辺境伯聖女は城から追い出される~もう王子もこの国もどうでもいいわ~
第1話
聖女エイリスは自らの城の塔から領土を見下ろしていた。
二年前、平民であった彼女は聖女としての力を認められ、辺境伯の爵位を賜った。
しかし本来なら聖女ともなれば公爵の爵位を受け、王子と婚約するはずだ。
なぜエイリスは辺境伯に留まっているのか――それは結界を貼る力しか発現しなかったためである。
聖女は祈り、結界、治癒、奇跡、四つの力を発揮して初めて一人前と言われる。
だがエイリスはその内の結界しか使えないのだった。
それを王侯貴族が知った時の落胆の様子はいまだに彼女の心に刻まれいてる。
結局、王家は王子との婚約は保留とし、結界を管理できる国境沿いへ聖女を追いやることにして場を収めた。
そして聖女の田舎暮らしが始まった――
初めは鬱々としていたエイリスも、従者や使用人、そして領土の村人達の温かさに触れていくにつれ心が穏やかになっていった。
生涯をここで終えてもいい、そう思っていた時だった。
「聖女エイリス! 城門を開けよ! これは国王の命令だ!」
エイリスは塔から城門前を見下ろし、頭が痛くなった。
そこには護衛を引き連れたバイロン王子、そしてその胸に抱かれた少女がいた。
王子はなかなか返事をしないエイリスにしびれを切らし、書状を突き付けさせる。
「これは王の紋章が押された書状だ! 今すぐここを開けねば、罰せられるぞ!」
「ああ……もう! 分かりました! 門を開けます!」
エイリスは信頼のおける従者コーディに門を開けるよう指示した。
やがて城門が開くと、王子達はぞろぞろと城の中へ入ってくる。
渋い顔のエイリスは城主として彼らを迎え入れた。
「二年も放置しておいて……今更、何の用です?」
「ふん、エイリス。俺にそんな口をきいていいと思っているのか?」
「それより用件を言って下さい。王の命令なのでしょう?」
すると王子は従者に書状を広げさせ、こう言った。
「実は先日、聖女の力を発揮する少女が見つかった。結界だけのお前とは違い、四つの力を全て発揮する少女だ。しかし我が国ではすでにお前を聖女として認めている。だから王はその少女とお前に力比べをさせるべきだと言ったのだ」
「力比べ? まさか勝った者を聖女とし、負けた者を聖女から外すつもりですか?」
「その通りだ。そしてこの少女こそが、お前の相手だ」
そして王子の後ろで待機していた少女が歩み出た。
可憐――そう言い切れるほどの恵まれた容貌。
少女は驚くほど愛らしかった。
「初めまして、エイリス様。あたしはリネットですわ。どうぞよろしく」
その口調は柔らかかったが、目が明らかに敵意を剥いている。
王子はそんなリネットの肩に手を回すと、愛おしげに囁いた。
「ああ、我がリネット――未来の妻にして聖女よ。お前が勝つに違いない」
「光栄ですわ、バイロン王子様。絶対に勝利してみせます」
「だそうだ、エイリス。もしお前が負けた時は聖女の立場と辺境伯の爵位を剥奪し、この城から出ていってもらうからな? 覚悟しろよ」
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第2話
先ほどのやり取りに傷付いたエイリスは後のことを全て従者コーディに任せた。
王子とリネット達は部屋へ案内されて湯浴みや食事をしているだろう。
本来なら城主として彼らをもてなさなければならない。
しかし突き付けられた現実の厳しさに涙が止まらず、部屋から出られなかった。
「このまま幸せに暮らせると思ったのに……。どうしてこんな……」
リネットと勝負すれば負ける――王子の自信がそれを物語っていた。
そもそも自分は結界以外の力は全くないのだ。勝てる訳がない。
エイリスがベッドで泣き暮れていると、その影が揺らいだ。
『クク……エイリス……可哀想なエイリス……』
禍々しい声――それはエイリスにとって聞き慣れたものだった。
彼女はベッドから起き上がると、自分の影を見据えた。
影は気味悪く蠢くと、ひとりの美青年となった。
「魔王……! 何の用……?」
『こうして話すのはしばらくぶりだな。相変わらず麗しい』
「うるさい……! どうして姿を現したのよ……!」
『ついにこの国が手中に収まると思ってな。エイリス、お前は必ず負けるぞ』
「それはあなたが私の聖女の力を奪ったからでしょう……!」
実はエイリスは幼少から聖女の力を発揮していた。
しかし王家に娘を取られることを恐れた両親がそれを隠していたのだ。
本来、王家と聖女は一心同である。
聖女が王家と国を守り、王家が聖女を守るはずなのだが、幼いエイリスはその守護を受けることができなかった。
その隙を魔王は見逃さない――幼いエイリスは呪いを受け、三つの力を失った。
『お前の守るこの国の未来は決まった――俺は今、すこぶる機嫌がいい』
魔王は満足そうな笑みを浮かべ、こう囁いた。
『お前の力を戻す方法を教えてやる』
「何ですって……?」
『聖女を守護する力のある王子が、自らの意志でお前に触れればいいのだ。どうだ、簡単だろう?』
渦巻くようにくつくつと魔王は笑う。
一方、エイリスはその言葉に青ざめていた。
自分を嫌っているあの王子が自らの意志で触れてくる訳がない――
終わった。私は永遠に不完全なままだ。
そして魔王は消え、影は元々の姿を取り戻した。
エイリスは絶望のため、ベッドの上で茫然自失としていた。
希望はない、自分の幸せな生活は音を立てて崩れ去るに違いない。
しかし――
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第3話
部屋の扉が荒々しく叩かれた。
エイリスは慌てて飛び起き、扉をわずかに開ける。
扉の隙間から覗いていた相手は――バイロン王子だった。
王子は隙間に手を突っ込むと、思い切り扉を開いた。
「客人をもてなさず、放っておくとは城主失格だな」
「なっ……――」
王子はずかずかと部屋へ踏み入り、ソファーに座る。
そして自分の隣りに座れと、エイリスに促した。
その行動にエイリスの鼓動が高まる。
もしこのまま隣りに座れば、触れてくれる機会が訪れるのでは――
エイリスは淡い期待を抱き、そして思い切り首を振った。
そんなことある訳ない――きっと王子は私をコケにしにきたんだわ。
「何をしている? 早く来い」
「は、はい……」
言われた通りに隣りへ座ると、王子がにやりと笑った。
そしてテーブルの葡萄酒を勝手にグラスに注ぎ、こう言った。
「リネットをどう思う? 美しい娘だろう? しかも聖女の才能がある」
「はあ……確かに可愛いとは思います……」
「だろう? お前に指一本触れなかった俺が我慢できなかったほどだ」
王子は葡萄酒を呷り、好色そうに目を細めた。
その言葉にエイリスは衝撃を受けた。
「まさかリネットさんに手を出したんですか?」
「悪いか? どうせ手に入る女だろうが?」
「そんな……それじゃあ……――」
言い伝えでは、王子も聖女も婚儀を済ますまでは清らかでなくてはならない。
現在ではそれは形だけのものとして伝わっているが、そうではなかった。
王子が肌を合わせた相手は聖力を帯び、聖女の力を発揮する――だがその聖力に常人は耐えられないため、王子に抱かれた者はやがて発狂するのだ。
これは王家も知らないことだったが、聖女を研究していた魔王が教えてくれた。
今、エイリスはリネットの力の秘密を知ってしまった。
このままではリネットは狂ってしまうだろう。
「王子……! リネットさんと寝るのはお止め下さい……!」
エイリスが声を上げると、王子が目を見開いた。
その表情は驚きと喜びが混ざっている――エイリスは嫌な予感がした。
「そうか。お前、俺が好きだったのか」
「ち、違います……! そうではなく……」
「違わないだろう。俺もずっとお前を自分のものにしたいと思っていた。しかし聖力が足りない女を抱くなと、周囲に止められていたのだ。だが、ここはもう王宮ではない――」
次の瞬間、エイリスの唇が奪われた。
王子は乱暴に唇を重ねると、彼女の口内を舌で犯す。
「んっ……うぅんっ……ふっ……いやあッ!」
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第4話
エイリスは抵抗したが、王子は力でねじ伏せてくる。
嫌悪と快楽が入り混じり、エイリスは泣き出しそうだった。
私は……かつて王子が好きだった……――
でもこんなのは……――
霞む意識の中で、王子が自分の胸に手を伸ばしたのが分かった。
しかし手が触れる寸前、剣が抜かれる音がした。
「そこまでです。それ以上、我が姫君に触れれば、殺します――」
「ぐっ……貴様……」
ようやく王子の口づけから解放され、エイリスは周囲を見渡した。
そこには剣を首に突きつけられた王子――そして剣を持った従者コーディがいた。
コーディは剣をゆっくり動かし、エイリスから王子を引き剥がす。
やがて扉の前まで移動させられた王子はこう喚いた。
「言っておくがな、誘ったのはそいつだぞ! その女は俺のことを……」
「馬鹿なことを。エイリス様はあなたのような人間など相手にしません」
「チッ……! またの機会に会おう、エイリス」
「そんな機会は永久に訪れません」
それだけ言うと、王子は部屋を出ていった。
コーディはすぐに剣を仕舞うと、エイリスへ跪いた。
従者コーディ――彼はエイリスに忠誠を誓う美しき青年である。
金髪碧眼の彼は王子よりも王子らしい、エイリスはそう思っていた。
「ありがとう。助かったわ、コーディ」
「いいえ、礼には及びません……我が姫君……」
俯くコーディの顔を覗くと、怒りに震えているのが分かった。
それを見たエイリスの胸が締め付けられる。
彼はきっと私の唇があの粗野な王子に奪われたことを怒っているのだ。
もしかして彼は私のことを――
しかし今はそれよりも気になることがある。
王子が私へ触れるなんて有り得ないと思った――しかし今それは達成された。
体の奥底から溢れてくる感覚が、エイリスの期待を湧かせていた。
「ところでコーディ。あなた、怪我はない?」
「怪我……ですか?」
「ええ、かすり傷でいいのだけど」
「かすり傷なら今朝、仕事の途中で負いましたが……」
コーディは恥ずかしそうに腕を捲り、エイリスに見せる。
そこには赤い引っかき傷がいくつか走っていた。
きっと木の枝にでも引っ掛けたのだろう。
エイリスは息を飲むと、その傷に手を翳して聖力を流した。
「あ、ああ……温かい……」
「ええ、いいわ。もう治っているわよ」
「治って……?」
コーディが自らの腕を見ると、そこに引っかき傷はなかった。
すべすべとした白い肌があるばかりで、傷跡すらない。
「ひ、姫君……! これは……!?」
「聖女の力のひとつ、治癒よ。私は――聖女の力を取り戻したの」
エイリスは自らの従者を見詰め、にっこりと微笑んだ。
あえて試してみなくとも、他の力も同様に使えることが感覚的に解る。
私はもう欠陥聖女じゃない。
完全な聖女なのだ――
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第5話
ふとコーディを見ると、その顔に驚愕の色が浮かんでいた。
美しい碧眼がゆらゆらと揺らめいている。
「あぁ……我が姫君……やはりあなた様は素晴らしい……――」
コーディはそう言って涙を零すと、それを拭い、正面を見据えた。
いつもとは違った面持ちに、エイリスは息を飲んだ。
「ど、どうしたの……? コーディ……?」
「わたくしは今まで、姫君に嘘を吐いておりました」
「う、嘘――」
コーディの申し出にエイリスは衝撃を受けた。
心から信頼していた従者が嘘を吐いていた――どんな嘘だろうか。
エイリスが嫌な考えを巡らせていると、相手が予想外のことを言った。
「わたくしは平民の出と申しましたが、実は伯爵家の息子です」
「伯爵家……? でもあなたの姓を持つ伯爵家はないはずよ……?」
「ええ、姫君。わたくしはこの国の者ではないのです。私の正体は――隣国スライアからの使者です」
「スライア国からの使者……?」
「その通りです。あなた様をこのデルラ国から連れ出し、スライア国の聖女とする。それが国王より授けられたわたくしの任務なのです」
エイリスは驚きの余り、目を見開いた。
スライアと言えば、善政をする若き王がいる国だ。
さらにはまっとうな貴族が多く、国民の気質も穏やかで住みよいという。
自分もスライア国へ生まれればよかった、そう思っていたほどの白い国――願ってもない話だった。
「でも……どうしてスライア国は私を……?」
「ご存知ありませんか? スライア国には聖女がいないのです。我が国は栄えておりますが、その歴史は浅く、聖女という古代からの力を持った人間はいないのです」
「そうなの……。それでこの国から連れてこようとしたのね……」
「はい、このデルラ国での聖女の扱いは不当だと、我が国の者達は誰しも憤っております。それならスライアに来て国を守ってほしい、それが国王と国民の願いです」
エイリスはコーディの説明に納得した。
デルラ国を出て、スライア国の聖女になる――望むところだ。
今まで聖女として王侯貴族や王都の住民達を見てきたが、酷いものだった。
自らの安全と安楽を求めて、国民を蔑ろにする王族。
爵位ばかりを重んじ、自分より下の者を虐げる貴族。
聖女をペテン師だと軽んじて、嘲笑うばかりの国民。
王宮や王都で受けた辛い仕打ちがエイリスの脳裏に蘇っていた。
「分かったわ。私、スライア国へ行きます」
「本当ですか! 姫君!」
「ええ、リネットさんとの力比べはわざと負けます。その後、城を追い出されたら、二人で隣国へ行きましょう」
「はい……! そう言って下さると信じていました……!」
はらはらと涙を零すコーディを宥め、エイリスは微笑んだ。
真っ暗だった未来が開けて、明るくなった気がしていた。
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第6話
そして午後――エイリスとリネットの力比べが始まった。
従者、使用人、護衛の者……大勢の人間が集まる広間で、勝負は行われる。
「ふははッ! エイリスよ、城の者の前で恥をかくなよッ!」
「うふふ、全力で参りますわよ? 欠陥だらけの聖女様?」
バイロン王子とリネットが挑発するように笑う。
しかし負けると決めたエイリスは冷静だった。
怒りは感じない――むしろ憐れんでしまう。
「では、最初に祈りの勝負を致しましょう――」
王子が連れてきた従者がエイリスへ十字架を渡す。
聖女は十字架を手に祈るのが基本であり、それにより成果を挙げれば勝ちだ。
エイリスが横を見ると、リネットは自前の十字架を強く握り締めていた。
「公正を期すため、エイリス様はバイロン様の護衛を祈り、リネット様はこの城の使用人を祈って下さい。それでは、始め――」
そして二人は祈り始めた。
リネットは額に汗を光らせ、懸命に祈っている。
エイリスは心の中を無にし、祈るポーズを取っていた。
「どうだ? 何か変化はあったか?」
「いいえ……何も変化はありません……」
王子の質問にエイリスに祈られている護衛が答える。
その答えは正しい――エイリスは祈っていないのだから、変化があるはずない。
一方、リネットに祈られていた城の者が大声を上げた。
「あ、ああ……体が軽い! 目が、目がよく見えるぞぉ!」
その言葉に広間が湧いた。
やはり聖女はリネットなのだと、護衛達は言う。
逆に城の者達は肩を落とし、どこか悔しそうだった。
「おお! 成果を挙げたか! 流石は我がリネット!」
「うふふ! 当り前ですわ、王子様!」
そして二人は抱き合い、公衆の面前で唇を合わせた。
エイリスは溜息を吐きつつコーディの元へ戻る。
(姫君……)
(大丈夫よ、コーディ)
二人は視線を交わし、頷き合った。
そしてその後の力試しも、エイリスは無能を演じた。
結界だけは力を発揮したものの、手加減したためリネットに敗北する。
傷を癒す治癒も、何もないところから水を湧かせる奇跡も、エイリスは敗北した。
「くく……勝負は決まったようだな……?」
「うっふふ、無様に負けましたわね? 欠陥聖女様?」
嫌な笑みを浮かべ、王子とリネットは言う。
やがて王子は優越の笑みを浮かべると、エイリスの眼前に立った。
一体何をする気なのかと、エイリスは訝しむ。
すると相手は口角泡を飛ばし、罵り始めたのだ。
「この無能で欠陥だらけの平民女がッ! よくも今まで聖女面してくれたなッ! 俺達王族も、貴族も、国民も、お前が無能で迷惑かけられっぱなしだッ! さあ、跪いて謝れ――もし上手く謝れたら、王宮の豚として飼ってやるッ!」
その言葉にリネットも声を上げた。
「キャッハハハ! 平民の癖に調子に乗るから、こうなるのよ! あんたの祈りも、結界も、治癒も、奇跡もショボ過ぎて笑っちゃったわ! さあ、王子に謝るならあたしにも謝りなさい! 聖女の振りしてごめんなさいって靴を舐めれば豚さんとして扱ってあげるわ!」
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第7話
あまりの言い様にコーディが剣を抜こうとした。
しかしエイリスはそれを制し、恭しく頭を下げたのだ。
「おっしゃる通りです。ご迷惑おかけしたこと、申し訳ないと思っています」
「へえ、謝れるじゃねぇか? ……そんなに夜の相手がしてほしいか?」
王子はリネットに聞き取れないように、最後だけ耳元で囁く。
その言葉にエイリスは眉を顰めると、大きく身を引いた。
あまりに傲慢な王子に対し、強い嫌悪を感じる。
聖女になったばかりで、不安だった過去の私……――
こんな人を好きだったなんて……――
やがてエイリスは口を結ぶと、毅然とこう告げた。
「しかし王宮へは参りません。私は城を出たのち、国を去ります」
「何だと!? お前は王宮の豚になるって決まってるんだよ!」
その時、王子が手を上げた。
すると護衛達がエイリスを取り囲み、にじり寄った。
コーディがすぐさま剣を抜いて駆けつけるが、王子が笑う。
「こいつら護衛の正体はSからAランクの冒険者だ。お前じゃ負けるぜ?」
「何だと……!? 貴様、エイリス様を捕らえるつもりで……」
「その通りだ。エイリスは王宮で飼い殺しだ」
コーディが怯んだ時を見計らい、護衛達はエイリスに襲いかかった。
普通の婦女子ならば、容易く捕らえられてしまうだろう。
しかし今のエイリスは普通を軽く凌駕していた。
次の瞬間、護衛達は次々倒れていった――
誰しも安らかな顔をして、眠っているようだった。
エイリスは奇跡に分類される聖魔法を使い、護衛達を昏睡させた。
「は……? 何が起き……――」
「むにゃあ……ねむぃ……――」
次いで王子とリネットが眠った。
そして王子が連れてきた全ての者達が眠りに落ちた。
残っているのはエイリスとコーディ、そして従者と使用人だけだった。
「エ、エイリス様……」
「聖女の力をお持ちだったんですね……」
「この城を去ってしまわれるのですか……?」
従者と使用人が名残惜しそうに見詰めてくる。
誰にでも優しく、そして芯の強かった彼女は人々に愛されていたのだ。
彼女が去ってしまっては寂しい――皆、そう感じていた。
エイリスはそんな人々の手を取り、目を閉じた。
握った手の周りが輝き出し、眩い光の玉が現れる。
「ごめんなさい……私は行くところがあるの……。私の財産を皆で分けて使ってちょうだい……? それと、聖女の守護を残していくから、この光の玉を村の人達にも分けてあげてね……?」
「ああ、何て清らかな光だろう……――」
「心が強くなるような感覚だ……――」
エイリスが創り出した光の玉が煌めく。
それはあらゆる悪や災いからその身を護る守護なのだ。
彼女は確信していた――自分が去った後、この国が亡びることを。
「さあ、行きましょう、コーディ。さようなら、皆! 今までありがとう!」
そしてデルラ国から真の聖女は去ってしまった。
国境沿いから立ち昇るように張られていた結界は消滅し、今や国は丸裸だ。
エイリスを王宮へ連れてくることができなかったバイロン王子は国王に叱咤されたが、リネットという新しい聖女が誕生したため許された。
しかしデルラ国は王子と新聖女の犯した失態をやがて痛感することになる――
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第8話
「ほう……これは……――」
デルラ国の大司祭である老人は高揚の吐息を漏らした。
手にしているのは聖女が祈りに使う十字架――あまりに聖力が強い。
冷や汗を垂らしつつ十字架を矯めつ眇めつする大司祭を眺めているのは国王だ。
大司祭が溜息を洩らし、国王に尋ねる。
「これが、エイリスの使用した十字架か……?」
「ああ、護衛が言うには祈っているようには見えなかったそうだ」
「力を抜いておったか……。なのに、この強き聖力……恐ろしい……」
エイリスが去ってから三日――デルラ国は乱れ始めていた。
結界が消失したためリネットが新たに張り直したのだが、飛行系モンスターの侵入が相次いでいるのだ。
これまでエイリスはドーム状の結界を展開してきた。
それはモンスターとこの国を害する存在のみを防ぐ、見えない壁である。
しかしリネットが展開した結界とは、言わば高い塀――
それを越えることができる有翼のモンスターや飛行能力を持ったモンスターは易々と結界を越えてきていた。
エイリスは有能だった――この事実がようやく知れ渡ったのだ。
「真の聖女を逃がすとは……馬鹿なことをするわい……。この十字架に宿った聖力、あまりにも純粋で、気高く、そして美しい……。結界しか張れないというのは間違いなく嘘じゃな……」
「何だと? エイリスは力を隠していたのか? 消えたのも計画の上でか?」
「知らぬ……。聖女を守るはずのお主が、ぬかった所為じゃろう……」
「チッ……! 今すぐ捜索隊を出すぞ……!」
その頃、バイロン王子は苛立っていた。
おかしい、絶対におかしい。
エイリスは無能な平民女のはずだ!
ではなぜ力比べの後、護衛も自分達も眠ってしまったのだろうか。
ようやく目覚めた頃にはすでに王宮で、国王に激しく叱られた。
まさかエイリスが聖魔法を使ったのか?
それとも、忌々しいコーディが魔法使いだったというのか?
いや、その可能性は有り得ない。
どちらにしろSランク冒険者に適うはずないのだ――
「くっ……エイリスの奴、俺に恥をかかせやがって……――」
飛行系モンスターが侵入してきている今、エイリスを見つけ出せとの声が多い。
しかも彼女がいなくなった原因は王子にあると主張する者がほとんどだ。
あの平民女、どこまで俺に迷惑をかけるんだ、と王子は歯噛みする。
「おうじさまぁ! おうじさまぁ! どこぉ?」
その時、背後から甘ったるい声が響いた。
チッ……うるさいのが来た……。
王子は逃げようとするが、すぐさま背中を抱きすくめられた。
彼を抱き締めているのはリネット――しかしその目には狂気が宿っている。
「つーかまえーたぁ! ねえっ、ねえっ! あそびましょう!」
「う、うるさいリネット……! 俺は仕事があるんだ……!」
「どうしてぇ? あ、エイリスと遊ぶ気でしょう?」
「何を言っているんだ……! あいつは行方不明だ……!」
「え? でもそこにいるよ?」
「なっ……!?」
王子はリネットが指差した方向を見た。
しかしそこには中庭が広がっているばかりだ。
「いないだろうが……! 適当なことを言うな……!」
「えええぇ! うそうそぉ! そこにいるよぉ!」
「……うるせぇッ!」
王子はリネットを突き飛ばすと、逃げるように立ち去った。
始めは可愛い女だと思った――
本気で妻として娶ろうと思っていた――
だが、もうあいつは駄目だ!
王子とリネットの出会いは王宮で開かれたパーティだった。
子爵の娘が聖女の力に目覚めたという噂で持ちきりだったので、王子は会ってみることにしたのだが、どの力もトリックがバレバレのペテンだとすぐに見抜いた。
しかしリネット自身があまりに愛らしく、つい手を出してしまったのだ。
そして彼女が本物の聖力を発揮したのはその直後だった。
「エイリスは消え、リネットは気が触れてる……! クソッ……!」
聖女エイリスが消えたのも、新聖女リネットが狂ったのも、何もかもバイロン王子の責任――それが世間の言い分だった。
王子はやり場のない怒りを内に秘め、ひとり王宮を歩き回るのだった。
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第9話
力比べをした日の夜――
エイリスとコーディはスライア国の王都に到着していた。
コーディが手回しをし、ドラゴンが引く竜車を手配していたのだ。
本来ならそのまま王宮へ向かうはずだったが、エイリスが王都を見学したいと言ったため、二人は門の前で竜車を降りた。
「わあ! スライア国の王都ってとても素敵な場所ね!」
「気に入っていただけて、何よりです」
王都は夜であるにも関わらず、明るく賑やかだった。
魔道の力で光る街灯、よく整備された道、新しい立派な建物――
古い以外に価値のない石造りの家が並び、汚物の水溜まりが泥道にいくつもあったデルラ国王都とは大違いである。
「このスライア国は他国と比べ、飛躍的に発展しています。一般家庭には安価な燃料で家中を灯せる照明、調理に役立つ魔道具、国からの伝令を伝える魔道具などがあります。姫君も以前より良い暮らしを送れるでしょう」
「それは凄いわね……! でもどうしてそんなに技術躍進したの?」
「異世界から転移者や転生者をこの国に集めたからですよ。他国で勇者を得るため、召喚の儀をしているのを知っていますね? その時、勇者ではないと追放された人々を我が国王が迎え入れたのです」
「そうだったの……。転移、転生者が技術を齎したのね……」
その時、道の先から騎士の一団が歩いてきた。
先頭に立つのは銀の長髪を一つに束ね、同色の切れ長の目を輝かせ、褐色の肌をした美青年――この国の騎士団長トワイルである。
彼はエイリスを見ると、一瞬目を大きく見開いた。
しかしすぐに表情を戻すと、恭しく跪いたのである。
「ようこそ我がスライア国へいらっしゃいました、聖女様。わたくしはこの国の騎士団長トワイル・アウツと申します」
「わ、私はエイリス・ライトです……。よろしくお願いします……」
「ええ、これからはわたくしが貴女をお護り致します。麗しきエイリス様」
「……っ!」
エイリスが頬を染めると同時に、コーディが前に出た。
「最も身近で姫君を護るのはこのわたくしです。あなたはただの護衛でしょう?」
「何を言っている、コーディ。貴様では彼女を守り切れない」
「何だと!?」
「ちょ……ちょっと……揉めないで……」
今にも掴みかかりそうなコーディをエイリスが宥める。
すると彼はすぐに大人しくなり、引き下がった。
「それでは王宮へ案内いたします。エイリス様はご用意した馬にお乗り下さい」
そして聖女達は騎士団に率いられ、王宮へ向かった。
すると聖女の到来を知った住民達が騒ぎ、ちょっとしたパレード状態となる。
エイリスは困惑したが、それと同時に感動もした。
ここへ来て良かった――早々とそんな思いが湧いてくる。
やがて王宮へ到着すると、すでに国王が待っているという。
エイリスとコーディ、そしてトワイルはすぐに謁見の間へ向かった。
国王という立場の人間に会うことにエイリスは慣れていたが、それでも相手がスライアの国王だと思うと緊張してきた。
王座前の広間で跪き、頭を垂れて待機していると、柔和な声が響いた。
「頭を上げて下さい、聖女様」
「は、はい……」
エイリスが顔を上げると、そこには微笑むスライア国王の姿があった。
彼の名はレイト――若くして即位したため、年齢はエイリスの少し上くらいだ。
柔らかな茶髪、慈悲深い茶の瞳、その顔貌は端正で優し気だ。
「スライア国へ来ていただき、心より感謝します。早速本題に入りますが……我が国の聖女になっていただけるのでしょうか?」
「はい、私はそのために来ました。全てはコーディのお陰です」
「おお……! 本当ですか……!?」
レイトは感嘆の声を漏らし、嬉しそうな笑みを浮かべた。
エイリスはそれでも不安が消えず、こう尋ねた。
「スライア国は私などが聖女で、ご迷惑じゃありませんか……?」
「迷惑などと、そんなことはあり得ません! 私も、国民も、聖女様の到来を待ち望んでいました! 聖女様は今から我が国の守護者です!」
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第10話
レイトははっきりとそう言うと、コーディを見た。
「コーディ・パイロフよ、よくぞ聖女様を我が国に導いてくれた。そなたには公爵の爵位を与え、何なりと望みを叶えよう。さあ、何でも言ってくれ」
「光栄に存じます、陛下。願わくば、わたくしを聖女様のお傍に置いて下さい」
「従者のままでありたいか」
「はい、それがわたくしの願いです」
「よろしい。その願い、叶えよう。ただし聖女様がよろしければ、だ」
するとコーディはおずおずとエイリスを見た。
その捨てられた子犬のような視線にエイリスは胸を打たれた。
どうしてコーディは私なんかの従者でいたいのかしら……?
後で聞いてみなくちゃ……――
「はい、構いません。コーディは私の恩人ですもの」
「ああ……我が姫君……!」
レイトはそんな二人とトワイルに目をやりながら言った。
「コーディを従者、トワイルを護衛として付けます。よろしいですか、聖女様?」
「ええ、ありがとうございます、陛下」
「いいえ、礼には及びません。大事な聖女様を守るためです。……そこで、ひとつお尋ねしたいことがあるのですが」
レイトの声色が真剣みを帯び、エイリスは緊張する。
何だろうか、まさかデルラ国の機密を教えろと言うのではないか。
あの国にはどろどろに腐敗した負の面はいくらでもあるが、重要機密と言えるものなんてなかったはずだけど――
しかしレイトはエイリスが予想していなかった点を突いた。
「デルラ国では王家の者が聖女を守るはずですね? その守護が消えて、聖女様は平気なのですか……?」
レイトの言葉にエイリスはぎくりとした。
その通りだった。
今の私は王家の守護を失っている。
辺境伯としての二年間も守護がなかったため、何度魔王に襲われかけたか――
「そ、それは……――」
『問題ないぞ、スライアの国王よ』
その時、エイリスの影が揺らぎ、ひとつの美しい形を造った。
漆黒の長髪と瞳、月の如き白肌、鋭い牙――魔王がその姿を露わにした。
魔王は辺りを見渡すと、愉快そうにくつくつと肩を震わせた。
それと同時にエイリスの血の気が一気に引いていく。
終わった……スライア国の聖女として終わってしまった……――
これで私はこの国を追い出される――
もう駄目だ――
「なっ……! 魔王……!?」
「どうしてここに魔王が……!?」
コーディとトワイルが剣を抜いて、魔王に突き付ける。
しかしその抜身を魔王が撫でると、一瞬にして砕け散った。
『ふん、他愛もない』
魔王は剣を撫でた手で、エイリスの肩を抱いた。
そして楽し気に笑いながら、周囲の者へ告げる。
『このエイリスは俺が守護している。王家の者の守護など比べ物にならない、強き守護だ。そもそもこの娘の聖女の力を奪い、やがて国を出るように仕向けたのはこの俺だ。そこの従者の働きは案内役程度だな』
「何だと……!? 貴様、姫君から手を放せ……!」
コーディが怒りを露わにしても、魔王は動じない。
むしろエイリスの肩を強く抱き、見せ付けている。
やめて……――
これ以上、話さないで……――
エイリスは顔面蒼白のまま口を開く。
「陛下……これは……このことは……――」
エイリスはレイトに罵られることを覚悟した。
ようやく聖女を手に入れたと思ったのに――
まさか魔王に魅入られていたとは――
そんな言葉が浮かんだが、レイトは柔和な表情のまま、こう言ったのだ。
「大丈夫ですよ、聖女様。私は魔王と実際に会って、話しをしたことがあります」
「ごめんなさい、ごめんなさい……えっ!?」
「この魔王と私は秘密裏に協定を結んでいます。魔王は全ての国を滅ぼす存在ではないのですよ」
エイリスはその言葉に唖然とする。
魔王と言ったら、人類を滅ぼす存在――デルラ国ではそう教わった。
しかしスライア国王は魔王と協定を結んでいるという。
どういうことなのか。
『スライア国王が言った通り、俺は全ての国を滅ぼす存在ではない。俺が滅ぼすのは腐敗し、堕落した人間とその国だけだ。邪悪は二つもいらぬ。そして善良はむやみに滅すべきではない』
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第11話
「確かに、今まで魔王軍が滅ぼしたのは悪政を敷いた支配者のいる国ばかりだ……」
「ええ……魔王軍が善人を殺さずに逃がしたという噂は事実だったんですね……」
トワイルとコーディの言葉にレイトが頷く。
魔王は悪国は蹂躙するが、善国には手を出さない――それが支配者達の間で知られる事実なのだと彼は教えてくれた。
エイリスはひとり驚きに震えていた。
隙あらば聖女である自分を襲おうとしていた魔王――
そんな彼が悪を滅ぼしていたなんて――
『くく……エイリスは何か勘違いをしているようだな。俺がお前を襲ったのはその命を散らそうとした訳ではない。お前の純潔を奪い、我が花嫁にしようとしたのだ』
心を見透かしたような言葉――それにエイリスは赤くなった。
「は、花嫁……!? どうして魔王が聖女を花嫁に……!?」
『俺は邪悪でありながら善良を尊ぶが故、聖力を求めている……そう言ったら納得するか? だが、襲った理由は明快だ。お前が好きだからだ、エイリス』
「好きって……私を……?」
『ああ、お前は自分が思っている以上に魅力的だ。そこの従者と騎士団長がお前を慕っているのに気付いているだろう? だが、俺は他の奴などにお前を渡さない――』
不意に魔王が俯き、美しき黒髪が零れる。
それに見惚れていたエイリスは唇を魔王に奪われていた。
合わさった唇に流れてくるのは荒々しい魔力――それがエイリスの粘膜を刺激し、快楽へ向かわせていた。
「んっ……ふぅ……離してっ……んッ……いやっ!」
エイリスが押し返すと、意外にも魔王は身を引いた。
そして満足気な笑みを見せ、その身を漆黒のマントで覆った。
暗黒の如き体が揺らめいている――
『いいか、お前は俺のものだ……エイリス、愛しているぞ……――』
魔王は愛おし気に囁き、エイリスの影の中へ姿を消した。
やがて影は元に戻り、魔王が放った魔力の気配だけが残っていた。
「大丈夫ですか、姫君!」
「エイリス様、お怪我はありませんか!?」
「だ、大丈夫よ……コーディ……トワイルさん……」
駆け寄って来ようとする二人をエイリスは手で制す。
唇が……いや、体中が魔力に浸されて、甘く痺れていた――
今、近寄られたら自分が快楽に負けそうになったことを悟られる、そんな思いでエイリスは自らを抱き締めていた。
「聖女様」
その声に顔を上げると、レイトが心配そうに見下ろしている。
これから世話になる国王に魔王との口づけを見られた――それだけでエイリスは顔から火が出るほど恥ずかしかった。
「今日はもうお休み下さい。旅の疲れもありましょう?」
「お心遣い、ありがとうございます……。あの、魔王のことは……――」
「大丈夫ですよ。私は魔王のことを好ましく思っております。ですから、その魔王と繋がりのあるあなたがいてくれて、心強いのです」
「陛下……」
エイリスはレイトの優しい言葉に救われた。
この国王に尽くしたい――そんな思いが湧いていた。
そしてエイリス、コーディ、トワイルは謁見の間から下がった。
すると侍女達が現れ、エイリスは彼女のために用意したという部屋へ案内されることとなった。
恐ろしく天井が高い広々した空間、磨き抜かれた高級木材でできた調度品、花模様が描かれた分厚い絨毯と壁紙、治癒効果のある花々が生けられた花瓶――それが見たこともない明るい照明に照らされている。
今はまだ肌寒い季節だったが、ふわりと暖かい。
暖炉を見ると、マントルピースの奥に熱を発する魔道具が置かれていた。
エイリスはそのもてなしに感嘆の吐息を漏らし、侍女達と共に浴室へと向かった。
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第12話
早朝――
エイリスは王宮内の庭園を散歩していた。
自分を世話してくれた侍女達は皆優しく、丁寧に体の手入れをしてくれた。
そのため、非常に目覚めがよく、体調が良い――だからこうして庭園を巡る。
寒い時期に咲く花々が植えられた中央部分を回り、建物沿いを歩いて奥の作業小屋がある場所まで歩いてくると、彼女はひとりの少年を見つけた。
その少年は変わった服装をしている。
襟が詰まった黒尽くめの服――学園で着る制服に似てなくもない。
エイリスがじっと見詰めていると、少年は振り返った。
「……誰です?」
「え、えっと……――」
視線だけで私の存在に気付いた……?
そんな、まさかね……?
エイリスは少年をまじまじと観察する――彼は大きな吊り目を持った美少年と言える顔立ちをしていた。
真っ黒な髪と瞳は魔王と同じだが、禍々しさはなく純朴さを感じる。
彼は人に慣れていない猫のようにエイリスを睨んでいた。
「わ、私は昨日からここに住むことになったエイリスよ……」
「エイリスさん? 僕はそんなこと聞いていません」
「そう……そうなの……」
そこで会話は終わってしまった――気まずい沈黙が二人の間に流れる。
やがて少年は背を向けると、しゃがんだまま作業を始めた。
エイリスはそんな少年に近づくと、声をかけた。
「何をしているの?」
「……花を植え替えているんです」
「花を? もしかしてあなた、庭師さんなの?」
「いえ、僕はただの居候です。咲きが悪く、捨てられた花を拾ってきたんです」
見ると、少年は花がほとんど咲いていない株を植え替えている。
エイリスはそんな少年を見て、少しだけ心動かされた。
いや、彼があまりに微笑ましくて、ときめいたのだ。
目つきの悪い黒猫が捨てられた花を必死に生かそうとしている――そんな童話が頭の中に浮かんでいた。
「ちょっと貸してちょうだい?」
「……え」
エイリスは少年から植木鉢を奪うと、その花に聖力を優しく流し込んだ。
花はあっという間に元気になり、いくつもの蕾をつけて揺れていた。
少年の吊り目が大きく開かれる――
「つ、蕾がこんなに……――」
「これで沢山の花が咲くわね?」
そう言って、植木鉢を少年に返す。
少年は蕾をいくつもつけた花を見て、唖然としている。
エイリスはそんな少年が可愛い黒猫にしか見えず、微笑んだ。
「他にも元気にしてほしい花があったら言ってちょうだい?」
「ほ、本当に……? お願いしても、いいんですか……?」
「ええ、勿論よ」
それからエイリスは三十株ほどの花に聖力を流して、沢山の蕾を付けさせた。
少年はそんな光景を信じられないと言った表情で見詰め、そして微笑む。
最初は警戒していた少年が嬉しそうに笑ってくれた。
エイリスの心がほんのり温かくなる。
この国の住人は本当に優しいのね……――
「――エイリスさん」
少年が植木鉢を抱いたまま、こちらを見た。
心なしか瞳の奥底が光っている。
「あなたを探している人が遠くから近づいています」
「え? どうして分かるの?」
「秘密です。その人はあの角から来ます。行った方がいいんじゃないですか?」
「え、ええ……そうね。それじゃあ、さようなら」
エイリスが示された角へ向かうと、コーディの呼び声がした。
部屋から消えたエイリスを心配し、探しに来ていたのだ。
その時、後ろから少年の呟き声がわずかに聞こえた。
「僕の名前はキリヤ・リュウゼン。またお会いしましょう――」
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第13話
それから三日間――エイリスは聖女として働き始めていた。
国の周辺に結界を張り巡らし、作物の豊穣と国民の幸せを祈り、怪我や病気を負った人々を癒し、奇跡で様々な問題を解決した。
レイト国王はその働きを喜び、どんな望みも叶えると言った。
しかしエイリスはまだ自分は聖女として未熟だと、その申し出を辞退する。
そんな慎ましさと実力の高さに国民からは称賛の声が上がり、エイリスはこの国の聖女として強く認められていった。
エイリスは心から幸せだった。
聖女として生まれて良かった、初めてそう思った。
しかしそんな時、悪い知らせが入った――
レイトはエイリスとコーディ、トワイルを呼び出すと、こう告げた。
「聖女様。たった今、報告が入りました。スライア国王都の門前にデルラ国の捜索隊が来ているようです」
「デルラ国の捜索隊……? まさか私を……?」
「そのようです。しかも第一王子であるバイロン様も来ているそうです」
「お、王子が……!?」
エイリスは嫌な予感がしていた。
あの王子が来ている――きっと私を連れ返す気だわ。
不安に震えるエイリスに対し、レイトは申し訳なさそうに告げた。
「デルラ国の王子が来た以上、追い返す訳にはいきません。それに“聖女がこの国へ入るところを見た、聖女を出さねば戦争だ”と王子は主張しているそうです。そのため聖女様も話し合いに立ち会ってもらうことになりますが……大丈夫ですか?」
「はい……覚悟はできています……」
王子についてはけじめを付けなければならない、エイリスはそう思っていた。
かつて私は王子のことを好きだった、心の拠り所としていた――しかしそれは自分の弱さが、理想の王子様という幻想を求めたに過ぎなかった。
現実の王子は愚かで、粗野で、汚らわしい。
そんな風にしか思えない自分が嫌になるが、それが本心だった。
この機会で、王子ともデルラ国とも決別する――エイリスは堅く決意していた。
それから数時間後――
「聖女エイリスを迎えに来た。さあ、我が国の聖女を返してもらおうか」
王宮の広間に捜索隊と王子が入ってきた。
捜索隊の数はエイリスの予想以上に多く、数百はいる。
王子は足を踏み入れるなり今の台詞を吐き、人々を不快にさせた。
そんな中、レイトが王子に向かって毅然と言い放つ。
「聖女様を返せとは、どういうことでしょうか?」
「四日前、そこのコーディとかいう奴が、竜車で聖女を連れ去るところを見た人間が大勢いるんだよ。それで返せと言っている」
「なるほど。しかし話しによると、聖女様はデルラ国の新聖女様と力比べをして負けたそうですね。しかも負けた方は聖女から外すとの約束だったと。それを返してくれとは、おかしいのではありませんか?」
「はっ! そんな嘘、誰が吐いた? 我が国の聖女は最初からエイリスだ!」
やはり王子は汚い――なぜなら簡単に偽りの言葉を吐く。
エイリスはレイトの隣で、ぎゅっと手を握り締める。
するとそれを見た王子がにやりと笑った。
「なあ、エイリスも帰りたいだろう? 俺のことが好きだもんなぁ?」
「……っ!」
王子は恥ずかしげもなくそう言うと、大きく歩み出た。
そしてエイリスの腕を強引に掴もうとした。
しかし――
「――エイリス様に触れるな」
王子の首に剣が突き付けられる――それを持つのは騎士団長のトワイルだ。
その切っ先は喉仏を狙っており、王子はごくりと唾を飲んだ。
「なんだぁ……てめぇ……」
「エイリス様の護衛トワイルだ。彼女には指一本触れさせぬ」
「はあ? 他国の王子に剣を突き付けるとか、どんな馬鹿だよ!」
その言葉と同時に王子は手を挙げた。
すると捜索隊が押し寄せ、トワイルを取り囲む。
捜索隊はアイテムボックスから武器を取り出すと、一斉に構えた。
その闘気は常人のものではなく、手練れが発するものだとトワイルは理解する。
「ほう、冒険者か――」
「その通りだ! お前ら、こいつを殺っちまえ!」
雄叫びが上がり、冒険者達はトワイルへ襲いかかった。
先頭に飛び出したのは網を持った者達だ――対象へ向けてその網を放つ。
エイリスは聖魔法を使おうと手を伸ばしたが、トワイルはそれを目で制した。
直後、網がトワイルの体を覆った。
「ぎゃははは! 騎士団長が聞いて呆れるぜ!」
「本当だぜ! そのまま無様に死ぬがいい!」
「ふ……剣を使うまでもないか……――」
トワイルは剣を鞘に納めると、網を思い切り自分側へと引き込んだ。
網を掴んでいた者達の体が引き寄せられ――そして宙に浮いた。
それからは一瞬の出来事だった。
トワイルは網と人間を振り回し、数百の人垣を薙いだ。
それは常人には到底できぬ力業――トワイルは騎士でありながら、ずば抜けた筋力を発揮する剛力のスキルを有していた。
やがて倒れた冒険者達には待機していた騎士達が集まり、剣を突き付ける。
「な……何だと……!? こいつらの中にはSランクの冒険者も……――」
「デルラ国の冒険者などSランクでも取るに足りぬ」
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第14話
「うぐぐっ……! クソっ……クソぉ……!」
王子は血が滲まぬばかりに歯ぎしりすると、剣を抜いた。
そしてトワイルへと猛然と向かっていったのだ――その瞬間、エイリスは数本の銀色の糸が走るのを見た。
剣を抜いてすらいなかったトワイルが剣を鞘に納める仕草をする。
ぐらり、と王子の体が揺れた。
「ぐ……ぐぐ……この野郎がぁ……――」
見ると、王子の服に幾筋もの切れ目が入っていた。
その隙間から肌が覗くが、傷はついていない。
トワイルは王子を殺すことはしなかった。
「安心して下さい。皮膚を斬ってはおりません。さあ、話し合いを――」
「ふざけるなッ……! 誰がてめぇらと話し合いなんかするかよ……! 俺はエイリスを連れ帰らなければ、王位継承権を剥奪されるんだ……! 国王に見捨てられた俺には帰る場所なんて、もうどこにもないんだよ……!」
王子は憔悴し切った顔で捲し立てる。
そして指を鳴らし、こう叫んだ。
「この俺の……デルラ国の恐ろしさを思い知らせてやる……!」
その時、王子の服の中から一匹の蝙蝠が飛び上がった。
それは広間を飛び交い、開いた窓から外へと逃げる。
蝙蝠は一直線にデルラ国の方向へ飛んでいった。
「まさか伝令を……!?」
「バイロン王子、何をしたのです!?」
レイトとエイリスの問いに、王子はにやりと口を歪ませた。
その様子は今までの王子とは違う――どこか絶対的な優越を滲ませている。
これは一体……何が起ころうとしているというの……?
デルラ国にはスライア国に適う兵力はないのに、あの余裕は何なの……?
不安に駆られるエイリスをよそに、王子は一脚の椅子を引き寄せ、そこに座った。
「ひとつ、昔話をしてやる。よぉく聞けよ?」
そして王子は話し始めた――
「我が国は近隣諸国と比べ、最も歴史の深い国だ。そのため、古い言い伝えが残っている。かつてこの大陸には世界を滅ぼせるほどの邪竜がいた。そいつはあらゆる魔法を使いこなし、果てしない体力と精神力で国を焼き尽くすほどの火炎を吐く――そんな途轍もない化物だ。どうだ、聞いたことあるか、エイリス?」
エイリスは緊張したまま首を横に振った。
そんな話しは一度も聞いたことがない。
王子は嘲笑いながらも話しを続ける。
「くく……知らねぇだろ? 当然だ、これは王位継承者にしか伝えられていないからな。話しを戻そう、その邪竜はあらゆる国を滅ぼし、ついにデルラ国へやって来た。しかしそこで聖女に封印されることとなる。その聖女はエイリスの先祖だが、お前とは比べ物にならない強い聖力を持っていた。デルラ国王はその聖女を娶り、邪竜を封じた岩上に王宮を築いて封印を守った。……そろそろ俺の意図が分かってきたか?」
広間に騒めきが広がっていた。
まさか、彼は途轍もなく恐ろしいことをしようとしているのでは――そんな視線を受けると、王子は一層嬉しそうにこう告げる。
「そう、俺は伝令を飛ばし、従者に邪竜の封印を解くように伝えた! もうデルラ国も、スライア国も、この世界も、一巻の終わりだ! はっはははぁッ!」
王子の高笑いが響き渡る――
そ、そんな……信じられない……――
まさか王子がそんなことを企んでいたなんて……――
このままじゃ、私達は……いいえ、世界が滅んでしまう……――
エイリスも、レイトも、誰しもが体を強張らせ、立ち尽くしていた。
しかしコーディだけが王子の胸倉を掴んで、こう訴えかける。
「今すぐ封印を解かないよう、伝令を送って下さい! その邪竜が復活すれば、あなただって死ぬんですよ!? それが分からないんですか!?」
「ハッ、残念だったな! 王宮で暮らしている者は岩の聖力を受けるため、邪竜から守られるんだ! 特に岩の近くに部屋を構えた俺と国王はな!」
「何ですって……!? 卑怯な……――」
王子は狂ったように笑い、そして喚き散らす。
「お前らはもうお仕舞だ! 最強最悪の邪竜、レジェンダリードラゴンに食い殺されるんだぁ! 俺はそれを高みの見物といこうじゃねぇか! あっははははッ!」
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第15話
「……その最強最悪のレジェンダリードラゴンってこれですか?」
広間の入口から透き通った声が響いた。
そこには黒尽くめの制服らしき服を着た少年が立っていた。
彼が片手で引き摺るのは――血を滴らせる巨大なドラゴンの生首。
その首からは禍々しいオーラが溢れ、ただのドラゴンでないことは明らかだった。
広間にいた人々は一瞬悲鳴を上げたが、すぐに大人しくなる。
今、話しに出ていた邪竜の首が目の前にある、そのことが信じられなかった。
すると少年は溜息を吐いて、こう語り出した。
「普通、こんな目立つ存在を復活させる企みに気付かない訳ないでしょう? あなたの企みを知った時から、対策は取っていました。まあ、魔法無効化を十キロ圏内に敷いて、その範囲内にいた人々には魔法障壁を張り、遠距離から即死効果を放つだけで倒せたので、対策もクソもないんですが――」
「は、はぁ……?」
バイロン王子は間の抜けた声を発し、椅子からずり落ちた。
エイリスは少年を見て、目を見開く――あれは先日会ったキリヤ・リュウゼンだ。
彼が、華奢な体つきをした彼が、邪竜を倒したというのか。
その時、エイリスのすぐ隣りから拍手の音が響いた。
目をやると、レイトが手を打っている。
「よくやった、キリヤ」
「ああ。ありがと、兄さん」
レイトは静まり返った広間を抜けて、入口へ歩いていく。
そして黒猫のようなキリヤの頭をよしよしと撫でた――キリヤは少し嫌そうな顔をして、その手を受け入れている。
エイリスが驚きの表情のままレイトに尋ねる。
「兄さん……? もしかしてキリヤは陛下の弟君なのですか……?」
「その通りです、聖女様。私は本名をレイト・リュウゼン・スライアと申します」
「そうなのですか……? しかしリュウゼンとは聞き慣れない姓ですね……?」
「ああ、私とキリヤは異世界からの転移者なんですよ」
「転移者……!? 陛下がですか……!?」
するとレイトとキリヤは頷き、こちらを見た。
背が高く髪も目も茶色のレイト、そしてまだ背が低く髪も目も黒色のキリヤはよく見れば鼻と口がそっくりだ――並んで紹介されたら、兄弟だとすぐに分かったはずだ。
そして二人は自分自身の能力を告げた。
「私、龍前怜人は日本という国から転移させられた時、王者スキルを――」
「僕、龍前霧也はあらゆるチートスキルを得たんですよ」
そう言って二人は目を合わせる。
そんな様子はいかにも仲良さげで微笑ましい。
しかし今はそれどころじゃないと、エイリスは尋ねた。
「そんな素晴らしいスキルを……? でもお二人は勇者ではないのですか……?」
「私達は勇者じゃなかったんだよな、キリヤ?」
「ええ、兄さん。それでも僕は世界最強に限りなく近いですけどね」
世界最強――確かにキリヤは邪竜を倒すことで、それを証明している。
その言葉に、椅子で伸びていた王子が虚ろに呟いた。
「せ、せかいさいきょう……だと……?」
「はい、その通りです」
キリヤはそう答え、王子の元に歩いていく。
そして王子の耳元に口を寄せると、はっきりと言った。
「もう二度と、エイリスさんに迷惑をかけないで下さい。彼女は咲かない花に蕾を持たせるような心優しい人なんです。今後、彼女のことはこの僕が責任を持って守ります。もし彼女に手を出そうとしたら――死よりも辛い責め苦を与えますよ?」
「ひっ……!? ひいぃぃぃ……!?」
王子はついに椅子から転げ落ちると、尻もちをついた。
そのまま後ろ向きに這っていくと、邪竜の生首にぶつかって悲鳴を上げる。
やがて王子は何度も生首にぶつかると、這う這うの体で王宮から逃げていった。
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第16話
「ふう……これで、邪魔者はいなくなりましたね?」
キリヤはそう言うと、エイリスの元へ歩いていって、その手を取った。
そして恭しく持ち上げると、手の甲へ静かに口づける。
エイリスの手に、唇の柔らかな感触が伝わった――
「な、何を……――」
手の甲に口づけたまま目線を上げたキリヤは、エイリスの目に妖艶に映った。
その表情はとても精悍で、猫というよりは豹――大人の男を思わせる。
そんな彼がエイリスの瞳を見詰めながら、囁く。
「エイリスさん、告白させて下さい。捨てられた花を元気にしてくれたあなたに恋をしました。僕はあなたのことだけを守りたい……いいですか?」
「え、え……? キリヤ……?」
「僕は今まで戦いにしか生きる意味を見出せませんでした。でもあなたという女性が現れてから、この胸が絶えずときめいている。僕は知っている、あなたがどんな戦士よりも強く、そして優しいという事実を――」
「そ、そんな……――」
エイリスが目を白黒させていると、片方の手も持ち上げられた。
見ると、その手をレイトが真剣な面持ちで握り締めている。
陛下まで……一体何を……――
「キリヤ、抜け駆けをするな。聖女様……いえ、エイリス様。一目見た時からあなたを王妃に迎えると決めておりました。どうか、結婚して下さい」
「えっ、ええっ……!? 陛下……!?」
「私は今まで何人もの王妃候補と語らってきました。そんな日々の中、自分の伴侶となるべき人は誰ひとりとしていないと嘆いていたのです。しかしあなたという女神が現れ、心が決まりました。私の愛をあなたに捧げます――」
「な、何を言って……――」
エイリスが取り乱しても、二人はその手を離そうとしない。
美しくも有能な兄弟に求愛され、エイリスは息が止まりそうになった。
「我が姫君……」
「エイリス様……」
ああ……遠くからコーディとトワイルさんが睨んでいる……――
しかもそんな二人を兄弟が目で威嚇しているわ……――
どうしたら……どうしたらいいの……――
エイリスがおろおろと辺りを見渡していると、その影が揺らいだ。
『それは俺の女だ、小僧共――』
「チッ……魔王ですか……」
「おや、魔王様」
『随分と不満げだな、転移者の兄弟よ。しかしその女が俺のものだということはお前らが生まれる前から決まっているのだ――手を放せ』
突然の魔王の登場に、キリヤとレイトは愛しい相手から名残惜しそうに手を離す。
やがて魔王は影から全身を現すと、エイリスの肩を抱いて満足気に微笑んだ。
そして広間を一通り見渡し、邪竜の首を見るなり鼻で笑った。
『この程度のドラゴン如きで、世界を滅ぼそうとは笑わせるな――』
「ええ、邪竜より、あなたが相手だった方がヤバかったですよ」
『ふん、舐めた口を利く』
魔王はキリヤを一瞥すると、レイトへ向かってこう告げた。
『今日、魔王軍はデルラ国へ攻め入った。数日も経たぬうちにあの国は滅ぶだろう』
「そうですか。では我が国はデルラ国民の受け入れと保護を進めます」
『承知した。ただし悪人は一人たりとも逃がさぬがな』
そう……魔王軍がデルラ国に……――
エイリスはそれを聞いて少しだけ寂しい思いに駆られた。
彼女の両親は三年前に流行り病で亡くなり、すでに実家はない。
それでも生まれ故郷が消えてなくなるのは悲しいような心地がした。
しかしデルラは腐敗した悪しき国――
あれは、なくなった方がいいのだ――
「さようなら……デルラ国……――」
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第17話
数日後、魔王の言う通りデルラ国は滅んだ。
そしてエイリスは何のしがらみもなく、スライア国の聖女として認められた。
彼女は喜んで、国に、国民に、聖女の力を限りなく尽くす――
そんなある日のこと――
「ふう、午前中は忙しかったわね」
「お疲れ様でした、姫君」
「ええ、ありがとう」
季節は移り変わり、花盛りの日々が訪れていた。
そんな麗らかな午後、エイリスとコーディは中庭でお茶をしていた。
焼きたてのジャム入りクッキー、新鮮な果物たっぷりのタルト、香り高い拘り抜かれたお茶――侍女達は働き者の聖女のために飛び切りのアフターヌーンティーを用意していた。
いつもは世話焼きな侍女達が給仕するのだが、今日はその姿がない。
エイリスは秘密の話しがあると言い、侍女達を下がらせていた。
「ねぇ……コーディ……」
「何でしょう?」
飲んでいたお茶を下げ、こちらを見詰めるコーディ。
いつ見ても、彼は理想の王子様のように麗しい。
褒美として私の従者になることを望んだコーディ……魔王はその彼が私のことを慕っていると言った……――
それが本当なのか、どうしても確かめたい……――
「コーディ、あなた、私のことをどう思っているの?」
「わたくしは姫君を素晴らしき聖女様だと思っておりますよ」
「そ、そうじゃなく……もっと……女性としてどう思ってるかよ……」
「え……――」
コーディは美しい碧眼を見開いた。
そしてみるみるうちに、その頬を薔薇色に染める。
あまりに素直な反応に、エイリスも釣られて赤面しそうになった。
するとコーディはすぐさま席を立ち、そのまま芝生の上に跪いたかと思うと、エイリスの手を恭しく取った。
「我が姫君、あなた様をひとりの女性として、深くお慕い申しております」
その告白にエイリスの鼓動が高鳴る――
やはりコーディは自分のことを慕ってくれていたのだ。
辺境伯としての二年間、彼には世話になりっぱなしだった。
そんな中で、エイリスはコーディに惹かれる自分に気付いていた。
だから……このままもし彼が求婚してくれたら……きっと私は……――
「必ず幸せにすると約束します。ですから、わたくしと……」
「――その言葉、聞き捨てならないな」
「――私もその話しに混ぜてもらえますか?」
「……え?」
恐ろしげな声に顔を上げると、テーブルの横にトワイルとレイトが立っていた。
こめかみに青筋を浮かべたトワイル――
冷ややかな笑みを浮かべたレイト――
凄まじい迫力にエイリスとコーディは怯んだ。
「え、えっとトワイルさん……? 陛下……?」
「エイリス様、まさか従者と結婚するなんておっしゃりませんよね?」
「エイリス様、私からの求婚を断るなんてこと、ありませんよね?」
「えっと……えっと……――」
その時、上空から風を切る音がした。
そして目の前の芝生の上に振ってきたのは――キリヤ。
彼は着地すると、一直線にエイリスへ近寄ってコーディの手を振り払った。
「エイリスさんと結婚するのは僕です。コーディさんは引っ込んでて下さい。僕達は街の外れに小さな家を建てて、辺り一面を花畑にして幸せに暮らすんです。子供の数は最低でも……――」
『離れろ、小僧』
エイリスの影――それが蠢き、キリヤを押し返した。
その影はエイリスの体の下へと滑り込むと、やがて麗しき魔王となる。
今や椅子には魔王が座り、その膝の上にエイリスが乗っている状態となっていた。
コーディも、トワイルも、レイトも、キリヤも、苛立たし気に睨んでくる。
エイリスは魔王の膝で硬直するしかない――
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第18話
魔王は愛おし気にエイリスの髪を撫で、こう告げる。
『こいつは俺の花嫁となる女だ。今日こそ永遠の契りを結ばせてもらう――』
「ちょっと……魔王! 私はこの国の聖女なのよ!?」
『問題ないだろう? 俺はいつなんどきだってお前の元へ駆けつける。好きなだけスライア国の聖女を続けるがいい。俺は愛した女には寛容だから、どんな望みだって叶えてやろう。エイリス、愛している』
「そ、そんな……――」
エイリスは押され気味になっていた。
まさか魔王がそんな考えだったとは思っていなかった。
無理矢理城に連れていかれ、監禁される――そう思っていたのだ。
魔王の意外な一面に、エイリスの心が揺れていた。
ふと表情が緩み、頬に朱が差す。
そんなエイリスの表情変化をキリヤとトワイルは見逃さなかった――
「それなら僕だって、エイリスさんの望みなら何だって叶えます! だから僕のお嫁さんになって下さい!」
「このトワイル、騎士団長の肩書を捨ててでも、エイリス様に尽くします! どうか我が妻となって下さい!」
「ちょっと……!? 先に求婚していたのはわたくしですよ……!?」
麗らかな昼下がりの中庭――場は混乱していた。
上空から降ってきたキリヤ、禍々しい魔力を発する魔王、それに気付いた衛兵や侍女達が集まってきて、怯えつつも興味津々で成り行きを見詰めている。
そんな中、冷笑を浮かべたレイトが威厳を持って発言した。
「……これはもうエイリス様に決めてもらうしかないんじゃないですか?」
ピリッと空気が緊張するのが分かった。
そうだ、エイリスの意見を聞いていない――男達は納得した。
誰しもが黙り込む彼女をじっと見詰めている。
『なるほどな、エイリスの意見を聞いておこうか』
「ですね。エイリスさんは誰を選ぶんですか?」
「全てはエイリス様の判断に委ねられました」
「我が姫君、この中の誰を選ぶんです?」
「さあ、誰を伴侶に選ぶんですか?」
エイリスは人生最大のピンチを迎えていた――
全員の顔が頭の中で渦巻き、エイリスは眩暈を覚えた。
「あ、あの……あのう……私は……――」
エイリスの目から、ぽろりと一筋の涙が零れた。
それはこの状況に追い詰められたためではあったが、それだけではなかった。
自分は今、幸せなんだという実感がたった今追いついてきていた。
不和の蔓延るデルラ国にいたら、こんな状況は起きなかっただろう――きっと心無い王侯貴族や国民に振り回される不幸な日々を送っていた。
平和な日々――それがあってこその現在なのだと、エイリスの心は震える。
不意に目の前の者達に感謝が浮かんできて、彼女はさらに涙した。
『馬鹿な……何を泣いている』
「エイリスさん……ああ……泣かせてしまうなんて……――」
「エイリス様……! これで涙をお拭き下さい……!」
「我が姫君……あなた様を追い詰めてしまうなんて……!」
「失礼しました、エイリス様……! 私が悪かったのです……!」
男達はエイリスに近寄り、一生懸命に慰める。
しかし彼女は一層涙を流し、そして微笑んだ。
「ごめんなさい……私、こんな状況なのに、平和だなって思ってしまって……――」
このピンチにあって、平和を実感する愚かな自分にエイリスは笑ってしまう。
泣き笑うエイリスを見た男達は顔を見合わせ、そして口元を綻ばせた。
それを見ていた衛兵や侍女達は一様にほっと胸を撫で下ろした。
どうやら聖女を巡った争いは回避できたようである――
真の聖女が住むスライア国に、平和はまだまだ続きそうだった。
――END――




