ある日の夢
夢の話です。
その日は、何故か夢を見た。
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ーーチャコがいない。
そう気付いたのはいつ頃だろうか。外は明るい。アイツのお気に入りの白い輪っかのおもちゃが、ソファの上に転がっている。
家の隅から隅まで、それを持って駆け回るチャコは簡単に頭の中に描き出せる。アイツは家の中だと王様顔なのに、外へ出ると途端にしおらしくなって体長は2センチほど縮まる。内弁慶で極度にビビリで、最高に甘えん坊なアイツは、俺が家にいるときは常にそばにいて離れないはずなのに、何故。
家の中を探す時間はそれほど長くなかったと思う。そこまで賢いわけでもない犬一匹が自力で家を脱出できるとは考えられないが、俺は家を出る。
不気味なほどに白かったのを覚えている。そう言えば季節は冬で、辺り一面真っ白なんだったっけ。今何月だったかな。まぁいいか。そんなふうに考えながら住宅街を迷いのない足取りで歩く。
確信があったわけじゃない、と思う。けれども確かに俺は一定の方向を目指して歩いていた。思い返してみればそれは、愛犬を探しているような素振には全く見えなかったと思う。
俺は公園に向かっていた。うちの近所にある大きめな運動公園。正確には、そこの敷地内にある空き地に向かっていたと言える。少し風が吹いてきた。うちの住宅街は広大な田んぼ地帯に隣接していて、俺の目指す運動公園はその田んぼ地帯に出る道を右に曲がればすぐだ。
少し風が強くなった。ちょっと歩きづらいくらい。それは運悪く向かい風で、俺が歩くスピードを落とさざるを得なくなる。
「チャコ」
今頃何をしてるだろうか。チャコは寒いのが苦手な犬なので、今はひとりぼっちで凍えているだろうか。
チャコの現状を考え出すと、自然と焦りの感情が湧き出てくる。
それはとっくのとうに心を満たしていなければならない感情であるということは、俺は気づきもしなかったのだ。
今は田んぼに出る道を歩いている。風は何故かずっと向かって吹いてきていて、だんだんと強まっている。田んぼ地帯に近づくにつれ風が強まっているようにも感じる。そして風が強まっていくほどに、ついさっき感じ始めた焦りも大きくなるようだった。
ーーおかしい。そう思ったのは田んぼに出る少し前の、住宅街の端のあたりにいた頃だった。
俺は気付けば、白い雪が車に固められてできた、ボコボコ、ツルツルとした冷たい地面に両の手をつき、四つん這いの形で進んでいた。進むためにはそうせざるを得ないほどに風は勢いを増していたのだった。
「ーーチャコ」
俺は心の底から愛する家族の無事を願っていた。ここまでの強風にチャコを晒したことは今まで一度もない。しかも一人ぼっちで。
今すぐに会いたい。見つけ出したい。あの小型犬にしては大きめな体を抱きしめてやりたい。焦りは最高潮に達していた。四つん這いの姿勢で風に抗い進んでいたこともあり、呼吸は浅くなっていた。
やっとの思いで住宅街を抜け、田んぼ地帯へと達した。風は依然暴風よりも強いほどで、俺もまた四つん這いのままだった。少しでも早く運動公園に辿り着かなければならない。俺は右に曲がろうとして、止まった。
なんでこんな風が田んぼの方から。そう思った俺は田んぼ地帯を見渡そうと頭を上げた。
こちらとは田んぼを挟んだ遠い向こう側の一本道。そこに、怪物がいるのが見えてしまった。
ゴツゴツとした青黒い岩に全身を覆われたような、人型のその怪物は手と顔部分が異様に長く、その長い顔には目、鼻はなかった。ただ一つ、まるで幼い子供が描いたかのような、ある無邪気さを感じるほどにまんまるで大きい口がついているだけだった。歯はついているのかいないのかわからなかった。そしてこの怪物は、遠くからでも、今述べたような見た目はわかるほどに大きかった。およそ人五人分ほどの大きさであるだろう。
少しの間、俺はその怪物ーー特に、殊更不気味だと感じたその丸い口ーーから目を離すことができなかった。一瞬、恐怖によって全身が支配されたのだった。その時はチャコを捜し求める焦燥感も忘れていたが、すぐに俺はそれをより大きくして取り戻し、底知れぬ、得体の知れないものに対する恐怖も加えて走り出した。風はもう止んでいたような気がする。
いや、走り出そうとした。走り出そうとして、足を止めてしまったのだ。
住宅街を抜け田んぼ地帯に出て、右に曲がればすぐ運動公園だ。
右を向いた俺の目の前にある公園の中に、その怪物がいた。一体ではない、少なくとも十体はいるのが見えてしまった。
チャコは無事でいるのだろうか。焦りと恐怖が、絶望に近づいた気がした。それでも歩みを止める選択肢は俺の頭にはなかったらしい。俺は凍えるほどの寒さに震える手と足にいうことを聞かせるのに苦労しながら、公園の中へ歩いて入った。
俺はチャコをみつけ、それからどうすればいいのかを考えていた。怪物はまだまだいるかも知れない。家に帰ったとて安心できるのか、もしかしたら地球はもうこの怪物に侵されてしまっているのではないか。俺は不安と焦りと恐怖に支配され、泣きそうになっていた。もうこの時には泣いていたのかも知れない。
そして、しばらく公園内を怪物から隠れながらチャコを捜しまわる。というまでもなく、俺は見つかったのだった。呆気なく。チャコを見つけてもいないのに。
見つかったからと言って何をされるのかはわからない。ただ、あの不気味で恐ろしい大きな口で何かされるということがわかっているだけで、俺の全身の行動を不能にするのは十分なほどの恐怖を得たのだった。
長くて硬いその腕にがっしりと捕まえられた俺は、その怪物の口の前まで持ち上げられ、喰われーーなかった。そこで俺は口の中を見せられたのだと思う。
そこには "目" があった。
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目を覚ました時、俺は笑ってしまった。
なんなんだ、チャコって。うちはペットなんか飼ってない。
結局は全て非現実で、虚構で、取るに足らない所謂悪い夢だったのだ。
簡単にそう結論をつけられたなら良かったのだ。
ただ、 "目" 。今もどこからかそれも見つめられている気がするような、深く黒い深海のような瞳だった。それがこの夢を忘れさせない。
しかし俺は、それを知っていた気もするのだ。
この作品はフィクションです。