プロローグ
ハロルド王太子視点が4話分続きます。
アニスを思わせる独特の甘い香りを感じた。
――「二十人の医師に診せ、病が判明しない。それはそうでしょう。なぜならハロルド王太子殿下が目覚めないのは、病気でも怪我でもなく、呪いが原因だからです」
遠くで女の声が聞こえる。
少し低めの掠れた声は、ほのかな色香を感じさせた。
――「申し訳ありません。どれだけ大金を積まれても、私ではどうにもなりません。呪いを解くのは、かけた本人に解除させるのが一番です。何が解除になるのか、その方法は幾千万とあり、どれが正解から探るうちに、寿命が尽きるでしょう」
なるほど。どうやらわたしは……誰かに呪いをかけられたようだ。
それは……あの花か。
執務室に届けられた花束。
本来、この国の習わしでは、花は男性から女性へ贈る。特に求愛を込め、花が贈られることが多かった。だが王太子であるわたしに花を贈る令嬢は多い。それは私が王太子であり、婚約者をまだ定めていないからだろう。
つまり、わたしの寵愛を得ようと、花を贈って来るわけだ。
婚約者がいなかったわけではない。婚約者はいた。遠方の国の王女であり、いわゆる政略結婚で選ばれた婚約者だった。会ったことはない。姿絵しか見たことがなかった。私より六歳年下で、婚約時は四歳。十歳になったら王都へ来ることになっていた。王太子妃教育のために。
だが、その王女は不慮の死を遂げている。死因は明かされていない。ただ、その国は側妃を認めていた。正妃と側妃の間で、不穏な争いが後を絶たなかったという。害されたのは、第三側妃の娘だった。犯人は正妃か、残りの五人の側妃か。
ともかくそこで相手死亡による婚約解消以降、わたしに婚約者はいない状態だった。婚約話は浮上したが、過去の一件があり、あまり婚約者を作る気持ちにはなれないでいた。だが周囲はそんなわたしを放っておくことはなく、連日、令嬢から手紙と花が届く――というわけだ。
そして受け取ったのは、見たこともない黒百合の花束。
ありきたりの赤い薔薇の花束では効果がないと思ったのか。
でも確かにインパクトはある。
いつもは適当に廊下やダイニングに生けさせる花を、この手にとったのだから。
だが。
その黒い百合は、ヒドイ臭いを放ち、棘があった。
わずかな、チクッとした指先で感じる痛み。
人差し指を見ると、針先程の赤い血が見える。
「今すぐ、これを処分しろ」
花を届けた従者に命じ、着ていた上衣の胸ポケットからハンカチを取り出した時。
ドクン。
心臓がやけに大きく鼓動した。
窓に映る自分を見る。
パール色のシャツに、黒のセットアップ。
タイはチャコールグレー。
ダークブラウンの髪に、意志の強さを反したような眉。
グレーに近い青い瞳に浮かぶのは、驚きと納得。
とがった顎に高い鼻。
口元はニヒルに歪んでいる。
毒――か。
やられたな。あの黒百合だろう。
執事長の名を呼ぼうとしたが、既に全身が動かない。
執務机の手前で、受け身の体勢すらとれずに崩れ落ちる。
そこが深緑色の毛足の長い絨毯で良かった。
打ち身による怪我などはない。
だが、王太子である自分がこんな風に無様に顔を絨毯につけ、うつ伏せで倒れるなんて。
屈辱以外の何物でもない。