怪物の条件 に
結論から言えば南部には殺人事件を調べるなどという難事をこなせるだけの能力も人脈も無かった。那由多に「調べたまえ」と命令されてから八時間を経過した時分。彼は早々に結論付けるしかなかった。「自分には無理だ」と。
視界を巡らせると売り物のオールドチェアに腰かけた那由多の姿が飛び込んでくる。彼女は店の陳列棚に置いてあった古めかしいカラクリ人形を勝手に持ち出し弄んでいた。かれこれ一時間近く、ねじを巻きその度にくるくると踊る小さな道化師を退屈そうに眺めている。
「……ねえ、那由多さん?」
「うん? なんだね?」
南部は先ほどから読みふけっていた新聞紙を折り畳み、精一杯申し訳なさそうな声を作る。
「調査、行き詰りました」
「……早いね。キミ」
呆れたように那由多は半眼で南部を見た。テーブルの上では道化師がカタカタ音を立て踊り続けている。
「そもそもキミは何を調べていたのだね? ずっと店に居てそこに座っていたように見えるが?」
そりゃあここの店員なんだから勤務中には店に居させてくださいよ。と心の中で訴えながら、南部は会計席のそばに置いてあったメモ帳を掲げて見せる。
「取りあえず、ですけど新聞とネットで事件のあらましを調べました」
「なるほど? それで何が行き詰ったと?」
「あ、いや。紙面や一般に出回っている情報以上のものを調べるのは僕には無理だなと思いまして。警察とかマスコミにコネがある訳でもないですし。これといって調べ物が得意というわけでも――」
不甲斐ない教え子を見るような目で那由多は嘆息した。
「南部」
「はい」
「誰もキミに事件を解決しろとは言っていないよ。ワタシは少し調べたまえと言っただけで、確信を掴んで来いとは言っていない。キミに警察やマスコミを出し抜ける力があるなどと最初から思っていないさ」
「はあ、すみません」
「謝らなくてよろしい」
背もたれに体を預け足を組み腕を組み、実に“主人”といった風格で那由多は苦笑した。
南部からすれば役に立たないと言われているようで複雑なところではある。しかし、彼は決して自分に課されていた命令が無茶苦茶な物ではないと知り、気が楽になっていた。いつも尊大で人のことなど考えていないようで、非常に理性的なことはこの主人の美点だと素直に感じた。
「では、その“取りあえず”というやつを話してみたまえ」
「あ、はい」
メモ帳を開き、南部はここ数時間で調べた情報を口にしていく。
「えーと被害者はこの近くのアパレル関係の企業に勤めていた二十代の会社員。あ、女性ですね。場所はホテル白銀の裏路地で――知ってます? 五丁目の川縁にあるラブホテルです。死因は大量出血によるショック死。凶器は歯です。首筋に人の物と思われる噛み傷があってこれが頸動脈まで到達。致命傷になったみたいです。死亡推定時刻は昨日、というかもう二日前ですけど、の深夜です。発見したのはホテルの従業員で朝にゴミ出しをする際におびただしい血痕と共に発見したんだとか。なので警察は殺人事件として目下捜査中ですね。ちなみに吸血鬼とかそういう要素は見当たらなかったです」
つらつらとメモ帳の内容を読み上げた後、南部は窺うように那由多を見る。彼女は眉をしかめ目を閉じ首を捻っていた。
「……んんー?」
納得いかないことがあるのかひとしきり唸った後に那由多は開眼し勢いよく立ち上がった。そして一言――
「分からんな」
思わず会計席からずり落ちそうに――古典的なリアクションよろしく――なった南部は、一度照れ隠しに咳払いをして主人に向き直る
那由多はというとカラクリ人形を棚に戻すところであった。
「分からないって何が分からないんですか?」
「うん?」
高さ二メートル近い陳列棚の最上段へカラクリ人形を“操作して”戻している那由多。誰も手を触れていないのに独りでに棚を登っていく人形に気味の悪い物を感じながら南部は続ける。
「いや、僕の調べがやっぱり不十分だったのかと思いまして」
「そんなことはないよ。それだけ調べが付いたのなら十分だと思うよ。ただ、どれだけ行状が分かってもやはり推察しようも無いということでね」
那由多は喋りながら棚を登り切って妙なポーズで固まったカラクリ人形を満足げに見つめる。
「何かしらの超常的な現象でも起こさない限り、吸血鬼と人間の“殺人の行い方”など変わりはしないのだよ。今回の凶器であり証拠である歯形だって吸血鬼は犬歯が人間より少し長いくらいのもの。血痕がおびただしく“残っていた”というのは気になるけれど、吸血鬼とて三リットルも血は飲めやしないからね。現状犯人が人間か吸血鬼か判別は付けられない。そういう意味で、分からないのだよ」
「そんなものですか」
「そんなもの、だよ」
人間と吸血鬼に外見的差異は殆ど無い。それは那由多を見れば一目瞭然であり、確かに人間離れをしているのはその中身である。それを今一度認識し、南部はふとした疑問を思い浮かべた。
「今回の件の犯人って那由多さんじゃないんですよね?」
空を舞い、カラクリ仕掛けの道ピエロが南部の前頭部に飛来、直撃した。
軽く短い悲鳴を上げ、南部は額を押える。
「主を侮辱するとは、随分と挑戦的ではないか。なあ南部?」
目が笑っていない――
南部は那由多の表情を見て背中に冷たい物を感じた。漆黒の瞳が光を失い、笑みを湛えた口元にはすらりと伸びた牙が覗く。禍々しい何かがその美麗な少女の姿から滲み出している。
「い、いや、僕はただ確認の意味で聞いただけで、那由多さんがやったのかと疑ってるわけでは――」
しどろもどろに弁解をする南部の姿をひとしきり睨む那由多。そして短く息を吐き、手を差し出した。
何の合図かと一拍ほど考え、南部は床に落ちているカラクリ人形を拾い上げ、目の前に掲げて見せた。
音もなくふわりと宙を移動し、道化師は陳列棚の最上段へ戻っていく。その過程で那由多は不機嫌そうに口を開いた。
「キミね。ヒトから直接血を吸うという行為は古い吸血鬼にしてみれば不作法もいい所なのだよ。いや、そも血を呑むことすら歓迎すべきことではない。古く力のある吸血鬼は数か月から数年は血を我慢するものさ。それが嗜みだからね。それが人死にを出すなどと、普通は在り得ないよ」
「あ、そうなんですか?」
確かに吸血鬼を名乗っているにも関わらず那由多が血を吸っている所を――自分が吸われること含め――普段生活をしている中で一度も見たことがない。南部は考えてもみなかった違和感に今更ながらに気付いた。
「でも何でしたっけ、元老院? あのスーツの吸血鬼は那由多さんを犯人じゃないかって言ってましたよね? その、“間違い”を起こす吸血鬼がいるってことなんですか?」
「ああ、アレは本気でそう言っているわけではないのだよ」
忌々しげに吐き捨てる那由多を見て南部は首を捻った。
「つまりだね。奴ら元老院、ああ、欧州を発端とする吸血鬼の集会、血族というやつなのだけれどね。その元老院にしてみればこの街はこの葛西那由多の縄張りだから手が出せないのだよ。日本の吸血鬼はひとりでひとつ縄張りを持つものでね、この縄張りを他の吸血鬼が無断で侵すのは八つ裂きにされても仕方がないのだよ。だからワタシに色々と難癖をつけてワタシが動くように仕向けようとしたのさ。お前の街なのだからお前が殺人事件に吸血鬼が絡んでいないか調べろ。とね」
「はあ」
おとぎ話の世界だな。と、そこまで考えて、南部は那由多の吸血鬼は幻想でなくてはならないという言葉を思い出した。実際吸血鬼と触れ合っている身として、けして那由多たちが夢幻の類いだとは思わない。しかし口伝だろうとその実際であろうと、おとぎ話に思えるのは自分がただヒトだからなのか。それとも那由多との付き合いが長くなればおとぎ話ではなくなるのか。
南部は漠然と未来を想像しすぐに形作った世界を振り払った。
「……聞いているのかい? 南部?」
「あ、はい。聞いてます」
「ならキミが今しなければならないことは何だね?」
「……軽率な事を聞いて申し訳ありませんでした」
「よろしい」
平謝りする下僕を傍目に頷き、那由多は店の正面口へと歩み始める。
「那由多さん? どこ行くんですか?」
「寝るのだよ。そろそろ日の出だ。吸血鬼は朝寝るものだ」
「え?! 捜査とかしないんですか? 一応犯人が吸血鬼かどうか調べるんですよね?」
慌てる南部を尻目に那由多はドアを開け放つ。薄らと白む空が夜の終わりを告げており、冷ややかな朝の空気が南部にまで届いた。
「調べるよ。でもね、現状調べようもないというのは紛うことなき本音だよ。だからこそ焦らないで待つのだよ。これが吸血鬼の仕業だとしたら、血に飢えた吸血鬼に成りたての若い世代の仕業だ。そういう場合はね、次があるのだよ」
「……次?」
恐る恐る言葉の先を尋ねる南部に、素気なく那由多は返す。
「そう、次の犠牲者が出る」
ドアが閉まる直前、ぞっとするほどの妖しい微笑を湛える。那由多の言葉はこの日、現実のものとなった。
***
「何とも淫靡な界隈だね」
辺りを見渡して那由多は呆れたように息を吐いた。
「そりゃ、ホテル街ですからね」
南部の言葉のとおり、辺りにはいわゆる世間一般においてラブホテルと言われるような宿泊施設が軒を連ねている。夕刻の薄闇にネオンの光が混じり、那由多の言葉通り「淫靡」という表現がぴったりであった。
「万年発情期の知的生命体と言うのも不憫なものではあるね。愛を確かめる手段か、性欲を満たすための行為か。愛など理解できない理性無き動物であったならどれほど平穏でいられたか」
「……」
愛と性欲を語る少女の姿をした吸血鬼というシュールな光景に南部はぽかんと口を開けて視線を送り続けた。
「……何だねその顔は」
「いえ、別に……」
ねめつける那由多から視線を外し、南部は先を急ぐ。
彼らが向かうのは“一件目の”猟奇殺人が起きたホテル白銀。街の北端に位置する五丁目界隈に位置し、隣接する河川は隣町との境になっている。
「それにしても何故今更一件目の現場を見に行くんです? 新しい方から見た方が何か掴めるんじゃないんですか?」
南部の素朴な疑問を那由多は鼻で笑った。
「南部。キミ今頃二件目の現場は警察と野次馬でごった返していると思わないかい? そんなところに足を運んでも得るものなど何も無いさ」
そりゃそうだ。と南部は自分の考えの浅はかさに――今更ながらに――気付いた。
そうこうしている内に目的の前へと二人は到着していた。
「着きました。これです。ホテル白銀」
三階建ての駐車場も無いこじんまりとしたホテル。それがホテル白銀であった。白壁で作られた小奇麗な外観をしているが、ラブホテルである事を鑑みると単に着飾ることが出来ない寂れたホテルなのだと推察できる。敷地は一応塀で囲まれており、隣の雑居ビルとの間は狭い路地になっている。路地は更に奥まっているようであった。
「ふむ。分かり易いね」
「ですねえ」
那由多の言葉に南部は頷いた。
路地の入口は黄色のカラーテープで通行止めになっており、その前にはひとりの制服警官が立っている。腕を後ろで組み暇そうに道行く人を眺めている姿はいかにも警備をしているといった風情であった。
「オハヨウ。気持ちの良い夕方だね」
若い男性警官に近づき、前触れなく那由多はちぐはぐな挨拶をした。面食らったように警官はひるみ、那由多の姿をじっと観察する。
「……お、おはよう」
やっとのことでそう一言だけ絞り出した警官は、那由多の後ろに居る南部の姿を見つけ訝しげに眼を細めた。ホテル街を十四、五歳の少女と歩く青年。改めて考えなくとも怪しい連れ立ちであることは南部も理解していた。努めて爽やかな笑み――と自分では思っている――で無害であることをアピールした南部は、余計に警官に睨まれることとなる。
「それで、キミ。このテープの先が例の猟奇殺人なのかい?」
いつの間にか警官の後ろに回った那由多がテープを掴む。警官は慌てて「触っては駄目だ」と少女の肩を掴もうとする。
乾いた音が辺りに響いた。
那由多が右手中指を弾き音を鳴らした。警官は突然のことにその指を注視し、そしてその先にある那由多の瞳を見た。瞬間、彼の体が固まった。
『通してくれるかな? 中を調べたいんだ』
どこか遠い場所から聞こえたように霞がかった皺枯れた少女の声。
何が起きているのか分からず南部が唖然と見守る中、警官は無言で道を譲った。その目は焦点が定まっておらずどこか遠くを見つめている。
「何をしているのだね。早く来るがいいよ。南部」
那由多の言葉に我に返った南部は、急いで主の後を追う。どんどん路地の奥へと進んで行ってしまう那由多に駆け寄り、南部はひそひそと窺うように聴く。
「今さっきの、何をしたんです?」
「うん?」
「あの警官に何かやったじゃないですか」
「ああ、いわゆるチャームというやつだよ。といっても別に魅了している訳ではなく、ただの強制認識音声という音による催眠術の一種なのだけれどね。チャームと呼ばれるのは傍から見て術者の魅力にて従わせているように見えるからだね」
「催眠術。それで……」
路地の入口を振り返れば警官は那由多が掛けた催眠術の言葉通りに道を開けたまま挙動を止めている。“那由多を通す”というそれが彼の全てであるかのように。
「ああいうのって頻繁に使ってるんですか? 例えば、僕とかにも……」
もしかすれば意のままに自分も操られているのではないか。そう恐る恐る尋ねた南部。彼の顔がよほど情けなく見えたのか、那由多はクククと喉の奥で笑った。
「安心したまえ。ワタシはこのチャーム苦手でね。先ほどのように不意打ち程度でしか使えないのだよ。それに面と向かって人に掛けれる程の技巧者は古い吸血鬼でも中々居ないものでね」
「そうなんですか」
安心し胸を撫で下ろす南部は、しかし那由多の説明自体が虚言でそれこそ催眠術の一種なのではないかという可能性を思い浮かべる。なるほど実態を掴み辛く、それこそ疑心暗鬼になるな。と吸血鬼というモノの不確かさに苦笑するしかなかった。
***
辺りは血に染まっている。と那由多は現場を評した。南部にはよく分からなかったが、那由多には洗い流された血痕を知覚することが出来るらしい。地面から壁に至るまで人から噴出したと思わしき血で染められていたと律儀に知らせてくれた。
路地は河川と区画を仕切る塀で行き止まりになっており、その角にはホテルの裏口と思わしき鉄の扉がある。そしてその扉の傍には白いテープで地面が人型にくり抜かれていた。ここで人が死んだのだという事が嫌でも理解できる。
南部はあまり現場を荒らさないよう慎重な足並みでその人型に近づいた。
「南部、キミちょっとその辺に立っていたまえ」
「あ、はい」
南部を人型の近くに留めると那由多は平然と壁を歩き、地上から高さ四メートル程の位置で路地全体を見渡した。
路地の内部は光があまり入って来ず、夕闇の薄暗さがさらに助長されている。しかし那由多の目には関係ないらしく、何かを見つけてはふむふむと唸っている。
「至って“普通”だね」
「普通って、何がですか?」
「犯行の手口が、だよ」
壁をてくてくと歩き地面に降りた那由多は南部より五メートルほどの距離を取り正対する。
「被害者の立ち位置は南部、キミが今居る位置」
びしりと指を刺された南部は今一度、自分の立っている地面が被害者が生前踏みしめていた地面なのだと意識する。
「そして殺人鬼は――」
一歩、二歩。大股で南部に近づいていく那由多。
「こうやって!」
三歩目で南部の直前まで歩を進めた那由多はそのままの勢いで南部に飛び掛かった。鎖骨のあたりを両手で押され、那由多の全体重が南部を襲う。少女の軽さとはいえ、不意を突かれた南部は驚きの声と共に地面へと押し倒される。身の危険を全身全霊で感じながら受け身も取れずに後頭部からコンクリートへと倒れ込む。そして衝突の寸前、体がふわりと浮いた。
空気が抵抗力を持った。あるいは重力が軽くなった。不思議な感触――本当に触感がある訳ではない――が南部を支え、地面との間に空間を作りだしていた。
それは那由多が普段から常用する念動の一種だと、そう南部が気付くのには少しの時間を要した。
「――被害者を押し倒した。そして喉笛に噛み付く」
南部の心臓が高鳴る。彼の上に乗ったまま那由多が目の前の獲物の喉元に噛み付く真似をした。微かな吐息が首筋を這う。
鼻腔を刺激するのは那由多が普段愛用している薔薇の香水の甘ったるい香り。柔らかい温度を持つ体温に南部は奇妙な感覚を覚えた。
あるいは、これで那由多の体温が伝承の吸血鬼の通り、死人のそれと同じく冷たければ安心できたのかも知れない。そう、どうでもいいことを考え、心を占めた情動を打ち消す。
「噴出した血は噴水のように勢いよく、壁を染め上げる」
那由多が指し示した壁には既に血痕は存在しない。しかしそこに確かに血潮が吹き付けられたのだと南部は理解する。
――そして想像する。被害者の最後を。那由多の言うように犯人に成すがままに殺害されたのだろうか。それとも抵抗をしただろうか。二十代前半の大人とはいえの女性の力では本気で圧し掛かってきた人間を振り払うのは難しいだろう。悔しかっただろうか。苦しかっただろうか。怖かっただろうか。悲しかっただろうか。最後に想ったのはどんなことだったのか。今までの人生を振り返ったのだろうか。大切な人のことを考えただろうか。両親はどんな人だったのだろうか。恋人はいたのだろうか。友達は多かったのだろうか。いったい、どんな――
「南部!」
突然の那由多の大声に南部は想像――行き過ぎた妄想の世界から引き戻された。
「キミのそれは才能だと思うけどね。深入りするものではないよ」
「あ、えっと?」
自分の胸の上から降り傍で顔を覗き込んでいる那由多の姿に、南部はしばし混乱する。いつの間に――もちろん思考に浸っていた間には違いないが――那由多は移動していたのか、南部には分からなかった。
「もういいから立ちたまえよ。それともこのまま地面の上へ降ろしてあげようか?」
那由多に急かされたからという訳ではないが、急いで南部は立ち上がる。那由多が作りだす“それ”にはやはり抵抗はあっても感触は無い。そんな正体の知れない何かの上に居続けるというのもあまり気持ちが良い物ではなかった。
「さて、取り敢えず帰ろうか」
「あ、もういいんですか?」
「うん。もうこれ以上の収穫は期待できないよ。再現してみて解ったろう? 人間と吸血鬼どちらとも取れる犯行の手口だ。こうなると最早犯行の現場に居合わせるしか判別する手段が無いよ」
あまりにもあっさりと言い切ってしまう那由多に南部は引っ掛かりを感じた。
「……それって、次の被害者が出るのを待つという事ですか?」
「そうとは言わないよ。ただまあ同じ手口でこれ以上事件が起こるようであれば、何かしらの対策を取らなければならないかも知れない。ということさ」
南部は知らず知らずの内に不服そうに眉を下げてしまっていた。
思い起こせば昨日の朝方那由多は言った。「次の被害者が出る」と。それはつまり、これから殺される人がいることを予感しながら放置したということだ。もちろん事件を防ぐ手立てなど思いつきもしない。南部がどれだけ殺人事件の犯人を見つけると息巻いたところで、全くの無力であることは自ら証明し終えてしまっているのだ。しかし、もし吸血鬼の仕業であれば事件は警察の領分を超える。だとすれば、この街では那由多にしか解決の出来ない事件となってしまう。その那由多が被害者が出ることをよしとしてはどうしようもないのではないか。
そこまで考えて、南部は那由多の溜め息を耳にした。
「南部。同じヒトとして、現場を見て冷静でいられないのは分かるよ。特にキミは“そういう気質”を内在させているしね。だからこのワタシの下僕にした」
ゆっくりと言い含めるように那由多は続ける。
「しかしね、どちらにせよワタシは犯人を見極めるつもりはあっても、断罪しようとは思っていない。まあ、犯人が吸血鬼なら縄張りの主張からこの街から追い出すか、あるいは救い様の無い輩なのであれば日に消えてもらうつもりだよ。ただね、それは吸血鬼としての掟や、品位に欠けるからであって、ヒトの血を吸う行為自体を咎めるつもりはないよ。確かに血を無暗矢鱈に求めるのは褒められた行為ではないけど、同時にそれは吸血鬼の生理現象でもあるからだ。自分の目の前で他人が物を食い散らかすことは不快だけれど、食事を取ることそれ自体を止めるつもりはない。もちろん犯人が人ならば極力関わるつもりはない。ヒトの問題はヒトが解決すべきだからね」
それが至極当然の事なのだと言い張る那由多。彼女に反論しようとして南部は寸前のところで踏みとどまった。那由多の言い分自体、筋が通っているとは思わない。それは吸血鬼という立場からのひとつの意見でしかない。ただ、南部が冷静でないというその指摘に限っては間違いではなかった。
あまり表に出さないよう努めているが、殺人現場を目の当たりにし、今南部の中では様々な感情が溢れかえっている。南部とてヒトの端くれである。冷静でいられるはずがない。
ただ、この理屈っぽくてそれでいて南部より何倍も聡明な主にそんな感情だけでぶつかったところで軽くいなされて終わってしまう。そしてそれは南部としても望むところではなかった。下僕として扱われることを情けないと思うが、それと同時に主としての那由多にはそれなりに敬意を持っている。その彼女に愛想を尽かされてあまり嬉しいとは感じないだろう。
自尊心とある程度の平穏な日常を引き換えにしてもいいと感じさせる不思議な魅力。そしてどうしようもなく惹き付けられる宵闇のような恐ろしさを那由多は持っている。それは南部が甘んじてきた三か月の主従関係が物語っていた。
「……帰りましょうか」
どうにかそう絞り出した南部に、那由多は意地の悪い笑みを浮かべた。
「“それでこそ”だよ南部。“それでこそ”吸血鬼の下僕だ。だから少々不作法で態度が大きくてもキミを選んだのだよ」
何故か全てにおいて、色々な観点から馬鹿にされた気がした。しかし、悔しいがそう言われて南部は悪い気がしなかった。
「さて、そうと決まれば早々に帰ろうではないか。あの警官もそろそろチャームを解いてやらねばならないしね」
前を行く那由多に南部は大人しく付き従い歩く。そして路地を出る前に一度だけ現場を振り返った。無力な自分を噛みしめ、せめてもの被害者の冥福を祈るしか今の南部に出来ることは無かった。
つづく