衝撃
「……お前、何者だ?」
彼に向かって誰何したのは、聖職者だった。
「……旦那様?」
次いで呼びかけるのは、当然その顔をよく見知った屋敷の使用人だ。しかし彼もまた、見覚えのない人物を見るような目で男を見ている。
「貴様、悪魔だな? 神にまつろわぬ、正真正銘の――」
ライラを庇うように前に立ったアルフレートは、ライラがこれまでに見た事もないほど険しい表情で男を睨みつけた。
「一体、いつから……」
「そうだな、つい先だって、この店が困窮していた時分、この店の繁盛と引き換えに己の魂を差し出した男が居た。私は契約に従い、店をこのとおりの大店に育て上げ、その代償として男の魂を喰らい、この身体を我が物とした」
その言葉に怪訝な顔をしたのは聖職者と使用人の男。
「は……、店が困窮……? そりゃいつの話で?」
「確かに、私が子供だった頃にはここは小さな商店だったが、親元を離れる頃には既に大店だった。そう、少なくとも十年以上前の話だ」
「俺がこの屋敷に雇われたのは八年ほど前ですが」
「そうだな、私がこれに喚び出されたのが二十年前、契約を成就させたのはそれから五年後。それからこっち、実に面白おかしく暮らしていたというのに」
男は至極残念そうに肩を竦めた。
「神に愛されし乙女というやつを穢し、貶め、神の怒りに触れさせ、堕とす。ここではそれが面白いほど容易に成せる。天の楽園より、私にとってはこの地上の楽園の方が居心地が良い。……しかし」
ぎろりと、ライラを睨み、彼は不気味に微笑んだ。
「そんなものがあっては、おちおち享楽にも浸れぬ。風の噂で、お前が次代の王候補を定めたらしいと聞いた時はそれは焦ったさ。……しかし、あの時あんなにも動揺したのが馬鹿らしくなる程、事は簡単だった」
「……まさか」
男が、笑みを深くする。
「とある村に住む娘が欲しい、という噂を振りまいたら、あの男は喜び勇んであの娘を我が元へ連れてきてくれたぞ?」
「……ッ!」
あの村が襲われ、ワルダが、赤竜の牙に連れ去られたのは、この男の差金――?
「娘を手に入れ、念入りに堕とし……。これで一安心だと思っていたんだがね、どうやら甘かったらしい。まさかもう、代わりを見つけているとは」
アルフレートの背後に隠されたライラを面白そうに眺めまわし、笑う。
「だが、今ここで娘ごとそいつを喰らってしまえば、もう、恐れるものはない。――娘よ、さあ我が贄となるがいい」
そう言って笑みの形を取り繕っていた口元から、人のものとは思えない牙が、上顎と下顎に二本ずつ、計四本、あらわになる。口の端が裂け、目元まで嫌な三日月笑いを浮かべるその瞳は、濁った赤色に染まる。
――アルフレートが吸血鬼としての力を振るう時にも、彼の瞳が赤く染まるが、そんな綺麗な赤ではない、力の差からくる畏れではなく、おぞましさからくる恐怖に、ライラは思わずアルフレートの袖口を掴んだ。
「……ッ、クソっ!」
聖職者が、らしくない悪態をつき、空っぽの鞘を床に叩きつけた。
彼の剣は、ついさっきアルフレートによって叩き折られたばかりだ。
そして、そのアルフレートの腰にも、彼の得物である半月刀はない。牢に入れられる前に取り上げられたのだろう。
彼は、それを目を眇めて見下ろしながら小さく舌打ちをし、既にぼろぼろになった自分の手のひらに、己の牙を沈めた。
容赦なく牙で肉を抉った傷口から、たちまちのうちに血が噴き出す。
アルフレートは痛そうな表情をする事もなく、滴る、というよりももはやだらだらと垂れ流される血を無感動に眺め下ろした。
――すると、彼の手から落ちた血の雫が、床に届く前に、ふわりとその軌道を変えたかと思えば、色を赤から黒に変え、にょきりと翼を生やした。……いや、あれは正確には翼ではなく皮膜――、コウモリ、だ。
それも、一匹や二匹ではない。まるで黒い霧がわいたように、無数のコウモリが渦を巻いて狭い牢室を飛び回った――かと思えば、皮膜で鋭く滑空し、男に向かって鋭く突っ込んで行く。
鳥の群れのように統率の取れた彼らの皮膜の翼はまるで無数の刃、かまいたちのように悪魔に襲いかかった。
だが、悪魔は悠然と構えたまま、ライラには理解のできない言葉をいくつか口にした。
「イル・」
たったそれだけで、かなりのスピードで男に迫っていた無数のコウモリ全てがピタリと凍りついたように動かなくなったかと思えば、逆にこちらへ向かってくるではないか!
「ぐわあぁぁ!」
たちまち、野太い叫びが狭い部屋の中に響いた。
それより一瞬、ライラは背後の壁に半ば押し付けられるように張り付けられ、ぴたりと密着したアルフレートの身体がライラの身体を覆った。
男たちの絶叫がこだまする中、ごく小さな呻きが、ライラの鼓膜を直接揺さぶった。
のしりと、重みがライラの身体にのしかかる。
アルフレートの身体の重みが、ライラの全身に寄りかかったのを感じたかと思えば、彼はそのままずるずると崩折れた。
濃く、血の匂いが鼻をつく。常から白い彼の顔色から完全に血の気が失せ、白というより青い顔をして肩で息をする彼の背中が、衣服ごと鋭く無数に切り裂かれ、一面べったりと濡れそぼっている。
見れば、聖職者も使用人の男も頬や腕などを裂かれ、血を滲ませていたが、アルフレートのそれとは比べるべくもない軽症だ。
そしてライラは、といえばアルフレートに庇われて完全に無傷だ。
――もちろん、アルフレートの攻撃を打ち返した悪魔も。
「ふむ、あのソロモン王の側近とやり合うのは私でも少々骨の折れる仕事だと思っていたが……どうやら神の下僕は良い仕事をしてくれたようだな」
床に散らばる剣の破片を見下ろし、悪魔は笑った。
「思った以上に疲弊していると見た。ククク、神とは全く無慈悲なもの、あんなものに仕えて一体何の利があるのか、私にはさっぱり理解できん」
一歩、こちらへ足を踏み出し、悪魔はアルフレートを見下ろした。
アルフレートは、荒い息をしながらも、逆に悪魔を睨み上げた。
「……己の私利私欲にしか興味のない輩には、その価値は一生理解できまい。己の身よりも大事だと思えるものを持って初めて理解できる、この気持ちは」
「さて、そんなもの、理解したいとも思えん。弱肉強食こそが我ら唯一の掟であり、己の力こそが全て。さあ、我が前に膝をつくしかない哀れな吸血鬼よ、そこで大人しく私の食事が終わるのを待つがいい」
一歩、また一歩、悪魔がライラの方へと歩み寄る。
それはそれで恐ろしいが、ライラはアルフレートの事が気になって仕方が無かった。
アルフレートがこんなふうに床にうずくまって荒い息をする姿を見るのは、これで二度目。
しかも今回は聖なる剣で負わされた負傷の上にさらなる大怪我を負わされている。
このままではライラだけでなく、彼まで殺されてしまう。
(誰か――、誰でもいいから、彼を助けて……!)
だって、ライラはここにアルフレートを助けに来たはずなのに、さっきから彼の足手まといにしかなれていないのだ。
彼に助けてもらってばかりで、ライラはまだ何も彼に返せていない。
(お願い――!)
ライラは悔しさに強く両手を握り合わせ、咄嗟に目をつぶったライラの、闇に閉ざされた視界の外で、次の瞬間、突如強烈な緑色の光が部屋を満たした。




