悪夢
――「呪いをかけた相手の手掛かりはあります。王太子殿下の部屋に直前に届けられた花は黒百合。花言葉をご存知ですか? “呪い”です。贈り主を見つけ出し、呪いを解く道を模索されることをおすすめします」
わたしの周囲には、他にも人がいるように感じる。
でも聞こえてくるのは、この女の声だけだ。
その女と、おそらくは父君と母君か。
会話をしている。
しかし断片的で、よく聞き取れない。
そこでさっき聞いた情報を整理する。
毒、と思ったが、違うのか。
呪い。
王太子のわたしに呪いをかけるとは。
女と両親の会話が終わると、再び、彼女の囁くような声が聞こえた。
――「王太子殿下。希望を捨てないでください。私の水晶が映した未来に、王太子殿下の姿はありましたから。呪いが解けるまで、悪夢を見るかもしれません。でも負けてはいけません。王太子殿下はお強いはずです。心を強くお持ちください」
この女は……わたしに自分の声が届いていると分かっているのか?
何者なのだ?
瞬時に呪いがかけられていると言い当て、自分では解けないと潔く認め、黒百合の贈り主を突き止めることをすすめた。
自分で解けるかもしれない、試させて欲しいといい、父君から大金をせしめることもできたはずだ。だがそうはせず、的確なアドバイスをし、わたしを励ましてくれた。
一体、この女は誰だ?
――「これを置いておきます。この香りにより、悪夢は、少しは収まるかと」
女の手がわたしに触れたと思う。
遠くで知覚する彼女の手は、シルクのような肌触り。
ほんのり温かく、柔らかい。
その手が離れたかと思うと、わたしの手には……鳥の羽? 何か網のようなものも感じる。
次の瞬間。
すべての音が遮断される。
女が自分のそばを離れたと感じた。
彼女がそばにいる、いないかで、感知する気温、闇の深さが突然変わる。
言い知れない恐怖が、足元からせりあがってくるように感じた。
わたしを王太子の座から引きずり降ろそうとする、どす黒い感情に包まれる。泥水のように沸き上がる漆黒の闇に、全身が飲み込まれそうになった。
――「悪夢を見るかもしれません。でも負けてはいけません。王太子殿下はお強いはずです。心を強くお持ちください」
女の声を思い出し、手にあの羽を感じた瞬間。
そうだ。
わたしは王太子だ。
この立場となるまでに、どれだけ努力を重ねたか。
呪いごときに負けるわけにはいかない――。
こうして。
わたしと悪夢との戦いが続いた。
その悪夢は時に恐ろしい牙をむき、わたしの体を喰らい尽くそうとする。またある時は醜悪な女の姿となり、わたしの体を奪おうとした。
その度に、あの女の声と言葉を思い出し、手にわずかに感じる羽で、このおぞましい悪夢を退けることになる。
ただ、もう、限界が近いと自覚する。
心を折るなと言われても、二十四時間毎日連続で精神的苦痛を与えられえている状態。
いくらなんでも耐えかねる。
全身が圧迫され、このまま潰されてしまう――。
そんなところまで追い込まれたその時。
――「王太子殿下。これで助かります」
アニスのような甘い香りとあの女の声を聞いた時。
潰えそうな心に、希望の光が灯る。
何かが口の中を通過し、全身に強い力が流れ込む。
そこからは……悪夢を見ることはない。
わたしに呪いをかけるよう指示した犯人の姿を見た。
わたしだけではなく、自身の婚約者にまで手をかけようとするとは……。
自分の弟とは思えなかった。
とんでもないモンスターだ。
長い夢を見終えたわたしは、ついに目覚めた。