希望
王族として、一人の男として。そこは彼女を手中にきちんと収めないと。
凛として優美なアニスの香りのミーシャは、異国の王族の血を引く可能性もあるという。
シルクのような黒髪に黒真珠のような瞳を持ち、顔にはベールをつけ、とてもエキゾチックなのだとか。しかも年齢も、わたしとたいして変わらないというのだ。ならば問題ないだろう。
父君と母君の署名、そしてわたしのサインが済んでいる書類と王室の宝物庫から取り出したピンクダイヤモンドの指輪を内ポケットへしまう。
「殿下、馬の準備は整いました。参りますか?」
「ああ、行くとしよう」
執務室を出て、エントランスホールへと向かう。
その後はもう、ハーツに眠る隙を与えず、ミーシャが暮らす街の一角へ馬を走らせる。
先に待機させていた近衛騎士達が、わたしを迎えた。
すぐに馬から降り、近くの騎士に声をかける。
「建物に人の出入りはあったか?」
「昨晩よりずっと見張っていますが、動きはありません」
「そうか」
父君。
手に入れると決めたなら、こうまでするべきだとわたしは思います。
「うん……」
柄にもなく、胸の高鳴りを覚えた。
「殿下、いかがされましたか?」
「いや、何でもない。……お前たちはここで待機しろ。わたしが合図するまで、この建物には踏み入るな」
全員が「御意」と頭を下げる。
コツ、コツと石畳にわたしの靴音だけが響く。
もうすぐ夜明け、街の広場に人の姿はない。
この時間であれば、絶対に部屋で寝ているだろう。
就寝中に訪ねる、それどころか王族が先触れもなしに訪ねる。
それは異例過ぎることだろうが……。
これも絶対に彼女と会うためだ。
まずは会ってもらい、そしてあれを試し、成果がでれば……。
建物の前、入口の扉の前に立ち、一度深呼吸を行う。
なるべく抑えた声で名乗り、扉をノックする。
反応がない。
時間が時間だ。
熟睡している――可能性は高い。
しばらく待ち、再度、ノックと声掛けを行い――。
もしやと思い、ハーツに合図を送る。
近づいた彼に尋ねる。
「昨晩からこの建物に、明かりはついていたか?」
すぐに確認した結果。
もしや……という思いが沸き上がる。
とにかく扉を開け、中に――。
扉に鍵は、かけられていない。
あっさり中に入ることができた。
驚くほど簡素な部屋。
リビングとダイニングと厨房が一つになったような部屋だ。
調度品はすべて古びて簡素なものばかり。
ゆっくり部屋に足を踏み入れると、テーブルの上に、カードが一枚置かれている。
「これは……タロットカードですな。ザ・フールということは……」
ハーツの言葉に、「やられた!」と思う。
ザ・フール=愚者だ。
だが、ミーシャはわたしを馬鹿にしているわけではない。
ザ・フールの正位置が示すのは“旅立ち”だ。
しかも……。
「私の水晶は、未来が見えますので」とそのカードには書かれていた。
逃げられた。
わたしがここにこうやって来ると、ミーシャには読まれていたのだ。
きっとかなり前にそれを予知し、準備を進めていたに違いない。
つまりわたしにポーションを飲ませ、そしてその後、すぐに旅立ったのだろう。
なるほど。
父君が手をこまねくはずだ。
だが。
諦めるつもりはない。
「殿下、いかがなさいますか? 手配書を国中にばらまき、国境を押さえますか?」
「ハーツ、そんなことをしても無駄だろう。諦めるつもりはないが、ここは一旦引く。……王宮へ戻るぞ」
「御意」
ザ・フールのカードを内ポケットにしまおうと持ち上げた時。
アニスの香りが甘く漂う。
――「王太子殿下。希望を捨てないでください」
ミーシャの言葉が甦る。
そうだ。
希望は捨てない。
占い師ミーシャの残した香りを胸に、朝陽が射し込み始めた広場へと戻った。