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短編小説

掌編小説『煙霧』

 煙霧が立ち込めている。現実の背景も心身も霧の中に溶け出す。

 やがて朦朧としていた意識が再び統合化を果たしたとき、サヨは肌触りの悪い着物を着て薄暗い谷に立っていた。滝の音が轟いている。側を流れる水の色は浅藍(うすらん)。小紫の実が枝をしならせている。汚れた粗末な着物。擦りきれた胸の襟を直し、腰に締めた帯紐に挟んである合い口を手に取る。鞘から抜き、光る刃を確かめる。夜露が玉になり鋭い刃先から零れた。

「……」

 谷の道、落葉を踏みながら山林の傾斜を上がる。上がったところは草原だった。寂れた(ススキ)に覆われている。狩場なのかも知れない。

 夜明けだ。東には燃えるような朝焼けがあり、西の空に低く赤い満月がある。真上には鳶が輪を描く。情景は螺鈿細工のように輝いていた。そこは過去の日本によく似ているようだとサヨは思っていた。為さねばならぬことがある。それが何かはよく分かっている。焦燥が心身を満たしていた。月の出ている方角へと薄を分けて進む。

 合い口を手にしてサヨは走った。落ち葉が赤く足元を埋めている。季節は冬へ入った頃。竹林に囲まれたあばら家の集落を抜け、町へと急ぐ。辻に沿い高い漆喰の壁が並び始めた。百姓たちが殺されて積まれている。(いらか)の波。死体の波。

 聳え立つ立派な門の前には、二人の兵がいた。槍を構えサヨを見ると血走った眼で言った。

「おのれ、化け物め! また来たのか! 帰れ! 若様はお前など知らぬと申しておる!」

 サヨは、槍を振迫る兵の首を刺そうと合い口を握った手を振り上げる。しかし血潮を噴き出したのはサヨの方だった。

「うああああっ!」

 サヨは叫びを上げて飛び起きた。杏仁の香り。簡素ではあるが近頃増えてきた西洋風の部屋。

「落ち着いて。もう今に戻っている」

 白衣の男は、暴れ続けるサヨに鎮静剤を注射した。ぐったりと寝台に崩れるサヨをそのままにして男は部屋を出て行った。


 翌日の昼になると窓際からは人の怒号が聞こえた。奥羽の者を非難している。尊皇だの攘夷だのという言葉も耳に慣れた。次いで隣の部屋から少年の呻き声が聞こえてくる。今日のサヨはそれらの声で目覚めた。その少年も今は霧の中、即ち『蒸留家屋』に入っているのだろう。

「……お隣の方は、どちらに参っているのでしょう……」

 サヨは独り、呟いた。目覚める時、本当の眠りから覚めたのか、それとも蒸留家屋から帰還したのか分からなくなりそうだが、サヨには明確な区別が出来ていた。遠い昔の日本。それがサヨの精神蒸留家屋だった。

 サヨはゆるりと体を起こし暫し白い壁を見詰めた。あの朝焼け、あの満月を思い出す。

「……(ひむがし)の野に(かぎろひ)の立つ見えて かへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ……」

 サヨが小声で呟くとちょうど短髪を後ろに撫で付けた白衣の男が部屋に訪れ、尋ねた。

「それは君が詠んだ歌かな」

「……あ、先生……いえ、……柿本人麻呂だったと思います……違いますか?」

「……いや、私はそういうのは分からないな」

「先生はヒステリのことばかりですものね。それでもお金儲けのことばかりでないのは結構なことですね」サヨは軽やかな口調で言った。

「この研究のために親の残した財産を食い潰しているよ」白衣の男はその口許に自嘲の笑みを浮かべた。「さあ、とても高い薬だ」言葉を次ぎ、煙管(キセル)を差し出す。

「これを繰り返す度……次第に私は私という者を思い出します……」

 サヨは薄汚れた寝台の上に両膝を立てて座り、男から火の点いた煙管を渡されると吸い口を赤い唇にくわえた。煙管の火皿には舶来の丹薬『隠套(オントウ)』が詰められている。その煙を吸い込むと舌下に溜まる甘い淀みは杏仁の香り。煙を吐き出すと部屋の黒い空気に黄色く拡散する。やがて狭い部屋は霧が立ち込めたようになる。罪のために孤島に流されたような心持ちになる。暫しの時を経て統括意識から五感を切り離し分解する成分がサヨの身体を隈無く巡る。サヨは意識を失った。

 そうした隠套の副次的な作用で現実の風景はすっかり消えてしまい、代わりに生まれつき霊脳へ仕込んであると推測される虚構時空間『精神蒸留家屋』が現れる。それは個人の精神のエッセンスである。『家屋』と称するのは、サヨが初めて帰還した後、「遠くまで走ったけれどある所まで来るとそれより先へは行けない」などと訴えたことにより、その時空間がある程度の大きさを保ったまま閉鎖されていると考えられるからだった。また、薬の量を加減することで家屋内は時間が移ることが分かっている。蒸留家屋へ入っている際の所見は仏蘭西の医師シャルコーの催眠療法に掛かっているときと同様である。つまり、その時空間は端的に過去や前世を模倣した様相を呈すると思われる。真贋は定かでは無いがその過去や前世が現在での精神病治療のために有効だとされていた。サヨは原因不明の強い罪悪感を抱えており首吊りを試みることが絶えず、父母は困惑していた。半ば厄介払いのように父母が応募した実験的治療計画、サヨはその実験対象に選ばれた。そのことがサヨがここにいる理由である。

「此度は量を減らしてある。幾らかは時間が進んでいる筈だが」

 

 煙霧から抜けるとサヨは桜吹雪の中に立っていた。桜の並木道、その両側には広大な田畑。道の先で髷を結った大きな体の少年が百姓を虫けらのように殺している。諸肌を脱いで大刀を振るい、百姓の腕を落とし、首を落とし、胸を蹴りつけ、腹を突き刺した。百姓は農具を構え少年に抗おうとするが敵わない。

「鬼め! 儂らが居らねば食うものも無かろうが!」

 百姓の一人が毒吐(どくづ)いたが、少年は更に刀を振るう。

「お前ら百姓など幾ら死んでも構うものか! 次から次へと涌いて出るわ!」

 毒吐いた百姓の体が井戸に落とされ、釣瓶(つるべ)がカラカラと回る。

 サヨは合い口を抜いて少年に近付いた。桜の木と牛馬の陰に隠れながら。だが、すぐに見付かってしまう。サヨの顔を見ると少年は高らかに笑い、刀を振り回した。風を切り、大きな音が鳴る。

「現れたな! お前が死なない化け物か! 家来どもが言うように、死んだ母上によく似ておるわ! 陰気な母上にのう! 母上の亡霊か? どれ、ひとつ殺してみるか!」

 サヨは合い口を構えて、少年の振るう刀を受けた。サヨの首は桜吹雪の中へ飛び、目玉に貼り付いた花片に視界を奪われた。再び気付くと今へ帰還している。


 サヨは蒲団を頭から被り震えていた。恐怖からではなく自らの無力を恥じているのだということはその言葉から知れた。

「……先生……私より力のある者を倒すにはどうしたらいいでしょうか……」

「……うん? 蒸留家屋の内にいるのかい。誰だい、それは」

「……私の産んだ子です……その土地を支配して百姓たちを酷い目に合わせているのです……私にはそれが許せない……」

「家屋の中には君の子供がいる。現実には君に子供はいない。すると家屋の中にいる子供の父親は誰だい」

「……何処かの大名です……」

「……そうか、それはそのような姿を借りた君の心の(わだかま)りだろう。大名も子供も君が殺さなくてはならないよ。殺すことは克服することの象徴なのだから。そうしなければ君の精神は良くならない」

「……はい……しかし屋敷に入ることも難しく、私が姿を見せれば、私はすぐに殺されてしまうのです……」

「なるほど。君の姿を晒していては難しいかも知れないな。姿を隠して待ち伏せて刺すのではどうだろう。君は蒸留家屋では、いつも合い口を持っているのだろう? どうだい。殺すことが出来そうかい。そのような巧い方法がありそうかね」

 サヨは何かを思い出しているようであった。やがてぱっと表情を輝かせ答えた。

「はい。あの時、はじめからそうすれば良かったのです」

「それはどういうことだい?」

「私、季道(スエミチ)様と彼岸へ参ります」

 サヨは被っていた蒲団を市松模様の床へ投げ捨てた。勢いよく。白衣の男は埃を片手で払うようにしながら聞いた。

「季道とは誰だい? 大名か子供か……」

「いえ、あの御方は鬼です。あの時、季道様と共に彼岸へ行けたのならば大名の家来に拐われることもありません。ならば、子もありません。さあ、先生。下さいな、お薬を。多目に下さいませ。先程よりも二十年ほど昔に行きたいのです」

 白衣の男は好奇心を湛えた目を見開いたまま隠套をたっぷり詰めた煙管をサヨに渡した。隠套の煙を吸っては吐き、サヨは霧の島に流されてゆく。意識を失ったサヨを見下ろし白衣の男は言った。

「……鬼か。はははっ。やはり人の血を喰らうのかね、隣の部屋にいる子のように」



 その後、サヨは蒸留家屋から戻らず、今日も寝台の上に寝そべり、薄く笑っている。頬を(はた)いても、気付けの薬を注射しても戻る気配すら無い。飲み食いもしないので直に死んでしまうだろう。だが、サヨはこれで幸せなのかも知れない。少年の方は相変わらず人の血を喰らっている。


          [了] 



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