子守歌、慈雨のように
新緑の季節、天気のいい日曜日。
矢橋啓嗣は総合病院の前に居た。といっても、彼はいたって健康である。
休日に何の予定もなく、暇を持て余した矢橋は、当てもなく散歩をしていた。
そこで産婦人科へ行くところだった身重の従姉と出くわした。彼女の強引な誘いにより、なぜか病院まで付き合わされることになったのだ。
しかし、いくら親族とはいえ旦那でもない男が診察室の中に一緒に入ることは躊躇われ、彼は病院の外で従姉が出てくるのを待っていた。
この近辺では最大規模を誇る総合病院は、各種設備が整っており、敷地も広い。矢橋が今いる庭も、バリアフリーが徹底されており、植えられた様々な植物にまで手入れが行き届いていることが分かる。
矢橋はその中で、ひときわ青々と繁った大きな樹木に目を留めた。その根元に、小さな人影。
日曜にもかかわらず、見慣れたセーラー服姿のその少女は、矢橋の高校の後輩・上代月子である。
草の上に座り込んだ彼女は、まるで赤子を抱いているような格好をしていた。ゆっくりと体を揺らし、何事かを囁いている。
だが、矢橋の目は、彼女の腕の中のものを映さない。さながらエアー抱っこである。
上代は彼の存在に気が付いていないようだった。矢橋はちょうど近くにあったベンチに座り、彼女の様子をそっと観察した。
小さな子守歌が聞こえる。彼女が歌っているのだ。澄んだ優しいその声は、矢橋を心地良い眠りへと誘った。
上代が、光の玉を抱いている。光の玉をそっと揺らし、あやしている。
人形のように整った純和風のその容貌に、普段は何の感情も見せない彼女。
だが今、その瞳はどこまでも優しい慈愛に満ちている。
聖母だ、と矢橋は思った。
やがて光の玉は、彼女の腕の中から離れ、ふわふわと浮きあがっていく。上代の顔の高さまでやってくると、そっと彼女の頬に触れた。
そして光の玉は高く高く舞い上がり、ひときわ強い光を放つ。その瞬間、世界が真っ白に染まった――
「――啓嗣君! 起きて」
肩を揺すられ、矢橋は重い瞼を上げた。目の前に、矢橋の顔を覗き込む従姉の姿があった。
周囲を見回してみたが、上代の姿はもうどこにも無かった。
「吃驚したわよ、こんな所で寝こけてるなんて」
「ごめん。……で、どうだった?」
「順調だって。――触ってみる?」
矢橋は従姉の腹に手を触れ、囁いた。
「ちゃんと元気に生まれてこいよ」
もしかしたらこの子も、あんなふうに彼女に抱かれていた魂の一人だったかもしれない。
そして俺自身も、かつては同じように誰かの腕の中に居た魂かもしれないと、矢橋は感じたのだった。




