ソロモン王の指輪
聖職者らしい衣装に身を包んでいるくせに、そのいかつい体つきと険しい顔つきは、ライラに『赤竜の牙』の男たちを彷彿させる。
その男が、ライラでは持ち上げることすら出来なさそうな重たそうな剣の切っ先を、ライラの鼻先に突きつける。
近すぎて焦点が合わず、二つに分かれて見える凶器が、ちくりとライラの鼻の頭の皮膚を引っ掻く。
鋭く研がれた刃の先が、滲んだ赤を吸い上げる。
ゴクリと唾を飲み込み、ライラは震える声で再度彼を促す。
「……早、く……行って……」
もっと、毅然として言えたら良かったけれど、声どころか全身、みっともない程に震える。
怖くて怖くて、今すぐにでもここから逃げ出したい衝動を必死にこらえ、それでもライラは、目の前の男を睨み上げた。
「神に背きし魔の者を庇い立てするとは、なんと罪深き娘よ。これはここの者か?」
瞳はライラに据えたまま、隣の男に問う。
「いっ、いえっ、その……っ」
彼をここまで案内してきた屋敷の使用人はうろたえる。
下手に答えれば、大商人たる主の仕事に差し障る。
「し、使用人として本日迎えたばかりの者でございまして……、まだ、主との正式な契約も交わしておりませんで……」
まさかこんな女だとは思いもしなかった、と男は声を引きつらせながら答えた。
「ふむ、つまりこの魔女に危うく騙されるところだったわけか」
「――っ」
――魔女。ライラの鼓膜を震わせたその言葉が、無数のかまいたちとなってライラの心を切り裂いた。
アルフレートは吸血鬼だが、神に背く魔物ではない。だから、ライラは魔女なんかじゃない。
頭では分かっていても、その呼称はライラの心に重くのしかかる。
剣を持った男の瞳が、冷たい殺気を宿す。ライラを殺すのなんか、この男にはきっと容易いはずだ。
(……っ、だから、早く……逃げて……・!)
そう思うのに、背後の気配は一向に動く様子がない。
「何で……っ」
「何で……? ……ライラ、それは俺の台詞だ」
くつくつと、堪えきれない笑いを漏らし、彼はゆっくりと起き上がった。
「俺の事など放っておけばいいのに。……わざわざこんな所にまでやって来て、どうするつもりだったんだ?」
「動くな、吸血鬼。……どうやらこの娘と顔見知りのようだが……この娘、まさかお前の主か?」
魔女とは、悪魔と契約を交わす事で魔力や禁忌の知識を得た者の事を言う。
ライラを魔女と呼んだこの男は、アルフレートをライラの使い魔だと疑っているらしい。
……確かにこの数日、ライラは彼と契約を交わしていた。生きて砂漠を越え、ここへ無事に辿り着くために、彼に自らの血を代償に差し出していたけれど、それは一時だけの仮の契約だ。
この屋敷の扉を叩き、中へ招き入れられた時点で彼との契約は成就し、既に解消されているはず―ー。
「……そうだな。彼女の選択次第でそうなるかもしれないな」
彼はライラの背後でゆっくり立ち上がり、ライラに突きつけられた剣の刃を素手で掴んだ。
その途端、ジュっと熱した金属に冷水をかけた時のような音がして、剣を掴む彼の手から煙が上がった。
肉の焦げる嫌な匂いがする。
だが、アルフレートは顔色一つ変えないまま、ぎりぎりと掴んだ刃を男の方へ押し戻し、ライラから遠ざけようとする。
無論、男も黙ってはいない。
「……馬鹿か、聖なる剣に自ら触れるとは。どうだ、神の祝福を受けた銀で拵え、毎日祈りと共に聖水で清められた刃の味は?」
押し返される刃を逆に押し戻そうと、柄を握る両手に力をこめる。
双方から力を受ける剣は、ぶるぶると小刻みに震えた。
その間にも、じゅうじゅうと嫌な音を立てて、アルフレートの手から煙が上がり、ぼたぼたと血の雫が刃から滴り落ちて床に血だまりを作る。
「そうだな、俺も肉体だけは紛れもなく吸血鬼、魔物だからな。確かに少々手痛いが、何、この程度、長きに及んだ使命が今ようやく果たされるやもしれないと思えばどうという事はない」
彼はそう言って余裕の笑みを浮かべた。
焦点が合わずに二つに分かれていた剣先が、少しずつ、少しずつきちんと一つに見えるようになり、やがてきちんと焦点が合うようになる。
聖職者の男も必死に力を込めるが、どんなに鍛えているとはいえ、相手は人間より遥かに優れた膂力を持つ吸血鬼。
頼みの綱であるはずの剣が思うような成果を上げられない今、アルフレートの方が僅かに優勢に見える。だがその一方で、床の血だまりはどんどん広がり、彼の手から上がる煙は一向におさまる気配がない。
このままでは彼の手が灰と化してしまうのではないか――。
そんな恐ろしい予想がふと頭をよぎり、ライラは叫んだ。
「やめて……っ!」
しかし、そのにらみ合いに真っ先に音を上げたのは、誰でもなく、尋常ではない力を双方から加えられた剣の方だった。
甲高い不快な音と共に鍔の根元からバッキリと刀身が折れ、破片が血だまりに飛び散った。
折れた刀身を、アルフレートは床に叩きつけてさらに粉々に砕いた。
「……相手が悪かったな。そこらの魔物であれば、この大層な武器にかかればひとたまりもないだろうが、俺は神を畏れはしても、恐れる事はない」
彼は、ぐずぐずに焼けただれた痛々しい手のひらを無感動にちらりと見下ろし、肩を竦めた。
「――俺は、かの神の預言者であり、天の使いも魔のものも従えし偉大なるソロモン王の臣下、アルフレート。王の最期の命により、かの王の後継たる新たな指輪の主を探す者。そして今ここに、アルフレートの名を以て、この娘、ライラを、我が主として認め、その手足となり、剣となり、盾となろう」
アルフレートは、懐から大事そうに、大粒のエメラルドが嵌った指輪を取り出し、ライラに差し出した。
「お前がこの指輪を受け取り、王として立つ覚悟を負うならば、お前は神の教えに従う全ての魔物と、天の使いを従えるだろう」
――ライラの手は、決してお姫様の手ではない。日々の労働で指は節くれだって太く、皮膚も厚いし、肌だってぼろぼろだ。
それでも、少女の手には、大人の男が嵌めていた指輪は大きすぎた。
ライラに、宝石の価値なんて全くわからないけれど、それでも深く濃い、神秘的な緑色は、それだけで人を惹きつける。
「俺は、一度ワルダを次代の王に据えるつもりで、しかしそれを彼女に告げる前に、あの盗賊どもに彼女を奪われ、その行方を追っていた。……しかし、彼女は既に王たる最低限の資格すら自ら捨ててしまった
」
アルフレートは、痛みを堪えるように辛そうな顔で指輪を握り締めた。
「あまりの絶望に、俺は役目を放棄したくすらなった。だが、これこそが神の導きというやつなのかもしれないな。……俺は、お前と出会うことができた」
しかし、仄かに笑みを浮かべ、アルフレートは床に蹲ったままのライラに手を差し伸べた。
「ライラ、俺の新たな主になってくれるか……?」




