希望と、絶望と。
腹を満たして再び眠りに落ちた少女を見下ろしながら、彼は自らの懐を探り、それを取り出した。
大粒のエメラルドが嵌った指輪。
――もう、随分と長いことこれの持ち主を探して各地を放浪してきた。
最早、そんな存在など居はしないのだと絶望していた時に出会った、一人の少女。
彼女の笑顔が、あどけないライラの寝顔にだぶって見える。
ようやく見つけた、指輪の主のはずが。
……あの日の記憶を思い出すたび、自らの不甲斐なさに歯がゆくなる。
あの光景を目にした時の、足元が崩壊していくような深い絶望感といったら……。
永い旅路に覚えていた絶望感などまるで大したことではなかったかのように思えたほどだった。
さかんに燃え盛る炎と、もうもうと上がる黒煙。
女や子供の阿鼻叫喚。
肉の焼ける匂いと血臭の入り混じった嫌な臭いが辺りを覆い……。
さながら、地獄絵図のようだった。
永い、永い時を放浪に費やしてきた。――その間、人間たちの戦に巻き込まれたことも一度や二度では到底きかない。
もっと凄惨な状況を目にしたことだって幾度もあった。
――のに。あの時、初めて臓腑の凍りつくような思いを味わった。
長い長い絶望の中、ようやく見つけたと思った光を無理矢理むしり取られるかもしれない恐怖と痛みと、絶望と。
彼は、思わず立ち尽くしていた。
ずっと、ずっと。ただ呆然と、言葉もなく目の前の状況を、ただ眺めるだけで……。
彼は、手の中の指輪を、ギュッと強く握り締める。
「――待ってろ、必ず助けてやる」
小さくつぶやき、そして鋭い視線を前方へ向けた。
時刻は、既に深夜を回っている。
商隊の男たちも、殆どは酒場から寝室へと引き上げている頃合だろう。まあ、大人しく寝入るような輩はまず居ないだろうが……。
うまく女を引っ掛けられなかった哀れな男たちも、今夜は酒場で一晩飲み明かすだろう。
せっかく堂々と羽を伸ばせるというこの時に、酒も肴も女も居ない、ただラクダと荷物があるだけのこんな場所へ戻ってくる者などまず居ない。
……居るとすれば――
「――止まれ」
芯まで凍りつきそうな、鋭く冷たい声で、彼は短く命じた。
手は既に剣の柄に添えられ、いつでも引き抜ける体勢で、彼はサッと立ち上がり、大股にそちらへ歩いていく。
焚き火を背に、迷いなく突き進み、暗がりの向こうへスっと刃を差し向けた。
いくらここが大きなオアシスの町だとはいえ、こんな時間まで表にかがり火を出しておくような酒場も娼館もない。
今ある明かりといえば、大空に無数に散らばる星屑の灯りと、小さな焚き火のものだけ。
正直、すぐの足元を確認するのがやっとというような真っ暗闇の中、彼は剣先を正確に相手の喉元にぴたりと突きつけた。
「ヒイッ!」
急所のすぐそば、ほんの皮一枚の場所に突きつけられた刃先から放たれる緊迫した空気とピリピリした殺気に男は情けない悲鳴を漏らした。
「……こんな時間にわざわざ戻って来て、一体何用だ?」
「っ、わっ、私はただ……荷物の様子を見に来ただけだ!」
――聞き覚えのある声に、見覚えのある顔。……ライラの“連れ”の男だ。
「ほう? 今夜一晩、私が荷物の番をしていると言ったはずだが……。ふむ。わざわざこんな真夜中に戻ってきて自ら確かめねば気がすまぬほどに俺が信用ならなかったのか?」
「ちっ、違う! あ、あんたの腕は信頼してるさ! お、俺が心配したのはむしろ俺の荷物があんたに迷惑かけてやしねぇかって事の方で!」
男は、焚き火の傍で眠る少女に目をやり、彼女が羽織っているマントを見とめる。
「で、戻ってきたら案の定……・。申し訳ありませんねぇ、もしや逃げ出すやもしれんとも思ったんですが……まさかこんな形で旦那にご迷惑をお掛けするとは……」
男は引きつった笑みを取り繕いながら言う。
「い、今すぐ叩き起して、たっぷり仕置きをしてやりますんで!」
男は、それで彼が満足すると思っているのか、ライラの方へ目をやり、大声を出そうと大きく息を吸い込み――
「黙れ。……その必要はない」
チリっと、首筋に小さな痛みが走る。
――刃の先が、ほんのわずか皮膚に食い込み、小さな傷から僅かに血があふれた。
「あれらは全て、俺が彼女に命じた事だ」
眼光鋭く睨みつけられ、男は竦み上がった。
「俺が今夜この商隊の長から任された任務は荷物の番だ。宝石だの絹だのなら、盗まれないよう目を光らせておけば良いが、人となるとそうもいかん」
突きつけられた刃に、ぐいっとさらに圧力が加わる。男の血が、刃を赤く染めていく。
「こんな砂漠に女子供を一人、食事も与えずあんな薄着で荷馬車に放置してみろ、あっという間に弱るぞ。場合によっては命を落とすやもしれん。それでは、俺が仕事を失敗したことになるだろう。だから、命じたんだ、俺が、俺の仕事を確実に、効率的にこなせるように、な」
彼は、男に刃を突きつけたままフッと小さく笑った。
「それよりも。……お前に聞きたいことがある。お前、『赤竜の牙』という名を知っているか?」
彼の放ったその言葉に、男は息を飲んだ。
「……ふむ、少なくとも聞いたことはあるようだ。その様子であればそれが何なのかも知っていそうだな?」
彼は、見る者を片端から凍りつかせる冷笑を浮かべながら、ぐりぐりと刃で男の喉の肉を抉る。
「俺は、奴らに奪われた宝の行方を追っている。――さて。知っていることの全てを、洗いざらいここで吐いてもらおう」
「――っ!」
男はもう、声すら出せない。ストン、と腰を抜かし、地面にヘタリと座り込む。
ピッと、喉元に食い込んでいた刃が傷を広げ、血しぶきが飛んだが、一瞬、男の喉元から刃が逸れた。
男は急いで腕で喉元を庇い、這いずるようにその場を逃げ出そうともがくが、本物の殺気に当てられた身体は、思うように動いてくれない。
ザン、と音を立てて、首のすぐ脇の地面に刃が突き立てられた。
「ヒィ、し、知らない! 俺は何も知らない! な、名だけは確かに聞いたことがあるが……それだけだ!」
男は喚いた。
「ど、どうせ、砂漠に数いる盗賊団の一つだろう! お、俺は何も知らない! 俺には何の関係もない!」
男の大声に、焚き火のそばで眠る少女の体がぴくりと反応したのを、目の端にみとめた彼は、男を睨みつけたまま、ひとつ大きくため息を吐いて刃を引いた。
「だが、奴らが盗賊団だということは知っているんだな」
彼は、冷笑を貼り付けたまま、男を睨みつける。
「……あの少女。お前がどうやって手に入れたのか大いに興味がある」
「まだ、夜が開けるまで時間はうんとある。……さて、どうする? 俺とここで一晩語り明かすか?」
彼は、刃についた血を指で丁寧にぬぐい、血に汚れた指を舐めた。
男は無言のままブルブルと首を勢いよく横へ振った。
「……そうか? ふん、せいぜい、今俺がこの隊商の護衛として雇われていることに感謝するんだな。護衛の俺が、隊商の一員であるお前を襲う訳にはいかないんだ。本当なら、今すぐにでもお前を存分に締め上げて自分から喋りたくなるようにしてやりたいところなんだが」
かちりと、剣を腰に下げた鞘へと戻しながら、冷ややかな眼差しで男を見下ろす。
男は、必死に立ち上がると、闇の中へと駆け出した。
「……ふむ、逃げた――か。これはやはり何か知っているな」
彼はその背を追うことなく、くるりと踵を返し、焚き火の傍へと戻った。
「ライラ、と言ったか。……彼女からも、何か有益な情報を得られれば良いのだが」
だが、恐らく彼にとっての“有益な情報”というのは、彼女にとっては思い出したくない記憶だろう。
さすがにいきなり問い詰めるような真似は躊躇われた。
欲しい物を得るには、もう少し、彼女のことを良く知らなければならないだろう。
彼は、彼女の髪を優しく撫でて梳きながら、小声で歌を歌う。
かつて仕えた主から教わった、神を讃える歌を。
(――神よ。どうか、彼女らを良く見守り、ご加護をお与えください。彼女らの行く道に、救いをお与えください)
そう、祈りを込めて――。