sub side 02 胡桃さんは犬である。
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鍛冶職人組合の会長ロイドに気に入られた蒼一郎が朝からソウブルーの外に行ってしまった。
残されたカトリエルとリディリアの方はと言えば気が気でなかった。今日は蒼一郎が丸一日いない。
胡桃は前も目覚めた時に蒼一郎がいないと火が付いたように大泣きしていた。
正確にはスケイルドラゴンから蒼一郎を守ろうとして返り討ちに遭ったことを恥じた事と、蒼一郎がスケイルドラゴンに殺されたのではと不安がこみあげたことが理由で大泣きしたのだが、それを理解しているのは蒼一郎一人だけだ。
カトリエル達は、これは非常に手を焼きそうだと警戒していたが、危惧していたことが何一つとして起こらず――当然だが――、拍子抜けすることになった。
これまた彼女達が知るよしもないが胡桃の若々しく瑞々しい体の中身は老犬だ。
胡桃にしてみればこうだ。
胡桃さんは犬である。名前は胡桃さん。
お腹が空いたのでビルの解体予定地でクンクン泣いていると中に入り込んだ人間の子供から――、
「死ね! モンスター!」
――と胡桃さんの頭と同じくらいの大きさな石を投げつけてきた。
次から次に飛んでくる石は、どれも当たればとても痛そうだ。
逃げなきゃいけない。だけど怖くて、身体が震えて動いてくれない。
その時だった。救いの女神が現れたのは。
「何ばしよるかっ! こンクソガキども! 轢き殺すぞ、ボケがッ!」
うん、これが救いの女神様の一言です。
プップーと鳴く鉄の箱、車から身を乗り出す人間の大人。
胡桃さんの命の恩人、ママさんの登場だ。
ママさんは車を人間の子ども達に、こつんとくっ付けて、
「死ぬのと、殺されるのと、轢かれるの、どれが良いや? 早く答えろや、オラ。潰すぞクソボケ共が、オ?」
――って言った。
子ども達は凄い声で泣き出し逃げ出してしまった。
「アンタ、一人? 一緒に来んね?」
車の扉を開けてママさんが手招きする。
今ならあの時、ママさんに着いて行って良かったと心の底から思える。
だけど、あの時の胡桃さんにとっては、きゅーきょくの選択だった。
一度は逃げた。あの恐ろしい子ども達よりも、ママさんの方が怖かったから。
立ち止まって振り向いたら、ママさんが泣きそうな顔でもう一度言った。
「おいで。来んなら、もう帰るけん」
それでも危険な香りしかしない。
でも、ここで逃げ帰るのは恩知らずな気がして、ママさんに近付く。
そして捕まった。正確には抱っこされた。
「じゃあ今日からアンタ、ウチの子ね。名前は、お母さんと蒼一郎に決めさせてやろ」
こう言うとママさんは絶対にちがうって言うと思うけど、ますたーが短気で怒りっぽく、乱暴なのはママさん譲りだと思う。
事あるごとにママさんは「一体、誰に似たのかしら」とますたーの不満を口にするけど、ますたーは顔も性格もママさんそっくり。
そんなママさんよりも強い人もいる。
「お願い! ちゃんと面倒見るから! この子、ウチで飼わせて!」
「そんな事言って! どうせ結局、お母さんが面倒見る羽目になるんでしょ!」
あの怖いママさんが、小さな人間の老女――、ばーちゃんに何度も頭を下げて必死に頼み込む姿が、何だかとても不思議だった。
こうして、乱暴だけど優しいママさん。
怒ると怖いけど、いっぱい甘えさせてくれるばーちゃん。
胡桃さんに名前を付けてくれたますたー。
吾輩は犬である。この日、胡桃さんは倉澤胡桃になった。
それから、胡桃さんはますたーと一緒に大きくなった。
ますたーは大きくなりすぎて、色んな所に頭やおでこをぶつけて「おぶっ!」と鳴き声を上げるようになった。
それくらいの頃になると大きな家に一人で留守番するのがイヤじゃなくなった。
ちょっとだけウソを吐いた。
ホントはイヤ。
でも、ますたーとママを困らせる方がイヤだと思えるくらいの大人に、胡桃さんはなったのだ。
お留守番もまともにこなせず、泣き叫んで困らせるような一才や二才の小娘や青二才とは年季がちがう。
だから、今日も大人しくお留守番をがんばろう。ますたーの迷惑になるようなことをしてはいけない。
この家はカトリエルさんの家。
でも、昨日の夜からますたーと、胡桃さん、リディリアさん、皆の家。
今日は日差しの気持ちが良い所と、風が気持ち良い所を探そうと思う。
カトリエルさんと、リディリアさんが心配そうに見ているけど胡桃さんは大丈夫。
大丈夫って言った方が良いのかな?
ますたーは胡桃さんが家族以外のみんなが嫌いだと思っているけど、ちょっとだけ違う。
胡桃さんが嫌いな人は、ますたーが嫌いな人だけ。
ますたーは……
トーヴァーさんのことがちょっとニガテ。
リディリアさんのことはきらってない。
ドライセンさんのこともきらってない。
ダニエラさんのことはちょっとニガテ。
アーベルトさんのことはきらってない。
カトリエルさんのことは好きになろうってがんばってる。
ルトラールはキライ。
アナメルさんのことはちょっとニガテ。
ローザリアさんはきらいじゃない。
ロイドさんもきらってない。
ますたーは、いつもニコニコしているのに好きな人がいない。
みんなは、ますたーのことが好きなのに本当に困ったご主人様。
教えてあげた方が良いのかな?
ばーちゃんは「男は不言実行。余計な口を開かない」って言うから、ますたーはいつもだんまり。
でも、ますたーが人間達に「マスター」と呼ばれるようになってからは「それは違う。言わなきゃ伝わらないよ」って言うようになった。
どっちが正しいのかな?
男じゃなくて、女が不言実行なのかな?
それとも男も女も関係なく言わなきゃ伝わらないのかな?
分からない。
だって、ママさんも、ばーちゃんも、ますたーも胡桃さんが、おしゃべりできなかったときから胡桃さんが言いたいこと、全部分かってくれてたから。
だから、ママさんの真似。
『今まで何とかなってきたから、これからも何とかなる』
今はカトリエルさんを好きになろうとしているますたーを黙って見守ろうと思う。
理由はよく覚えてないけど、ますたーが結婚しないのはダメ。
昔はますたーに彼女が出来る度に嫌な気分がしたのに、最近はますたーが破局する度に変な焦りを感じる。
なんでかな?
ますたーが「結婚したくない」って言う度にママさんも、ばーちゃんも悲しそうにするからかな?
違う気がする。
誰かが悲しむからとかじゃなくって、ますたーが結婚して、誰かと一緒にいなきゃいけない理由があった気がする。
ますたーが戻ってきたらお話した方が良いかな?
だけど、今はますたーがいないので、この家を探検することにした。
出窓から見えるお庭には地面から引っこ抜かれたお花が並んでいる。
胡桃さんがまだ一歳にもならない小娘だった頃、ばーちゃんの花畑をぐちゃぐちゃにしてしたことがある。
ばーちゃんは「お転婆さんね」って笑っていたけど、少しだけ悲しそうにしていたからお花は踏まないようにした。見るだけ。
小さな入り口から中に入ると棚やテーブルの上にガラスの瓶がいっぱい並んでいて、飛び乗るのは危ない気がする。
多分、お仕事に使う道具だから、近付かないでおこう。
もっと奥に行くとカウンターがあってカトリエルさんがその上に紙を広げて、文字と数字を書いてる。
多分、お仕事で作った薬の名前と値札。数字はもう覚えたけど、帝国文字は、ますたーと一緒に勉強中なので全部は読むのはちょっとむずかしい。
リディリアさんもお隣で紙に文字と数字を書いてる。
お薬の効能とか、調合の配合比率とか、温度と湿度ごとの変動比率とか、濃度計算とか、錬金術のお勉強中。
計算間違いや、何も書いてない所が目立つけど、胡桃さんも教えてあげられそうなのは計算くらい。
読めない文字も多いし、まだまだ勉強中だから心の中で応援するだけ。
家の中を探検しながら、二人のお話を盗み聞きして胡桃さんも錬金術のお勉強。
きっとますたーが、ほめてくれると思うので、いつかびっくりさせてあげようと思う。
「計算、違ってるわよ」
「え? どこ!?」
「大体全部」
がんばれ、リディリアさん。
扉を開けて隣の部屋。みんなでご飯を食べる部屋。その奥はお風呂なのでスルーの方向で。
最近は毎日入らなきゃいけなくなったから、今くらいは近付きたくない。
お風呂に入る時は服を着なくて良いし、ますたーに引っ付けるのは良いけど出来れば入りたくない。
テーブルの真ん中に置いてる花瓶にささったお花が風に揺れてる。ベストポジション発見。
でも、年齢一桁の小娘じゃないんだからテーブルの上で寝るのはやめておこう。
一歳の頃、ばーちゃんに怒られた。
三歳の頃、ママさんにも怒られた。
六歳の時、ますたーにも怒られた。
八歳の時は怒られない代わりにみんなから笑われた。はずかしくなってテーブルの上で寝るのをやめた。
手前の扉は倉庫。カトリエルさんが作ったお薬がいっぱいある。
風が入らないようにしているらしいから、隣にある階段を使って二階に上がる。
階段を上ってすぐ右の部屋がますたーと胡桃さんのお部屋。
若い頃はますたーの足の上がお気に入りの場所だったけど、今では腕枕がベストポジション。
風に揺られる真っ白なレースのカーテンにふかふかのソファ。
気持ち良さそうだけどますたーの残り香がするベッドも捨てがたい。
「おしごと、ごくろーさまです」
今頃がんばっているますたーのことを応援してベッドの上に寝転がる。
「うー……」
微妙に坐りが悪い。もう一度起きてベッドの上に身体を投げ出す。
「これも違う」
もう一度身体を起こして、もう一度ベッドの上に身体を投げ出してみる。
「うん、いい感じ」
目を瞑って意識は微睡の中。ゆったりしたベッドが身体と一緒に意識を沈み込ませてくれる。
「胡桃さん、ごはんだよー?」
ちょっとしたお昼寝のつもりだったのに、お外は真っ暗!
ますたーのお出迎えもしないで眠りこけるなんて何て不覚!?
これは罠だ。風通りが微妙に悪いベッドの上の癖にふかふかで良い匂いがするのがいけない。
喋れなかった頃は何とも無かったのに、喋れるようになると何か言い訳をしなきゃいけない気になるから不思議。
上手な言い訳が思い付かない。何も言えないまま、ますたーに抱っこされる。まあ良いや。
「ますたーおかえりー」
まだ少し眠たくてあくびが出て来る。でも、お出迎えしたい気持ちはある。
尻尾はちゃんと振るので察して欲しい。
「うん、ただいまー。さー、ご飯食べたらお散歩行こっかー」
「行くー!」
うん、これで眠気も飛んでった。
今日もご飯を食べて、お散歩して、お喋りして、ちょっと夜更かししたら、またあした。
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