し折れそうだ。
『そうだよねー! 嫌だよねー! ごめんごめん! 冗談冗談!
胡桃さんは綺麗だから別に風呂なんか入らなくったってヘーキヘーキ! さー、ご飯食べに行こっかー!
今日の晩御飯は胡桃さんの大好物ばっかだよー!』
――なんて口走りたくなる衝動に駆り立てられる。
心が折れそうになるが、折れるわけにはいかない。
「胡桃さん、おいで」
部屋のベッドの上に腰を下ろして手招きする。ここで怒鳴ったり叱ったりするのは逆効果だ。
胡桃さんが部屋の入り口前で右往左往しているが、同じことを何度も言うことをせず、辛抱強く、笑顔を意識したまま胡桃さんがこちらに来るのを待つ。
「うぅ……」
やがて観念して情けない声を漏らして、のそのそと自分に近付く。
その様はまるで断頭台に向かう死刑囚のような悲壮感に満ちていた。
自分の前まで辿り着くと胡桃さんは膝の上に飛び乗り、背中を自分に預けた。
観念したと思ったら全然観念していない。背中を力強く自分に押し付ける。
ハーネスを脱がすためのバックルとカラビナは背中に付いている。
これでは脱がすことが出来ない。いつもは脱ぎたがりのくせに。
涼しい顔で抵抗する胡桃さん。
『脱がなかったらお風呂には入れまい!』とでも言いたげな表情を浮かべている。
流石は胡桃さん。非常に可愛い。だが無駄だ。
胡桃さんの両肩を両手で軽く押して、隙間に指を滑らせ着脱用のバックルとカラビナを外し、そのまま背中から脇腹にかけて更に指を滑らせる。
「わっひゃあ!?」
くすぐったさの余りに飛び跳ねる胡桃さん。
脇腹が弱いのは犬の身体の時と同じらしい。
だったら胡桃さんに勝ち目は無い。
もう十五年の付き合いだ。胡桃さんの身体をどう触れば、どう反応するかなんて自分も、母も、祖母も、倉澤家の人間ならみんな把握している。
胡桃さんの腰が浮いている隙にショートパンツも膝まで引き摺り下ろす。
「うあー……」
これ以上の抵抗は無意味と悟った代わりに胡桃さんが深々と溜息を吐いて恨みがましい目に涙を浮かべる。
胡桃さんが不潔だの臭いだのという扱いを受けるのは我慢ならないし、衛生面の問題もある。
意思の疎通が簡単な今の内に風呂に慣れてもらうことにしよう。
いっそ胡桃さんが泣き叫ぶ前に自分が泣き叫んでみようか。今の状態なら譲歩してくれるかも知れない。
と言うか胡桃さんの涙が浮かぶ恨みがましい目に気圧されそうになっている自分がいる。
折れそうになる心をどうにか立て直し、ベッドの上に服を脱ぎ捨て胡桃さんを抱えて浴室へ向かうと案の定、胡桃さんが自分にしがみ付いて来る。コアラみたいだ。
「大丈夫、大丈夫だよ」
胡桃さんの背中を撫でながら浴室に入り、扉を閉じ、しがみ付かれたまま浴槽の中に身を沈めていく。
硬直した身体が更に強張り、自分の身体をギリギリと締め付けていく。
現実世界でもこんなに小さな身体の何処にそんな力が秘められているのやらと感心したものだ。
「うー……あー……」
「ほら、怖くない。怖くなーい」
胡桃さんの身体が犬だった時は抜け毛の量が半端じゃなかった。
風呂上りに浴槽の栓を抜こうものなら排水溝が詰まって面倒なことになる上に、抜け毛が全身にへばり付いて風呂に入り直す羽目になる。
だから、こうして一緒にお湯に浸かるということが出来なかった。
人化して体毛も無く、抜け毛が無い今なら一緒にお湯に浸かって、言葉をかけ続ければ、風呂に対する苦手意識を解消できるかも知れない。
「ほーら、胡桃さん、お風呂気持ち良いねー」
胡桃さんの頭を撫でながら、真っ白な肩に少しずつお湯をかけてやると、しがみつく胡桃さんの力が少しだけ緩んだ。
自分からしてみれば絶叫染みた悲鳴をあげやしないだろうかとドッキドキである。
正直、その状況で踏み込まれたら自分など強姦魔にしか見えやしない。
『いやいや、この子、こう見えて犬ですから』と釈明しても信じてもらえるわけが無い。
「ますたー、もう出たいー……」
「でも、まだ洗ってないからもう少し頑張ろうね? ご褒美は何が欲しい?」
兎に角、物で釣ろう。抵抗されるのはまだ良い。
だが、大声で泣かれるのは困るし、一番怖い。
もしも、この世界が夢では無く、現実だとしたら自分が社会的に死ぬ。
「卵焼きと、レバーと、唐揚げ。それならがんばる」
ここぞとばかりに要求を増やす胡桃さん。これで泣かずにいてくれるなら安い物だ。
それに、これを機に風呂嫌いが直れば海や川で水遊びをして遊ぶことが出来るようになるかも知れない。
テレビとかで水遊びをしている犬と飼い主の姿を見て羨ましいと思ったことは一度や二度ではない。
小一時間ほど湯船に浸かっていたかったが、今の胡桃さんに付き合わせるのは酷なので、手早く髪と身体を洗って風呂を済ませ、浴室の扉を開けると弾かれた様に胡桃さんが飛び出した。
いや、逃げ出したと言った方が正確か。
そうして身体の水気を拭き取ろうと飛び乗ったベッドに身体を押し付け始めた。
張り付いた髪が鬱陶しいのか何度も水気を弾き飛ばそうと勢いよく首を振り始めた。
身体が人間になってしまっただけで行動はいつも通り。実に可愛らしい。
胡桃さんを眺めてばかりもいられないので自分も手早く身体を拭いて、脱ぎ散らかした服に再び袖を通す。
服は兎も角、一度脱いだ下着を使うのはどうにも抵抗がある。やっぱり、明日は着替えを買いに行こう。
勿論、ダニエラさんの店以外で。
「髪を拭いてあげるから大人しくしててねー」
「はーい♪」
風呂から解放されて上機嫌に返事をする胡桃さんと向かい合う格好でベッドに腰を下ろす。ベッドの上が湿っている。
どうせベッドはもう一つあるし、今夜は無事な方のベッドで胡桃さんと寝ることになるので一つくらい駄目になっても何ら問題はない。
「胡桃さんもますたーのことふいてあげるー」
天才犬ならではの好奇心と挑戦だ。否定も拒否もあり得ない。
どうなるのか任せてみようと思ってタオルを差し出すが、胡桃さんはタオルを受け取らずに身を乗り出し、自分の肩に手をついて首筋に顔を近付け、鎖骨に舌を這わせて得意気に言った。
「ここぬれてたよー」
ああ、そう言えばそうだった。身体に水滴を付けたままにしていたら胡桃さんに舐め取られるんだった。
いつもは風呂上りに脛を舐められることが多いから、そこしか気にしていなかった。
人化した胡桃さんに足を舐めさせるのは大問題だが、首回りを舐められるのも問題だ。
「蒼一郎さん、胡桃さーん? 準備出来てますー?」
何が問題かって扉一枚を隔てた向こう側にリディリアさんがいるというにも関わらず、胡桃さんが未だに全裸だということだ。
今、彼女に部屋の中に入って来られるのは非常に不味い。多分、変な誤解を受ける。
自分が逆の立場ならまず間違いなく誤解する。
「すいません。すぐに服を着ますので少々お待ちを」
「ご、ごめんなさい!! 来る早過ぎました!?」
彼女が焦った様子で返事をする。恐らく彼女の頭の中では全裸の自分が思い浮かんでいることだろう。
上手く思考を誘導することが出来た。これでリディリアさんに部屋の中に踏み込まれる心配は無くなった。
口では何でも無いような態度をしつつ、泡食いながら胡桃さんに服を着せる。
その最中、胡桃さんが「また服きるの?」と不満を口にしたのには流石に焦った。
慌てて「さー、ご飯食べに行こうかー!」と大声を出したのは、わざとらし過ぎたかも知れない。
ちゃんと胡桃さんの声をかき消すことが出来ていただろうか。少し不安だ。
胡桃さんの身だしなみを整え、胡桃さんと手を繋いで何食わぬ顔で廊下に出る。
「お待たせしました。それでは行きましょうか」
まだ自分の全裸でも想像していたのだろうか。無言で何度も頷くリディリアさんの顔は赤く上気していた。
石鹸の爽やかな香りと相まって実に良い具合だ。
外に出ると街燈が煌々と夜のソウブルーを明るく照らし、牧歌的な商業地区をより幻想的に演出する。
これは中々良い散歩コースとして使えそうだ。胡桃さんの足取りも心なしか軽いように感じた。
そうして自分たちはソウブルーの夜風を楽しみながら飯屋を求めてぶらつくのであった。
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Copyright © 2017 芥川一刀 All Rights Reserved.
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