逃走【本編&SS既読の方はこちらから】
ここからは基本的にミーシャ視点です。
水晶玉で見ることができる世界は、音を伴う時もあれば、伴わないこともある。
音が聞こえにくいのは、見ている相手が何か隠そうとしている時だ。そういう時、自然と声のトーンは低くなり、声自体が小さくなる。そうなると水晶玉でその姿が見えても、声は本当に聞き取りにくい。
こうなると読唇を試みるが、これはそもそも完璧ではない。前後の会話から推測することになるし、聞き取りづらい声から予想を立て、検証するのがせいぜい。それに何か隠そうとすると、自然と唇の動きも少なくなる。声を潜めようとすることで、唇の動きも抑えられるからかもしれない。
ということで今回は……。
「殿下、いかがなさいますか? 手配書を国中にばらまき、国境を押さえますか?」
「ハーツ、そんなことをしても無駄だろう。 は いが、ここは 引く。……王宮へ戻るぞ」
「御意」
王太子の懐刀でもあるハーツ近衛騎士隊長とのこの会話。王太子の声は聞き取りにくい。でも「王宮へ戻るぞ」と言っているので、ひとまず帰ってくれたかしらね?
ハロルド・ミカエル・ダグラス。
王族の中で唯一、タロットカード占いで、ザ・ワールドの正位置が出たハロルド王太子。
彼は間違いなく将来、賢王となり、自らの国に最高の繁栄と幸福をもたらす。
ただ、それがこの国のゴールになってはいけない。
重要なのはその先。
ハロルド王太子が築いた完璧な世界は、そこで終わってはいけない。
そのために重要なのは、後継者、つまりは跡継ぎだ。
彼の伴侶になる女性は、彼と同じぐらい聡明でありつつも、彼を支え、彼に安らぎを与えられなければならない。何よりも強運が必要。もし彼女が、ハロルド王太子の道半ばでこの世界から退場するようなことがあれば、彼の未来も変わる。ザ・ワールドのまさに逆位置を引き当てたも同じになってしまう。つまりは賢王とならず、ともすると凶王になりかねない。
そう考えた時。
ただの占い師の私は、ハロルド王太子のそばにいるような女ではない。
何より不思議なのは、彼は私とまともに対面で会ったことがなかった。
そもそも王室からの依頼は、王族が秘密裡に動かす秘密諜報部の騎士経由で受ける。そして本人に会って何かすることは少ない。ハロルド王太子に会ったのも、先日、黒百合を使った呪いをかけられた時が初めてだった。
呪いをかけられたハロルド王太子は、ベッドで眠りについていた。
ダークブラウンの髪に、意志の強さを反したような眉。
睫毛は長く、瞼は閉じられ、唇はほんのわずかに開いている。その高い鼻と唇から漏れる息で、呼吸を確認し、生きていることが分かるような状態だ。
つまり、私のことなど見ていない。
ただ、呪いによる無意識状態でも、言葉は伝わる。
よって励ましの言葉をかけたが、それは私からの一方通行。さらに彼が呪いをかけられたことを言い当てたものの、解いたのは私ではない。マギアノス。最果てに住む精霊使いのポーションだ。
それなのに国王陛下夫妻と自身のサイン済みの婚約契約書と婚約指輪を携え、私を訪ねるなんて。ハロルド王太子は若いとはいえ、かなり破天荒だ。
ほぼ見ず知らずのしがない占い師の女に、この国の未来がプロポーズしようとした。それはありえないことだ。呪いから醒めたものの、まだ何か影響が残っていたのかと、首を傾げることになる。
「う……ん、あれ。ミーシャ、もう起きているの?」
「あ、ごめん、サチ。起こしてしまったかしら? まだ起きるには早いわ。昨晩は遅かったのだし、休みましょう」
慌てて水晶玉を毛布の中へと隠す。
「そうね。……おやすみ」
白の寝間着姿のサチは、私より二つ下の二十二歳。ハロルド王太子と同い年ね。
赤毛でヘーゼル色の瞳、そばかすが可愛い踊り子だ。
そう。
今、私は旅の踊り子の一員に加えてもらっていた。