一歩
いつの間にか、辺りは深い闇に包まれていた。
さっきまで化け物から逃げ回り、今はかろうじて辿り着いた公園にいる。足はすでに鉛のように重く、近くのブランコに崩れ落ちるように座った。
――これから、どうすればいい。
あの化け物が町にどれだけいるのかもわからない。多くの人間が、すでに無残に殺されているだろう。僕も近いうちに死ぬのだろうか。……それもいいかもしれない。特にやりたいこともないし、もう何もしたくない。このまま、夜に溶けて消えてしまいたい――。
その時、ふと子供の泣き声が鼓膜を震わせた。
こんな時に、なぜ?
不審に思い顔を上げると、少し離れたベンチに小さな女の子が一人、うずくまって泣いていた。僕は重い体を無理やり引きずり、彼女の側まで歩み寄る。そして、視線を合わせるようにゆっくりと腰を落とした。
「こんなところにいたら危ないよ……早く、逃げないと」
「パパと……ママが……死んじゃったの……黒い爪に刺されて……それで……」
大粒の涙が、彼女の頬を伝い落ちる。
胸を締め付けられるような激痛が走った。こんなに幼い子が、大切な人を奪われ、僕よりもずっと残酷な現実に立たされている。なのに、僕は……自分だけ絶望に酔って、何をしていたんだ。
「……こんなこと、絶対にあってはいけない」
僕は左手で少女の小さな手を握り、右手でその肩を優しく包み込んだ。
「僕が、君を必ず安全な場所まで連れていく。約束するよ」
突き出した右手の小指。
「……うん!」
彼女は腕で涙を拭い、精一杯の笑顔を作って、僕の小指に自分のそれを絡めた。
何があっても――この命に代えても、この子だけは守り抜く。それが、無力な僕に遺された唯一の「抗い」なのだから。
突如、背筋を凍らせるような悪寒が走り、僕は反射的に振り返った。
「……もうお出ましか」
例の化け物が、体を左右に不気味に揺らしながら、ゆっくりとこちらへ向かってくる。隣にいる彼女の体が小刻みに震えているのが伝わってきた。
「遊具の後ろに隠れていて」
彼女は涙を浮かべながらも力強く頷き、素早く身を隠した。それを見届け、僕は再び化け物と対峙する。
薄暗い闇の中で、奴の口が三日月のように歪んだ。僕は腰を低く構える。心臓の鼓動が耳元でうるさいほど鳴り響き、背中を冷たい汗が伝う。
目を閉じ、深く息を吸い込み、再び目を見開いた瞬間――。
「aaaaaaa!」
この世のものとは思えない耳障りな咆哮を上げ、奴が突っ込んできた。
間合いに入った瞬間、振り上げられた腕が振り下ろされる。
――来る!
その瞬間、奴の爪が異常なほど伸長し、鈍く光った。動きは読めた。右だ。
反射的に身体を捻る。鼻先を黒い爪が掠め、直後に地面を抉る不快な金属音が響いた。紙一重。思考が追いつくより先に、冷や汗が噴き出す。
五本の指すべてが、凶器のような黒い爪と化している。今は避けられたが、一撃でも喰らえば終わりだ。心臓を直接握り潰されるような圧迫感に襲われる。
化け物は即座に体勢を立て直し、今度は頭を狙って腕を水平に振る。
首を傾けて回避するも、爪が空気を切り裂く風圧を肌で感じる。触れてもいないのに、死神の指先のような冷たさが伝わってきた。
すかさず、僕は奴の振り切った右腕を掴んだ。
胸ポケットから左手でボールペンを取り出し、その頭部を目がけて渾身の力で突き立てる。
だが、届かない。寸前で、僕の左腕が奴の手に捕らえられた。
「……ッ!」
万力のような力で引き寄せられ、奴の膝が僕の腹部を深く抉った。
「かはッッ……!」
胃液が逆流し、喉の奥まで苦い液がせり上がる。そのまま宙へ放り出され、景色が回転した。
――まずい。
そう思った瞬間、後頭部に強烈な衝撃が走った。何が起きたか分からぬまま、僕は地面に叩きつけられる。コンクリートの塀まで蹴り飛ばされたらしい。目の焦点が合わず、自分の手足がどこにあるのかさえ自覚できない。
激痛を堪え、泥を這うようにして立ち上がる。額から流れた血が右目に入り、視界が赤く染まった。
「おにいちゃん!」
背後から、女の子の悲痛な叫びが聞こえる。遊具から出ようとする彼女を、片手で必死に制した。
奴は勝利を確信したかのように、軽やかな足取りでこちらへ近づいてくる。
――死ぬわけにはいかない。必ず彼女を、安全な場所まで……ッ!
再び腰を落とし、震える腕を前に構える。奴が、とどめの一撃を放とうと腕を振り上げた。
――終わる。
そう覚悟した瞬間、夜の闇を圧倒的な「熱」が支配した。
何かが焼き焦げるような強烈な臭い。
視界を横切ったのは、一筋の紅い閃光。
舞い上がる黒いローブ。夜を昼に変えるほど、ごうごうと燃え盛る激しい炎。
化け物は悲鳴を上げる暇さえなく、一瞬のうちに焼かれ、ただの灰色の塊へと変貌した。
あまりの出来事に呆然としていると、化け物を灰にした女性がこちらを向き、切迫した声をかけた。
「大丈夫ですかッ!」
「は、はい……」
何が起きたのか理解が追い付かず、気の抜けた返事しかできない。遊具の陰から女の子が飛び出し、僕の腰にしがみついてきた。
「その子は……?」
「この子は、親を……その……」
言葉に詰まっていると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「この子を、守っていてくれたんですね!本当にありがとうございます!」
眩しすぎる笑顔に、僕は思わず目を逸らした。
違うんだ。これは僕の勝手な罪滅ぼしだ。この子を助ければ、自分が許されるんじゃないかと思っただけなんだ。
「……そんな、大層なことじゃ……ないんです」
俯いた顔を、無理やり上げる。
「それよりも!この子を、安全な場所へ避難させてあげてください」
「それなら心配はいらない」
不意に、後ろからごつごつとした大きな手が僕の肩を掴んだ。
振り返ると、そこには屈強な体格の男と、僕と同年代に見える青年が立っていた。二人とも、女性と同じ黒いローブを纏っている。
年長の男の背には、黒い布に包まれた巨大な剣のようなものが括り付けられていた。
「まずは礼を言う。この子を助けてくれて、ありがとう」
男が短く言い、一瞬だけ深く頭を下げた。
「この子については、我々が責任を持って安全な場所まで送り届けよう。……お前も、ついて来い」
僕は静かに頷いた。聞きたいことは山ほどある。この街で何が起きているのか、あの怪物の正体は何なのか。
だが、それらの疑問を一度飲み込み、僕は彼らの後に続くことにした。
「凜花。ここ一帯の掃討は任せていいか?」
「了解しました!二人のこと、頼みますよ!」
凜花と呼ばれた女性は軽やかに駆け出していった。その背中が見えなくなるまで見送っていると、
「こっちだ、急げ」
促され、僕たちは彼女とは反対の方向へ走り出した。大男は女の子を軽々と抱え上げている。
遠ざかる公園。灰と化した化け物。
握りしめた手のひらには、まだ琉生の返り血が、生々しくこびりついていた。
――この日、僕の「日常」は死んだ。
そして、幕を開ける。
この国を永く脅かしてきた、忌まわしき因縁との戦いが。




