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狼の忠告

 オアシスの水は、表面こそ生温かったが、深いところはとても冷たく、火照った体を心地よく冷ましてくれる。

 だが、あまり時間をかけるわけにはいかない。

 ライラは、ちらりと一瞬後ろを振り返り、彼がまだ向こうを向いてくれているのを確認して、着ていたワンピースを脱ぎ、水に浸すとそれを手ぬぐいがわりにさっと体を拭い、汗や垢、砂埃を落とした後で今度は布地同士をこすり合わせてもみ洗いをし、ギュッと力いっぱい絞って、再びそれを身に着けた。

 水で湿った布地は僅かに透けていたが、ライラは気にせず水から上がり、彼に礼を言って頭を下げた。

 「あの、ありがとうございました」


 律儀に、ずっとそっぽを向いたまま待っていてくれた彼が振り返る。

 ――と、ライラの姿を目にした途端、突然不機嫌そうな顔になった。

 何か、うっかり彼を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。急に不安になり、あたふたと慌て始めるライラに、彼は無言のまま羽織っていたマントを乱暴に頭から被せ、その上からライラの頭を掴むとぐりぐりアイアンクローを繰り出した。


 「ふっ、ふえっ……」

 マントの下からライラのくぐもった情けない声が漏れる。

 「――羽織ってろ」

 彼は不機嫌そうな声で端的に命令を下すと、彼女から手を離し、踵を返してスタスタ歩き出す。

 ライラは慌ててその背を追いかけた。

 「えっ、あの、これ……」

 「お前、そんなにこの街の娼館で働きたいのか、それとも俺に襲われたいのか、どっちだ?」

 彼はライラを睨みつけながら尋ねた。

 「えっ、それは……あの、どっちも嫌です……」

 「ならば、もう少し自覚を持て。お前が今居るのは荒くれた男共の集団の中だ。そんな場所でそんな格好で居れば、襲ってくれと言っているも同然だろう」

 不機嫌そうな表情と声音と裏腹に、彼はこんこんと説教を続けながら歩く。

 「お前のような非力な者が身を守りたいと思うなら、よくよく考えてから行動しろ。――いざという事態に陥ってから後悔するのでは遅いんだ」

 スタスタと一見ライラなど顧みず歩いているようだが、長身の彼とライラのコンパスの差を考えてみると、ライラが走らずとも十分ついてこられる程度の速さで歩いてくれているのだと気づく。

 ライラは思わず表情を緩めた。――が、直後、彼のこめかみがヒクリと痙攣するのが見え、慌てて表情を取り繕った。


 しかし、時すでに遅く。頭の上に鉄拳が降ってきた。

 ゴツンと一発。痛みを覚悟して目を閉じたラウラは、「あれ?」と首を傾げながらそろそろ目を開けた。

 殴られた感触はあった。実際結構いい音がした、はずなのに。

 ライラに与えられたのは、戦いを生業とする大人の男の拳によるものとは思えない、ささやかな痛み。

 人の話を真面目に聞けないガキに教育的指導をしてやっただけ。

 黙したままこちらを睨めつける彼の目は、明らかにそう言っていたから、ラウラは素直に謝った。

 「……ごめんなさい」

 それを聞いた彼は盛大にため息をついた。

 「他は男ばかりの中で女子供が一人、何もせず無事に済むと思うな。――ましてや砂漠を行く過酷な旅路だ。何もなく済む可能性は無に等しいだろう」

 彼は再び歩き出す。


 「この先も無事で居たいと思うのなら、俺に謝るより前にまず自らの行いを見直せ。五体満足に生きのびたいと思うのなら、ひたすら自分の身を守ることだけを考えろ」

 冷たく、突き放すように彼は言う。

 「例えこの旅の末に待っているのも結局は地獄なのだとしても、ひたすら生き延び自らの心身を守ることだけを考えろ。覚えておくといい。――天上の神が地上の事に直接手出しすることは決してないが、それでも神はこの世の全てをご覧になっておられる。この先の未来にどんな苦難が待ち受けていたとしても、いずれ、必ず救いは訪れる」

 まるで、聖職者のような――けれど彼らの語るそれより遥かに確信に満ちた言葉が、ライラの心に響いた。

 

 隊商のキャンプが見えてきたところで、彼は再び口を開いた。

 「お前、街を出てから今まで、ろくに寝ていないだろう」

 彼の指摘に、ライラは驚きながらも頷いた。

 それは、そうだ。何しろ寝床は荷馬車の上、寝心地など良い訳もなく、そのうえ砂漠の夜は酷く冷えるのだ。しかも、傍には大抵恐ろしい“連れ”が居る。

 ――そんな中で熟睡できる方がおかしいだろう。

 「俺は、隊商の護衛で、お前の護衛ではない――が、今俺は荷の番を任された身だ。だから、今のうちに少しでも眠って体力を回復しておけ」

 だがそれを、彼がしっかり見て知っていたとは……思わなかった。しかも、それを気にして、気遣ってくれるなどとは思っていなかった。

 

 つまり彼は、ライラが眠っている間の番を引き受けてくれると、そう言ってくれているのだ。

 

 ライラは嬉しくなった。――やっぱり彼は優しい人。ぶっきらぼうではあるけれど、本当の優しさを知っている人だ。

 そう思うと、また表情が緩みそうになる。

 ライラはそれを必死に堪えながら、彼の提案に頷いた。……過酷な旅路に、身体は既に疲れきっている。断る理由などどこにもなかった。


 ライラは荷馬車に潜り込み、借り物のマントをかぶって横になった。

 心地よい風と、程良い静けさと。――眠気はすぐにやって来た。

 横になって幾分も経たぬうちに、ライラの意識は途切れ、すやすやと寝息を立て始めた。


 

 「――起きろ」

 久しぶりの熟睡を満喫していたライラを、揺すぶり、起こす声がして。

 ライラは、あの男が戻ってきたのかとハッと身を固くし、飛び起きた。

 寝起きの、ぼぉっとした頭で周囲を眺め回せば、空は星でいっぱいになっている。――随分と長いこと眠っていたらしい。

 だが、ライラを起こしたのは、ライラの“連れ”ではなかった。


 「飯だ、来い」

 無駄な言葉の一切を省き、要件だけを端的に告げ、そう命じたのは“暁の狼”の彼だった。

 だが、飯と言われてもライラは食料の持ち合わせなど当たり前だが一切ない。“連れ”の男は自分だけ食事に出かけ、ライラの分などパンのひとかけらも置いて行かなかったのだから。

 だが、彼の無言の圧力を受けたライラは焚き火の傍へ来るよう促された。

 彼は、火にかざして少し炙った干し肉をパンに挟み、ライラに差し出した。


 これは、彼の食事ではないのか。

 「いいから、食え。それともこんなものは食えないか? ――お前、昼間の俺の忠告を、もう忘れたのか」 

 ライラは慌てて首を横に振り、ありがたくいただくことにする。

 「……いただきます」

 そう口にしたあとで、心の中で神への祈りを捧げる。

 これまた久しぶりの食事だ。たとえ粗末なものでも、育ち盛りの空きっ腹を抱えたライラにはご馳走だ。

 遠慮なくパンにかぶりつくライラの隣で、彼がかすかに何かを呟く。


 ――何だろう? ライラは耳を澄ませる。

 

 「神よ、あなたの慈しみに感謝を捧げ、今宵の食事をいただきます。これを祝福し、我が心身をを支える糧としていただけますよう、ここに祈りを捧げます」


 聞こえてきたのは、祈りの言葉。

 僅かな干し肉だけの、彼のいつも通りの粗末な食事にも、丁寧に祈りを捧げ、感謝の意を示す。

 だが、彼の祈りの文言は、ライラたちのものとは少し違うように思えた。

 ライラが信じるのは、イスラムの唯一神、アラーであるが、彼が口にした祈りの言葉は、キリスト教の信者が唱えるものに似ている気がした。

 けれど、彼らの祈りの言葉にほぼ必ず含まれる文言が、ない。

 例えばイエス・キリストとか、父とか、アーメン、とか。


 ――やっぱり、何か不思議な人……

 食事を勧めながら、ライラは彼への興味が心の中にむくむく湧き上がってくるのを感じていた。

 ――どういうひとなんだろう、このひと。

 凄腕の護衛で、ぶっきらぼうだけど親切ないいひとで、とても信心深いひとなのは分かった。

 けれど、赤々と燃える焚き火に照らされる彼の姿を見ながら、ライラは強く思った。

 

 ……この人のこと、もっと知りたいな。

 

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