呪詛と祝福
十年ぶりに葉山夕貴子に会うことになった。
夕貴子は中学時代の同級生だ。
仲良くなったきっかけはもう忘れた。たぶん最初の席替えで隣になったとかそういう理由だと思うが、私と彼女は中学三年間を通して親友同士だった。
彼女は――とても綺麗な子だった。まっすぐな長い髪と大きな目をした美少女。そのうえ勉強もスポーツもよくできる彼女と誰もが仲良くなりたがったが、彼女は私以外のクラスメイトと積極的に付き合おうとはしていなかった。その華やかな容姿に似合わず、あまり社交的なタイプではなかったのだろう。上辺だけの友人関係を広げるよりも、本当に気の合う人間と一緒にいられればそれでいいと満足していたらしい。
だからといってイジメのターゲットになるような隙を見せる子ではなかったので、夕貴子はクラスの中では謎めいた孤高の存在だった。そんな彼女の唯一の友達であった私は、わずかばかり優越感を感じたりもした。
だが私の前での夕貴子はごく普通の中学生だった。私たちはその年頃の女の子らしく、テレビ番組や芸能人や漫画やファッションの話でいつも盛り上がっていた。
ただ、少し夕貴子が変わっていたのは、
「私、魔法の勉強をしてるの」
と、怪しげな西洋魔術の解説書をしょっちゅう読んでいたことだった。子供向けにやさしく書かれた読み物ではない。洋書を翻訳した高価そうな本だ。
魔法やら悪魔やら呪いやら、そういった不思議な事柄は私にとっても十分に魅力があった。それに、夕貴子が古めかしい魔術書を読んでいる姿は本当に似合っていて、見蕩れるほどだった。
悪魔を召喚する魔方陣の描き方や、想像上の毒薬の調合方、それに憎い相手の呪い方なんかを、好きなアイドルの話をするのと同じトーンで、私たちは語り合った。
これは後で知ったことなのだが、夕貴子の父親は大学で西洋史を教えていたらしい。それで自宅にあんな本格的な書物があったのだろう。
とにかく私たちは、退屈な現実の中に甘い夢想を溶かし込んで、思春期特有の無邪気な高揚感を共有した親友だった。
玄関を出ようとする私に、彼はマフラーを持ってきてくれた。
「ほら、亜衣、今日は寒くなるってさ」
「あ、ありがと……透さん」
彼のことをそう呼ぶのはまだ慣れなくて、何となく照れてしまう。婚約が調ってこうして一緒に暮し始め、来週には入籍する相手だというのに。
透は穏やかに笑って、
「遅くなるようだったら彼女と一緒に夕飯食べてくればいいよ。俺は適当に済ませるから」
「うん、また帰りに連絡するね」
「ゆっくり話してきなよ。葉山さん、結婚式に出席してくれるといいな」
私はマフラーを巻きながら肯いた。透の落ち着いた口調を聞いていると、今日の再会に対する緊張が解けていくようだった。
十一歳という年齢差を、普段はそう意識することもなかったが、こうやって私をさりげなく気遣ってくれるところは大人だと感じる。一緒にいて心から安らげる相手だった。
平日休みの透を残して、私は賃貸マンションの部屋を出た。
一月の寒い朝――大気が透明に凍てついて、頬が痛い。首周りにぐるぐる巻きつけたマフラーがありがたかった。
バス停までの道程を歩きながら、私は鞄に入れた結婚式の招待状を確認する。今日、仕事帰りに夕貴子に会って渡すつもりの封書だ。
夕貴子とは別の高校に進学したため、中学卒業後は会う機会が徐々に減っていった。
新しい環境に慣れるまでは親友である彼女を恋しく思うことが多かったが、そのうち友人ができ部活を始め勉強が忙しくなってくると、中学時代を懐かしむ余裕もなくなってきた。私は充実した幸せな高校時代を送れていたのだろう。
気がつくと彼女とは年賀状だけのやり取りになっており、大学進学で地元を離れたことをきっかけにそれも途絶え、完全に音信不通になった。
もちろん夕貴子の実家はずっと地元にあったので、調べればすぐに連絡先も分かったのだろうが、私はあえてそこまではしなかった。彼女との思い出は思春期の輝きをまといながらもどこか気恥ずかしく、曖昧なまま胸の奥にしまっておきたかったのかもしれない。
それに、中学校最後の秋に起こったある出来事が、彼女との友人関係の自然消滅を望んだ大きな理由になっていた。
中三に進級した年、篠原先生という男性教諭が私たちの学校に赴任してきた。
彼はまだ若い数学の先生だった。すらりと背が高く優しげな面立ちで、授業も面白かったので生徒には人気があった。特に女子生徒の中ではファンが多かったようだ。
そして夕貴子も、篠原先生に恋をしていた。
国語や英語を得意としていた彼女は、どちらかといえば数学は苦手だったはずなのだが、篠原先生の授業を受けるようになってからは急に成績が上がった。毎日予習と復習を欠かさず、先生にもよく質問に行っていた。私も付き合わされていたから、その時の彼女の珍しくはしゃいだ様子をよく覚えている。
恋する乙女の夕貴子は、また様々なまじないの類を試していたようだ。
「これはねえ、『ソロモンの鍵』に記されてる有名なおまじないなのよ」
とか言いながら、林檎を切ってそこに先生の名前を書いて怪しげな呪文を唱え、焚き火の中に投げ入れたり。
すり潰して持っているだけで好きな人の気を引けるとかで、何とかいう名前の珍しいハーブを探し回ったり。
私はといえば、いつもクールな印象の夕貴子が一生懸命になっている様子に戸惑いながらも微笑ましく思って、協力を惜しまなかった。彼女に振り回されるのは楽しくこそあれ、迷惑に感じることは一度もなかった。
「亜衣は本当の親友だね。これからもずっと味方でいてね」
夕貴子はいつも私にそう言って、私もその度に何だか甘酸っぱいような幸せな気持ちになったものだ。その年頃の女の子にとって、親友という言葉の響きは魅惑的で誇らしかった。
しかし、夕貴子の恋はあっという間に終わりを迎えた。
受験勉強が本格化した夏休みの終わり、夕貴子は篠原先生にラブレターを書いた。
どんな内容だったのか、それは私にも見せてもらえなかった。部活の生徒しかいない休み中の学校へ、彼女は一人で出かけていって手紙を先生に渡したらしい。
その日のことはよく覚えている。夕方突然私の家を訪ねてきた夕貴子は、私の顔を見るなり私に抱きついて、大声で泣き出したのだ。
ああフラれたのだな、と私は同情した。
篠原先生は手紙を受け取らず、ずいぶん厳しく彼女を諌めたのだという。受験も近いというのに何を浮ついているんだ、成績がいいからと油断をするな、もっと真剣に将来を考えろ、とか何とか。
今思えば、先生は若くてフレンドリーなだけに、生徒から若干舐められがちなところがあった。教師としてこのままではまずいと焦っていたのかもしれない。あるいは上司からそう注意されたのか。
とにかく夕貴子はひどく傷ついて、瞼が腫れるほど泣いて、返された手紙を破り捨てて、そして呟いた。
「許さない…絶対に先生を許さない。呪ってやるわ……!」
潤んで充血した目をギラギラさせた彼女は、美人なだけにとても怖かった。
私は何と声をかけていいか分からず、ただ彼女の細い肩を撫でていたが、
「ねえ、亜衣はどんなことがあっても私の味方よね? 親友だもんね?」
と問われて肯くしかなかった。
まさか本当に夕貴子が先生に呪いをかけるとは思わなかったのだ。
二学期が始まって間もなく、篠原先生は学校を辞めることになった。
本人からの挨拶はなく、ただ校長から全校朝礼で体調不良だとの説明があっただけで、先生は突然いなくなってしまった。
普通の退職ではないと生徒の間で様々な噂が飛び交ったが、夕貴子は沈黙していた。私も彼女に何も訊けなかった。
幽霊のように青白い顔をした夕貴子が髪を振り乱し、蝋で作ったヒトガタに先生の名前を彫り込む――そんな光景が何度も脳裏に浮かび、私はその気味の悪い想像を必死に打ち消さねばならなかった。
他の生徒たちは、受験勉強が忙しくなるにつれ自分の進路のことで手一杯になり、噂と動揺は沈静化していった。私と夕貴子も同様で、いつしか魔法について語り合うこともなくなっていった。
そして春になってそれぞれ志望校に合格し、私たちは離れ離れになったのだ。
結婚が決まり、どうしても夕貴子にそれを伝えたかった私は、彼女の実家に連絡を取った。彼女の母親は私のことをよく覚えていてくれて、娘の連絡先を教えてくれた。
夕貴子は大学卒業後に大学院に進み、父親と同じく西洋史を専攻しているという。昨年までドイツに留学していたらしい。
意を決して携帯電話に連絡すると、拍子抜けするほどあっさりと、会う約束が調った。
定時で仕事を終えて、待ち合わせのコーヒーショップでカプチーノを飲んでいるところへ、夕貴子がやって来た。
最後に会ったのは高一の時だったから、約十年ぶりに見る夕貴子は驚くほど変わっていなかった。
くせのない長い髪と人形のように整った顔立ち。薄くメイクはしているものの、肌の綺麗さは少女の頃とあまり変わらない。
夕貴子もまた、店内のいちばん奥のソファ席に座った私にすぐ気づいて、小さく手を振りながら小走りに近寄ってきた。
「亜衣! うわあ久しぶり! 元気だった?」
彼女は輝くような笑みを見せた。
カウンターでカフェラテを受け取って、向かいのソファに腰掛ける彼女は、相変わらずほっそりしていた。ツイードのジャケットと細身のデニムがよく似合っている。
「夕貴子の大学、この近くだったんだね。私の職場も近いの」
「そうだったんだ。じゃ会おうと思えばいつでも会えたんだね」
私たちは身を乗り出して、しばし近況報告をし合った。
十年ぶりとは思えないほど、自然に話ができた。学生時代の友人とはそういうものかもしれない。どんな長いブランクがあっても、あっという間に飛び越えてかつての親しさが戻ってくる。
緊張していたのが嘘のように、気持ちが解れた。
「電話でも話したけど、私結婚することになって……ぜひ式に来てもらいたいと思って」
私がそう言い出すと、夕貴子は大きく肯いた。
「もちろん行く。嬉しいなあ、声かけてもらえて。ほんとに音信不通だったから……親友、だったのにね」
少し寂しげになった夕貴子の口調に、私は沈黙した。
できればこのままずっと他愛ない思い出話だけですませたい。だけど――。
私はぬるくなったカプチーノを一口飲んだ。
「あのね、夕貴子、ずっと訊きたかったことがあるんだけど」
「何?」
「篠原先生っていたでしょう?」
その名前に、夕貴子の笑顔が固まった。
「……あ、ああ、いたわね。数学の先生だったっけ?」
「中三の二学期にいきなり辞めちゃった先生よ。あんたが……ラブレター渡した人」
「やなこと思い出させないでよね。削除したい記憶なんだから」
夕貴子はごまかすように右手をひらひらさせて、顔を背けた。胸の奥がちくりと痛む。同じ痛みを彼女も抱えているはずだと信じて、私は続けた。
「先生が退職する前に、あんた言ってたよね、先生を呪うって。本当にやったの?」
「どうだったかな……」
彼女は面倒臭そうに、
「やったかもね。蝋人形だったか、名前を紙に書くやつだったか……」
「それだけ?」
「今考えると子供っぽかったわよね。そういうのにかぶれる時期だったもの。ほら覚えてる? 毒薬を調合しようとしてさ……」
「夕貴子」
自分でもびっくりするほどきつい声が出た。夕貴子は口を閉ざして、大きな目を見開いて私を眺める。綺麗な顔に不安げな翳が宿っていた。
「あんたがやった呪いはそんなんじゃなかったでしょ」
「どういう意味よ? 何が言いたいの?」
「二学期に入ってすぐ、私、担任と学年主任に呼び出されたのよ。あんたには黙ってたけど」
呼ばれて進路指導室にやって来た私に、先生たちは思いがけない質問をした。
――葉山夕貴子さんから、ある教諭にしつこく付きまとわれて怖い思いをしていると相談があった。その教諭が誰かは言えないが、彼はその事実を否認している。君は葉山さんと仲がいいから、何か思い当たる節はないか、と。
私は――。
「私は、夕貴子は篠原先生のことで悩んでいるようでした、とだけ答えておいたの。親友……だったから。何があっても味方だと約束したから」
私は夕貴子を正面から見つめて言った。彼女は彫像のような無表情で私を見返す。唇だけが小刻みに震えていた。
夕貴子は、魔法より現実的な方法で篠原先生を呪ったのだ。
中学生の彼女にしてみれば、自分の恋心を跳ねつけた憎い大人に、ちょっとした仕返しをしてやるくらいの気持ちだったのかもしれない。先生が校長に怒られて困ればいい、程度の悪意で。
結果的にその呪いは想像以上の結果をもたらし、篠原先生は学校を去らねばならなくなった。
呪いの片棒を担いだのは、他でもない私だ。
「そう……亜衣が助けてくれてたんだ……」
夕貴子は薄く微笑んだ。無理やり浮かべたような、口元だけの笑いだった。
「まさかあんなことになるなんて思いもしなかったのよ。私、優等生だったから大人の信用はあったけど、最後には出鱈目だってバレると思ってたし、それでもいいやってちょっとヤケになってたのに。亜衣のおかげで呪いは完遂したってわけだ」
「……罪悪感は感じなかった? 篠原先生に悪いことしたって……ここまですることなかったのにって」
「しばらくは怖かったよ。でも目の前から本人がいなくなってしまったら、だんだん忘れた」
私も同じだった。中学時代の罪悪感など普段はすっかり忘れてしまっていた。ただごくたまに思い出して、あの先生今頃どうしているかな、なんて苦い気分になっただけ。そしてまたすぐに気にしなくなる。
夕貴子は大きく息をついて、テーブルの上で華奢な指を組んだ。
「ねえ、どうしてそんなこと訊いたの? もう時効だからカミングアウトしたくなった?」
私は首を振って、ソファに置いたバッグの中から結婚式の招待状を取り出し、夕貴子に差し出した。
怪訝そうにそれを受け取った彼女は、中を見て、軽く目を閉じた。
すべてを察したらしい。
反対に、私は笑みを浮かべた。
「私が結婚するのは、篠原先生なんだ」
大学を卒業して、私はとある出版社に勤めた。学習教材専門の、小さいが堅実な出版社だ。
その取引先の学習塾に、篠原先生は講師として勤務していた。
商用で訪れた私は先生に気づき、ずいぶんためらってから声をかけた。
先生もすぐに私を思い出してくれた。
あんなことがあって依願退職扱いで学校を辞めた後、当時結婚を考えていた恋人とも別れ、先生はずっと塾講師をしていたのだという。三十代半ばになった彼は昔より少し太っていたが、相変わらず優しげな目をしていた。教え方が上手で塾内でも人気の講師になっているらしい。
思いがけない再会に懐かしくなり、同時にこれまで忘れていたツケを払うように重苦しい罪悪感がよみがえってきて、私は仕事中にも関わらず先生の前で泣き出してしまった。そして、戸惑う先生にすべてを告白した。
意外なことに先生は驚かなかった。
それどころか、必要以上に夕貴子を厳しく指導してしまったと、あの年頃の女子生徒をいちばん傷つける言い方をしてしまったと、後悔していた。
だから、夕貴子に告白されたことを誰にも黙っていたのだ。
「なかなか自分の理想に近づけなくて、焦ってばかりだったんだ。早く生徒から尊敬されるような立派な教師になりたくて……生徒と友達のようになるのはまずいと思って……若かったなあ」
しみじみと笑った先生の穏やかな雰囲気に、私は救われた。
それから私たちが親しくなるのに時間はかからなかった。一緒に食事をしたり映画を観に行ったりスポーツを観戦したり、恋人として彼の傍にいる時間が増え、私は当然のように願うようになった。
この先もずっと、この人の隣で生きていたい、と。
「夕貴子、先生……透さんに謝れとは言わないわ。ただ結婚式には来てほしい。十年前にやったことの結果を見届けてほしい」
「結果……?」
憔悴したみたいにゆっくりと夕貴子は顔を上げた。テーブルに置かれた招待状を、私は再び彼女の方へ押しやった。
「中学生のあんたが嘘をつかなければ、呪いをかけなければ、私と透さんはこうならなかった。少なくとも私は感謝してるのよ」
物凄く身勝手な言い方をすると、夕貴子の呪詛は私にとっては祝福になった。
あくまで結果オーライの祝福ではあるが。
夕貴子は泣き笑いのような表情になる。わずかに青褪めた頬と黒髪がよくあって、本当に綺麗だった。
「……十年越しで、亜衣に初恋を取られちゃったみたいね。自業自得だけど」
「まだ親友と思っていい?」
「これで貸し借りなし――何があっても味方よ」
私たちは笑い合った。
止まっていた時間が動き出す。
ようやく十年前の私たちに戻れた気がした。
思春期を共有した友人とは、今考えると青臭いこっぱずかしい話もしましたね。
でも一生の宝物です。
感想頂けると嬉しいです。