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第一話 愛犬

 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 Copyright © 2017 芥川一刀 All Rights Reserved. 


 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「行ってきます」


 お出かけの挨拶に返事してくれる人はいないけど、それを合図に右手を無言で引っ張ってくれる相手はいる。


 自分の右手を引っ張ったのは十五歳の女の子。


 稲穂の様な黄金色の短毛と、雪の様に白く、長いまつ毛に大きくて綺麗な黒目、三角に尖った耳。

 赤い生地で縁取られたクッション入りの黒いハーネスを身に付けた胡桃さん。


 柴犬である。


 今から十五年前、こんなやり取りがあった。


「お願い! ちゃんと面倒見るから! この子、ウチで飼わせて!」


「そんな事言って! どうせ結局、お母さんが面倒見る羽目になるんでしょ!」


 自分と母の間で行われたやり取りでは無く、四十過ぎの母と、七十手前の祖母の間で行われたやり取りだ。


 自分は「あ、前にTVで見た展開だ」と幼いながらに「リアルでも、こんなことってあるんだなぁ」と感心しながらその様子を窺っていたことを今でも鮮明に覚えている。


 ただ、そのやり取りをしていたのが幼い子供と若い母親では無く、中年と老人な辺り、どうしようも無い。

 しかも、それが実の親だというのだから尚更だ。


 あまり身内の恥を晒すのもアレなので、細かい話は省略しよう。

 結論から言うと紆余曲折の果て、胡桃さんは我が家、倉澤家の一員として迎え入れられることになった。


 尚、胡桃さんの世話だが案の定、祖母と自分がやっている。本当にどうしようもない親である。


 だから、夫に逃げられるのだ。


 それはさて置き、胡桃さんも十五歳。

 人間なら思春期真っ只中のお年頃だが、人間の年齢に換算すると七十代半ばの高齢者だ。


 と言っても、一日二食の食事は欠かさず完食。

 元は野良犬だったせいか病気知らずで怪我知らずと非常に頑強な肉体を誇り、白内障の気も無い。

 頑丈なだけでは無く、膂力も素晴らしく、ぐいぐいと自分を引っ張っていく。


 御覧の通り筋肉が衰える様子が一向に無く、つい先日も質の悪い訪問販売員を引きずり倒して可愛らしいドヤ顔を決めてくれたばかりだ。

 二十歳くらいまでは余裕で生きるんじゃないかと思う程、野性味に溢れる女の子なのだ。


 いつものように「行ってきます」と自宅を後にして胡桃さんと散歩する。


 そんな日が後五年前後くらいは続いていくのだろう。その時まで自分はそれを信じて疑わなかった。


 自宅を背にして右手に五十メートル。


 角にある松永さんの家を左折して三十メートル。


 小学校のクラスメイトだった岩田さんの家を右折して二十メートルで住宅街から桃花通り(ももはなどおり)のウォーキングコースに入る。


 道路沿いに五百メートル先へ進むと胡桃さんお気に入りのペット同伴可の広場がある。

 そこで胡桃さんが帰りたがるまで、ぶらぶらするのが日課だ。


「さー、胡桃さん。行くよー」


 自分の「行く」という言葉に反応して、胡桃さんの引っ張る力が増す。


 胡桃さんのテンションを上げるなら「行く」と言うのが一番手っ取り早い。


「行く?」


「行きたい?」


「行こうか?」


「よし、行こう!」


 これだけで自分の顔の高さまで飛び跳ねる程の喜びようだ。因みに自分の身長は百九十まで後僅か。

 普通に考えても凄まじい跳躍力だが、これが老犬だというのだから素晴らしい健脚だ。

 

 胡桃さんに引っ張られるように松永さんの家を右折すると、赤、白、黄色、一面に広がる花畑――


「いや、何でだ」


 意味不明な光景に思わず言葉が漏れた。圧巻とも言うべき見事な花畑だが意味が分からない。


 地元の空気や臭いとは違う。


 澄んでいるが土臭い。


 何と無くだけど怖い。そんな気分だ。


 気味が悪く、家に逃げ帰ろうと来た道を振り返ると、そこにあったはずの住宅街は影も形も無く、矢張り広大な花畑に視界を支配された。


 三百六十度、見渡す限りの広大な花畑の真ん中に自分はいた。


「つまり、これはアレだ。夢だな。うん。夢だ。夢」


 夢、と連呼していると右手に巻き付けたリードを引っ張られる。


 夢の中でも胡桃さんの散歩好きは変わらない。自分の夢なんだから当たり前か。


 夢だろうが現実だろうが、やることは一緒だ。


 胡桃さんの散歩を再開しようと思って振り返ると――見知らぬ女の子が悲しそうな顔でこう言った。


「ねえねえ、ますたー。今日のお散歩はもうおしまい?」


「は?」


 稲穂の様な黄金色の短髪と、雪の様に白く、長いまつ毛に、大きな黒目、三角に尖った耳。

 赤い生地で縁取られた黒いハーネスみたいな服を着た十代前半くらいの女の子が目の前にいた。

 しかも、自分の右手に巻き付けたメタリックレッドのリードはその娘の背中に繋がっている。


 ――こいつはヤベェ。


 自分には女の子にリードを付けて散歩をさせる変態趣味はない。


 しかも、この娘の着ている物は上半身に付けたハーネスのような服だけ。

 裸足の上に下半身はすっぽんぽんである。

 今の自分を客観視するまでも無い。何処からどう見ても紛う事無き、変態の性犯罪者だ。


「てか、そもそも誰よ?」


「胡桃さん!」 


 自分の問いかけに胡桃さんを自称する女の子が嬉しそうに言って、期待に満ちた表情で自分の顔を凝視する。


 ――OK、これは夢だ。


 そう言えば、友人とこんなやり取りをしたことがある。


「お前が犬の面倒を楽しんでいるのって、犬が美女か美少女になってエッチな鶴の恩返し的なご褒美をもらってるから?」


「死ね、このクズ」


 多分、このやり取りが頭の中で馬鹿な具合にごちゃまぜになって、こんな欲求不満をこじらせた夢を自分に見せているのだろう。

 把握した、理解した、納得した。


 自分の中で折り合いを付けると胡桃さんを自称する女の子が酷く悲しそうな顔をしていた。


「ほめて、くれないの?」


「あ、あー……いや、うん」


 色々突っ込みたいことはある。

 なんで老犬の胡桃さんが老婆じゃなくて少女の姿になってるんだとか、変態的な恰好になっているのか、そもそも何で人間の姿になってんだとかだ。


 しかし、しかしだ。見た目が人間の少女であっても、中身が胡桃さんなら――


「よーしよしよしよし! 自分の名前をちゃんと言えて、胡桃さん偉いぞー!」


 黄金色の髪をぐちゃぐちゃにする勢いでワシャワシャと頭や首、背中を撫で回すと胡桃さん(仮)は嬉しそうに目を細めて、「きゃー♪」と言いながら尻尾をぶんぶんと振り回した。


 褒め忘れた時のがっかりした表情とか、誉めたときのリアクションとか、見た目以外は完全に胡桃さんだ。

 と言うか、愛犬をネタにして、こんな変態的な夢を見る自分の業の深さに泣きたくなってくる。


「ますたー。お散歩はー?」


「あー、えっと……」


 散歩自体は良い。問題は胡桃さんのすっぽんぽんの下半身だ。

 人に見られたら死ぬ。社会的に死ぬ。自分が死ぬ。


 夢の中だから、別にどうでも良い――なんて思わない。今にも心が死にそうだ。

 人に見られたら「あ、えっと、いや、その、これは違うんです」なんてしどろもどろになること間違いなしだ。


 服を取りに帰宅しようにも、花畑は地の果てまで続くかのように見える。

 どこを見回しても、家も無ければ服もない。


 どうしようもないので自分が着ているカッターシャツを胡桃さんに着せ、ベルト代わりにリードを巻き付けてやる。

 幸いにも自分のシャツが大きく、擬人化した胡桃さんが小柄なお蔭で、ワンピースと言い張れないでもない恰好をでっち上げることが出来た。


 ――ノーパンなのはどうしようもないが。


「これ着なきゃだめ?」


「だめー」


 微妙に嫌そうな胡桃さん。尻尾を股下に挟んでいるので本当に嫌なのだろう。


 我が家では、冬季に南半球原産の短毛種以外の犬に服を着せるのは断固拒否の姿勢を示している。

 そのせいで胡桃さんは服に慣れていない。こんなことになるなら服に慣れさせておけば良かった。


 因みにハーネスは散歩の必須アイテムなので嫌がらない。


 夢を見ている間は、服を着なければ散歩に連れて行けないことを学ばせなければならない。

 どうせ現実の胡桃さんには、何の影響も及ぼさないのだから。


「なんか胡桃さん、人間みたいになっちゃったからねー。これからは服着ないと、お外に連れてけないんだ。頑張れる?」 


「ますたーがそう言うなら胡桃さんがんばる!」


「よーしよしよしよし! 胡桃さんは良い子だなー!」


 意外と犬って飼い主が思っている以上に、人間の言葉を分かってるんだな。

 いや、これは自分の夢だから、これくらい自分の言葉を分かっていて欲しいという願望の顕れかも知れないが。


 無意識下とは言え、愛犬に「ますたー」と呼ばれたがっている辺り、自分も相当に業の深い人間なのかも知れない。

 それは兎も角だ。何故か人間みたいになってしまったとは言え、愛犬と外でやることは決まっている。

 リードの代わりに手を繋いで歩みを再開する。


 ――散歩だ。


「それじゃあ行こうか」


「いくー!」


 元気よく返事した胡桃さんが勢いよく駆け出す。

 花びらが舞い散り、肩の関節が外れるんじゃないかという勢いで右手を引っ張られたが、それもご愛嬌だ。何よりいつものことだ。


「取りあえず、花畑の向こうがどうなっているのか見に行ってみようか」


「うん!」


 夢とは言え、人間になってしまった胡桃さんだったが、時折、歩くペースを緩めてこちらの顔を見てくるのはいつも通りだ。

 それに自分の言葉を正しく理解して、言葉を返してくれる。これは愛犬家なら誰もが夢見たことじゃないだろうか。


「お散歩楽しい?」


「うん、たのしい!」


 分かり易い答えだ。そして、自分も楽しい。


「そっかー。今日の晩御飯、何が食べたい?」


「レバーと卵焼き!」


「いつもテンション高くなるし、やっぱ好物なんだ」


「うん、すきー!」


 この夢の中で手に入れば食べさせてやろう。手に入らなければ目を覚ましてから食わせれば良い。


 それでは本命だ。


「俺のことは?」


「だいすきー!」


 手を繋いだまま飛び跳ねる胡桃さんに思わず頬が緩む。愛犬家が愛犬のことを好いているのは当然だ。

 だけど、自分が愛犬から好かれているかどうかは、また別の話だ。


 もしかしたら、ただの餌係、または散歩係と思われているだけかも知れない。

 ふとした時にそんな不安に駆り立てられることが極稀にある。


 これは自分にとって都合の良い夢でしかない。

 だが、そうだとしても、人間の言葉で好意を示してもらえたのは、とても嬉しく、そして安心した。


 これで「え? べつにフツー」なんて言われたら、立ち直れなかったかも知れない。


「ねえねえ、ますたーは? 胡桃さんのことすき?」


「勿論、胡桃さんのことが大好きだよ」


「わーい♪」


 にこにこと満面の笑みで喜ぶ胡桃さん。


 何故か人間化してしまったが、やっぱり胡桃さんは花と緑が良く似合う。

 折角の楽しい夢だ。このまま何処までも、何時までも続けば良い。

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 Copyright © 2017 芥川一刀 All Rights Reserved. 


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