紫陽花
先日まで降り続いていた雨は上がっていたが、空にはどんよりとした、灰色の雲が居座っている。
肌にベタベタと張り付く、梅雨の時期特有の嫌な湿気を感じながら歩いていた。
しかしながら、道の脇には雫が滴る紫陽花が、気が滅入るような道のりを彩っていた。
「最近は暑い日が続いているね。元気にしていたかい?僕は……相変わらずだったよ」
僕は最愛の彼女のお墓の前で、はにかみながら話した。
「もう君が亡くなってから一年が経ったよ……」
色々な事があったが月日が流れるのは本当に早い。 もしかしたら、年のせいなのかな?
あれから随分経って、もう僕もいい歳のおじさんだ。
「陽菜の最後の手紙、今も忘れてないよ。あれが無ければ本当に僕は……」
僕は目尻に涙を浮かべながら呟いた。
一年前
三ヶ月間に渡る闘病生活を続けた彼女は安らかに息を引き取った。
陽菜の末期ガンが発覚したのは結婚してから二年目の事であった。
ある日、家に帰ると疲弊しきった陽菜の姿があった。
「私もう先が短いみたい……ガンが末期になっていたらしくて」
心配させないようにと気丈に振る舞う姿を見て、僕は胸が苦しくなった。
そして何も声をかけれなかった。
どんな言葉を使っても陽菜を傷つけるだけで、無責任であるように感じたからである。
僕達はささやかながらも幸せな生活を送ってきたのに……
不幸は突然にして襲ってきた。
陽菜が何をしたっていうのだ?
僕は世の中を、神を恨んだ。
それから闘病生活を続けた。
もう一度普通の生活を送りたいと願いながら……
しかし、陽菜は日に日に精力を失っていき、弱っていった。
僕はそんな陽菜の姿を見ていられなかった。
そして、とうとう僕の願いは潰えた。
葬式が終わった後、もう僕は自暴自棄になっていた。
誰の言うことも虚言にしか聞こえず、自分の殻に閉じこもった。
そうした方がずっと楽だから……
そんなある日、一つ下の弟が家を訪れた。
「航平、もうそろそろ立ち直らないと……陽菜ちゃんが今の姿を見て喜ぶと思うか?」
今のままでは駄目なことぐらい、自分が一番分かってる!
それでも踏ん切りがつかない……
「頑張ろうぜ、前へ踏み出さなきゃ……」
僕の事を気遣うように言った。
だが、頑張れなんて本当に無責任だな!
頑張ってもどうにもならない事があるんだよ!
「そんな事は分かってるんだよ!もういっそのこと死んだ方が楽になれるのかな……」
このまま終わった方が幾分マシに思えてくる。
こんな理不尽でゴミ溜めのような世界に何も見いだせない……
「お前本気で言ってるのか?」
珍しく弟は怒りを露わにした。
鬼の形相とはこの事を言うのであろう。
「あぁ……そうだよ」
もう自分も躍起になって、つい心にもないことを言ってしまった。
未練がましく、死ぬ勇気すらないくせに……
「お前は陽菜ちゃんがどんなにまだ生きたいと願っていたか分かるか?気を遣って航平の前では弱音を吐かなかったけどな……」
それは知っている。
優しい陽菜は僕の前ではいつだって元気な姿を見せようとしてくれていた。
それでも裏では泣いていたことも。
「お前は今生きてるんだよ!あんなにも陽菜ちゃんが生きたいと願っていた今を……」
僕の目には思わず涙が溢れた。
哀しみと後悔で……
「もう後悔せずに生きろよ。陽菜ちゃんの為にもな」
そう言い残して弟は家をあとにした。
翌日僕は朝早く目覚めた。
「今日から仕事に戻らないとな。迷惑もかけたし」
弟に激を飛ばされたこともあり、少しは立ち直れたのかもしれない。
仕事着を取り出すため引き出しを開けると手紙が置いてあった。
「まさか!」
手紙の封を破り中身を取り出すとそこには、びっしりと文字が書かれていた。
勿論それは陽菜の文字であった。
航平さんへ
この手紙を読んでいる頃私はもういないでしょう。
結婚してから二年以上もの時を一緒に過ごせてとても幸せでした。
一般的に見れば不幸だったのかもしれませんが、私にとっては間違いなく幸福な日々でした。
私はガンになって気付いたことがあります。
それは、何気ない日常にこそ幸せがあるということ。
人間は一瞬の幸せの中に永遠の幸福を見い出せるのだと知りました。
そしてもう一つ、この世界はとても美しいということです。
人は死が近づくと全てがキラキラして見えるというのは本当のようです。
というよりも、普段生活を送っている私達はそれに気付いていないだけなのかも知れませんね。
この事に気づけば世界はもっと美しく、素晴らしい広がりを見せると思います。
きっとこの先も辛いことが待ち受けていると思います。
確かにこの世界には不幸なことや後悔するようなことで溢れていることでしょう。
それでも忘れてはいけないことがあります。
それは希望です。
嫌なことも沢山あるかもしれませんが、それが無ければ希望というものも存在しないと私は考えています。
私はもういませんがこの先、貴方に差し込む光明を掴んで下さい。
それこそが希望、生きる理由になると思います。
これで最後になりますが私は航平さんをずっと愛しています。
航平さんも私の事を愛してくれてありがとう。
陽菜より
読み終わった時には僕は号泣して、その場に崩れ落ちていた。
最後の最後まで僕は君に救われた……
僕は彼女のお墓に手紙と青色の紫陽花を供えた。
「紫陽花を供えたのには理由があるんだ。あまり良くない花言葉が多いけど青色は違う意味を持つんだよ」
僕は少し緊張して深呼吸した。
慣れないことをしようとしているからかもしれない。
「辛抱強い愛っていう意味があるんだよ。君にぴったりかなと思ったんだよ。僕は君に沢山救われたよ。ありがとう……」
一応手紙も書いたから読んでくれればいいな……
そう思いながら線香をあげた。
煙はたゆたいながらゆっくりと日が差し込んできた空へ伸びていった。




