砂漠のオアシス
「おお、見えてきた。オアシスだ」
日が随分と高くなり、そろそろ歩を休めねばならない刻限が近づいていた頃。隊商の先頭を歩く男たちが安堵の声を挙げた。
そう数は多くないものの、彼らが出発した町から聖地へのルートの途中には幾つかオアシスが点在している。そのほとんどは、本当にささやかに水を湛えているだけのものだが、一部のオアシスはとても大きく、周囲は集落に囲まれ、多くの隊商が休息と、水分や食料の補給に立ち寄る場所柄、宿屋や酒場など、歓楽街としても栄えていた。
ここのオアシスもこの近辺では大分大きなもので、砂漠の真ん中という場所柄、上の目が届きにくく、違法性の高い店も並んでいたりする。
「やはり、凄腕の護衛を雇っただけはある。予定していた行程より随分進んでいる」
隊商の隊長を務める、恰幅の良い男が地図を片手に満足げに笑う。
「この分なら随分早く現地に着ける。よし、今日一日はここでゆっくり休息をとるとしよう。残りの行程分、飛ばして行ける位の精力を蓄えて来い!」
その言葉に、隊商の隊員らがこぞって歓声の雄叫びを挙げる。
「よしっ、さっそく呑みに行こうぜ」
「おおっ、俺、かわいい娘がいる店を知ってるんだ」
「俺は久々に旨いもん食いてえや」
がやがやと賑やかに騒ぐ男達の中で、しかしその男はライラに、周囲を気にして潜めた――しかし、辺りの熱気が凍りつくような冷たい声音で囁いた。
「分かっているな、娘。――逃げたら、承知しねぇぞ」
ライラは、ビクリと身体を強張らせながら、無言のまま幾度も頷く。その向こうでは、
「兄さんは――ああ、酒はダメなんだっけな……。ん、てことは女もダメか?」
連日、手柄を挙げる名うての護衛に、男達は機嫌よく酒場や宿へと誘うが、そのうちの一人――実際に彼を口説きに来た人物――が、気づいて言った。
「俺は、荷の番でもしていよう。気にせず、行ってくると良い」
「……そうか? ふむ、じゃあ悪いがそうさせて貰うか」
男達は、植物が適度に日光を遮ってくれる木陰を選び、ラクダを休めるべく荷を解くと、その番を彼に任せ、がやがやと街へと繰り出していった。
――もちろん、荷物であるライラは、荷車に取り残されたままだ。
しかし、街を出てからというもの、極度に暑いか寒いかばかりの旅路であったが、水辺の近くの木陰は案外涼しいもので、今が一番熱い時間帯なのだが、そうとは思えないくらい心地よい風が吹き込み、随分過ごしやすい。
男達が、彼を除いて皆出払った今、ライラの耳に届く物音といえば、ラクダの鼻息と、遠くから聞こえる街の喧騒くらいで、実に静かなものだ。
寝床が固い荷車の上である事に変わりはないが、今なら心地よく昼寝を楽しむことができそうだった。
ライラは、荷車の上でごろりと大の字に寝転がり、空を仰いだ。風にざわめく木々の葉の合間合間から刺す荷の光は目に痛いほど。片腕で目を庇いながら、ライラは目を閉じる。
――逃げたら、承知しねぇぞ。
耳に残る、男の言葉。
……分かっている。
こうして寝転がりながら、耳を澄ましてみても、やはり静かで。今なら、逃げ出せるかもしれない――と、ついそう思いそうになるけれど。
もし本当に逃げ出そうとすれば――まず間違いなく、彼に殺されるのだろう。一瞬の間に、切り捨てられ、打ち捨てられた幾多の盗賊達の様に。
そして、もし運よく彼の目を盗む事が出来たとしても――ほぼ十中八九、街中で、街へ繰り出していった隊商の男達に見つかってしまうだろう――そして、たくさん殴られた上で連れ戻されるのだ。
更に、百万が一、男達に見つからず、逃げおおせられたにしても――待っている生活は、このまま彼らに連れられて行った先で待っているはずの生活とそう大差ないものになるだろう。
……実に、無意味な行為だ。
つい、ため息を洩らしながらライラは寝返りを打つ。汗と砂とでべとつき、ざらつく身体と服を、冷たい水で洗い流したい衝動に駆られる。
「……あそこの、水辺まで行くくらいなら……いいかな?」
半身を起し、荷車から辺りを見回す。“暁の狼”の彼はと言えば、自分の馬の毛並みを梳いてやっているところであった。
ふと、視線を感じたのか、彼がこちらを振り向いた。
「あ……、あのっ」
ライラは勇気を振り絞り、彼に声をかけた。
「あのっ、あの……」
しかし、後が続かない。――彼の助言で度が楽になった恩があるものの、闘いの気配が恐ろしい彼女にとって、彼の勇姿は恐怖の対象でもあった。美しい見目の彼が、夜毎見せる不思議な雰囲気に興味はあれど、それで全てが帳消しにはならない。
しかも、本来立場的にはこんな事、頼めた義理ではないのだから、当然と言えば当然だろう。
「……何だ」
事実彼は、面倒くさそうな声音で返してきた。
「……あの、駄目なら、それでいいんですけど。あの、ちょっと、水辺まで行って来ても良いですか? あの、すぐに戻ってきます。ちょっと水浴びだけしたら、本当に、すぐ戻ってきますから」
顔の半分を、荷車の淵で隠したまま、ライラが必死に訴えるのを、男はため息をつきながら、
「あのな、女子供がこんなとこ一人でフラフラうろついてみろ、あっという間に街の売春宿にでも売られちまうぞ?」
と、世間知らずの子供を諭すように言う。
「……俺も、コイツに飲ませる水を汲みに行く用がある。ついて来るか?」
「え、いいの?」
「別に、俺はどっちでも構わない」
「行くっ、行きます!」
実に素っ気ないないながら、やっぱり優しい良い人だ、とライラは一人小さく微笑み、急いで荷車を飛び降り、随分大きく重そうな桶を片手で軽々担ぎあげた彼の後を小走りについて行く。
目の前に広がる水際までの距離はあっという間だ。彼は桶を手にざぶざぶ足首まで水につかり、持っていた桶を豪快に水に沈めた。……あえて、こちらに背を向けながら。
「ほら、とっとと用事を済ませろ」
「あ……、はいっ」
そんな少しの気遣いが嬉しくて、つい緩む表情を慌てて引き締め、ライラはザブンと景気良く水へ飛び込んだ。