【chapter:すきま】
ちょっとだけ本編を離れてみました。
二人のむかしのお話です。
――その日の空はどこまでも澄み切っていて、彼はそれが無性に悲しかった。
彼はただ、そこに立っていて、空を見上げていた。
悲しくなる、それと同時に美しい、空を。
彼には名前が無かった。
彼の両親は、彼に名前を与え、愛情を与える前にその生を閉ざされた。
彼はもう、それを悲しんではいない。
両親が殺された理由を、既に彼は知っていたのだ。
それは彼の「生まれ」にも関わること。
彼と、彼の両親は、この世界で迫害される「異脳種」だった。
そのように生まれたのは彼が選んだことではないのに――結果として世界から疎まれ忌み嫌われた。
理由のない弾圧。迫害。暴力。
彼はとっくに慣れっこになっていたから、毎日あちこちに逃げ隠れしては、飽きもせずに「考え事」をしていた。
異脳種のこと。
優位種のこと。
それと、自分の能力のこと。
考えることはいつも、このことばかり。
両親の顔はその途切れ途切れ、空白に浮かんでくる断片的なものばかり――しかもどれも、死の間際の必死な形相。
だから彼はいつしか、両親の顔を思い出さなくなった。
あんな顔は、思い出しても辛いだけだと。そう考えた。
いつしか、十年近い歳月が流れていた。
ある日彼は――やっと気づいた、ように――自分の手足をしげしげと眺めた。
――ほんの少しも、変わっていない。
変わっていないと云えば、目線の高さもずっと同じだ、と彼は一人ごちる。
――ああ、そうか。
彼の中で、ひとつの結論が結ばれる。
――俺の身体は、こうなんだ。
――こうしているのは、きっと俺の能力なんだ。
彼がそれを自覚した瞬間、そこに一人の「異脳種」が生まれた。
名無しの異脳種、その能力は「不死」。
異脳の中で――最も弱い力。
彼が自身の能力を自覚して数年後――彼はこの頃になってようやく、己に「名前」をつける事を思いついた。
彼は自分の苗字すら知らなかったので、「名無」とした。
そして名前を考えながら、街を歩いていて、久々に空を見上げた。
そこに見つけた、綺麗な――純粋に綺麗だと思えた――一番星。
「……あれ、だ」
名前も、決まった。
この瞬間――彼は、名無しから、「名無一夜」という名前の異脳種になった。
……。
………。
…………でも。
「……かず、や」
ようやくつけた名前も、自分以外に誰も呼んでくれるひとはいない。
――そんな事に、ようやく名無は気がついた。
自分で自分の名前を呼び続けていないと忘れてしまいそうだなんて、そんな、性質の悪い記憶喪失になったみたいで。
それでも、忘れていたくなくて。
――だって、大切な「名前」だから。
呼んで、呼んで、呼び続けて――
「――かずや、っていうんだね」
――何時だっただろう。優しく微笑みかけてくる『彼』と出会ったのは。
「――いい名前、だね」
柔らかい声で言われたその言葉が、酷く嬉しくて。ほとんど自分と変わらない小柄な背丈に、茶色のさらりとした髪がかかって、銀色と紺色の瞳がとても印象に残るひと。
そんな彼は、なんの躊躇いもなく自分に近付いてきて。
ぽんっ、と。――名無の頭に触れた。
「……へ。」
そんな間抜けな声が思わず漏れるぐらいには吃驚した。
だって名無が知っている「他人」は、例外なく名無を拒絶し、拒み、害を与えてくるものでしかなかったから。
こんなふうに、普通に触られるほうが異常なのだ。
少なくとも、それが名無の知る「他人」だから。
「怖がらなくて、いいんだよ」
やはり柔らかい声音で、ふわりとした微笑みで、まるで何もかも包んでしまうような顔で。
それでも、
「ぼくもね――きみと〝同じ〟だから」
告げられたその一言は、とても哀しそうな色に満ちていた。
彼は虹来六一と名乗った。年は十一、「念話」と「予知」という能力を有する異脳種であるとも。
そのまま二人で何となく並んで座って。
ふと、虹来が呟く。
「……なんでだろうね。ぼくたち、『生きてる』だけなのに、どうしてこうも嫌われちゃうのかな」
「……」
名無は黙っていた。それは名無もずっとずっと考え続けていたことだ。でも余りにも答えが出なくて、見つからなくて、何だか意味のない事に思えてきて思考停止の闇に投げ捨てようかとも思っていた。
まるでそんな名無の考えを見透かしたように。
「…ぼくはそうやって考えることをやめたくはないな。だって、怖い」
怖い?
彼は――虹来は、何が怖いと言うのだろう。
「だって考えることをやめたらさ、なにを思って生きればいいのかわかんなくなっちゃいそうだもの。ぜんぶぜんぶ放り出しちゃったら、なんだか、人形になった気分で……うぅ、うまく言えないけどさ。とにかくぼくは怖いよ。……ごめん、わかんないよね」
「……ううん。何となく分かるよ、言いたいこと」
これでも自分は二十年近く生きてきた。全部の感情や考えが言葉に出来ないことぐらい、知っているつもりだ。
つまり、虹来は――自分がからっぽのようになってしまうのが怖いのだ。『自分』が、何もない『空洞』のようになってしまうのが嫌なのだ。
それは確かに怖いし、気持ちわるいことだと名無も思う。
ならば――と、名無は虹来に手を伸ばした。
「…?」
虹来はきょとんとした様子で固まっている。まぁ、それもそうか。ひとりごちて、名無は強く虹来の手を握った。
「え、かずや…くん?」
「――一緒に、『答え』を見つけようよ。僕達が苛められる〝理由〟をさ」
内心かなり震えながら、名無はそう告げた。
初めて他人にやってみた「お誘い」だった。
虹来はしばらく逡巡していたらしいが、やがて力強く「――うん!」と笑って、頷いた。
――反乱軍が結成される、未だ三十年程前の事。
………。
「……あれから五年、かぁ」
遠く遠く離れた、名前も知らない街の片隅――誰も近づかない、誰も通りかからないような場所、そこに建てられた小さな家。
そこに、隠れるように名無と虹来は暮らしていた。
あの日――あの寂れた街で出会って、もう五年。名無の好きなもの、嫌いなもの、むかつくこと、…等々はすっかり覚えた。一緒にいるのだから、これくらいは当然と思って。
そしてボロボロになっていた古い小屋を改築して「家」を手に入れた。幸い小屋には簡易コンロとガスボンベ、そして古い鍋のようなものも残されておりそれらを使って湯を沸かし、風呂に入る事も出来た。だが異脳種である二人は残念ながら働けるような場所もなく、年齢を考えても未成年であるため――仕方なく食べ物などはかっぱらいで何とかしている暮らしである。体格的には虹来の方が少しは立派なのだが、全部を虹来に任せっきりなのは悪いと名無も週に何日かその「役目」を交代してくれる。
今日もそうだった。日が沈みかけて外と空が茜色に染まるのを見て、名無は街に飛び出していった。そして髪を乱しあちこちに小さな擦り傷とかをつくりながらも、自分と、虹来のぶんのパンや果物やお菓子なんかを抱えて戻ってきた。
静かな食卓を囲んで、一日の食事を終えて代わりばんこに風呂を浴びて。それだけでやる事はほとんどお終いだった。
だからだろうか、名無は最近、それらが終わるとさっさと寝入ってしまう。分からなくもないが、そうされると虹来は一人残されたようでとても寂しい。まだ眠くはないのだから眠くなるまでどうしようかと思考を巡らせて、壁にかけてある、これもかっぱらってきたカレンダーを見て名無と出会ってもう五年経ったのかと気がついた。
五年。春夏秋冬が五回繰り返されただけでもうそんなに月日は経つ。
――ふ、と虹来はベッドで眠る名無に目を向ける。
(――本当に、大きくならないのかな、一夜。)
名無の能力――「不死」とかいうそれは、名無本人にもよくわかっていない能力らしく、ただ「身体が成長しない」とだけ言っていた。
確かに一夜が寝てるベッドは子供用の小さなものなのにすっぽり収まっているし。
本当なのか知りたくて始めた「身長測定」――と言っても壁に傷をつけるだけのことだが――でも、ずっと同じ箇所に傷がついた。
――虹来は、ちょっとだけ、本当にちょっとだけど、身長…伸びたのになぁ。
明かりがないから今の時間……すっかり夜になったこの時間、部屋の中はかなり暗くて、その底の視えない闇をじっと見つめていると普段は考えたこともないような事が浮かんでは消えて。
何で自分の瞳は色が違うんだろうとか。
何で自分は二つも能力を持っているんだろうとか。
何で一夜みたいな「不死」の能力があるんだろうとか。
……何でカミサマは、自分たちみたいな存在をつくったんだろうとか。
どれもこれも、きちんとまとめて考える前にどこかへ飛んで消えていった。
「……あぁ、もう」
――まだまだ、わからない事だらけ。
それでも虹来は、答えを見つけると決めたのだ。
名無と一緒に答えを探して、生きていくと決めたのだ。
五年前――一夜が言ってくれたあの言葉はとても嬉しかった。
『一緒に、〝答え〟を見つけよう』
ひとりでぐるぐる悩んでいた、あの時の自分の気持ちを分かってくれた。
だから自分は――一夜の傍にいたい。
何が出来ると言えた訳じゃないけれど、それでも。
「(……あぁ。こういうところは、『あいつら』と同じなのに)」
優位種が異脳種を罵る時に使う言葉のひとつに「非人類」というものがある。
何故そんな事を言うのか、虹来には分からない。
「心」を持つ事が人類の証明だと言うのなら、自分たちも間違いなく人類のはずだ。
誰かを想う気持ちを持つ事が人類の証明だと言うのなら、自分たちは間違いなく人類のはずだ。
なのに――それを認めない優位種が憎らしく、酷く腹立たしい。
「……なんでだよ、ッ」
思わず、大きな声を出してしまった。
が、名無は素知らぬ顔ですかすかと寝息をたてて夢の国で遊んでいる。余りにも安らかなその表情に何だか気が緩んで、虹来は名無のベッドの傍に座り込み、そっとその髪を撫でる。
するするといった感じではなく、男の子(?)らしいぼさぼさの感触。あどけなさの残る顔。柔らかそうな頬――こんな愛らしいひとのどこが「非人類」だと言うのか。この、どこが。
これをあいつらに見せてやりたいと思った。非人類だなんて嘘だと、もうそんな事は言わないと。人類だと――認めさせたい。誓わせたい。
……いつか――いつかきっと。自分がもっと、「力」を持ったその時には。
そんな事を考えながら、慈しむように名無の髪を撫でて、ゆるゆると時は過ぎて――気が付けば、虹来は座り込んで片手を名無の頭の上に置いたまま、ぐっすりと眠ってしまっていた。
――異脳種と優位種の間に「戦争」が始まる前の、まだ少しは、平和な話。