男
不気味な夜が街を襲う。
コツコツコツ。
自分の足音だけが響き渡る。
夜の暗さや静けさが嫌いだ。世界に自分がたったひとり残された時のような孤独が背中から押し寄せてくるからだ。
コツコツコツ。
それでもわたしは歩かねばならない。明るい我が家にさえ無事にたどり着く事が出来たら、この不安から逃れる事ができるからだ。
コツコツコツ。
もはや、自分の足音か、それが反響したものか区別がつかなくなっていた。わたしは自分の足音にすらこんなにも怯えている。
コツコツコツ。
「誰なの?」
静かにわたしは問いただす。もちろん返事などあるわけもない。
コツコツコツ。
これは一体誰の足音なのだろう。
「付いてこないで」
気づくとそう叫んでいた。不気味に広がる暗闇の中に答えなどあるわけもなかった。わたしが歩くのをやめると、ゲコゲコゲコと蛙が鳴く声が闇の中に広がった。わたしは、闇の中にたった一人だけ残されている。
コツコツコツ。
わたしは再び歩き出す。
コツコツコツ。
再び足音はわたしのあとをつけてくる。
「あなたは誰なの?」
後ろに人の気配を感じ、急いで振り返ると、真っ赤な唇だけが宙に浮かんでてらてらと笑っていた。
「君は、本当は付いてきて欲しいと思っているんだよ」
唇は知ったような言葉を吐く。そんなはずはなかった。わたしは誰かに付いてきて欲しくなどなかったのだ。わたしは一人で大丈夫なのだ。
「本当は寂しいくせにさ」
唇は続けていった。「素直じゃないな」
「ばかにしないでよ!」
わたしが泣きそうな叫び声をあげると、唇は既に闇の中に消えていた。蛙も鳴くのをいっせいに止めていた。
クワッ。クワッ。
鳥が遠くで鳴くのだけが聞こえる。
逃げるように家路に着きもう一度振り返ると、後ろに広がる闇夜には唇の影がなくなっていた。




