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絶望

 光の一切射さないその場所の空気はひんやりしている。

 まともに掃除されているとは思えない不衛生な空気を逃がす通風孔が上手く機能していないのか、嫌な臭いがこもり、じめじめと不快な空気が停滞していた。

 「……ワルダ――」

 けれど、今のアルフレートの心の内は異臭のする地下牢の空気よりなお腐っていた。


 あの部屋で彼女を目にしていたのはほんの数分、けれど見間違えようもなくあれは、ワルダ――。

 彼女らしくない派手で扇情的な衣装を身にまとい、アルフレートが見た事のない表情を浮かべていた。

 屋敷の主人に寄り添うその姿は、どう見ても奴隷扱いだという下位の娘のものではなく、主のお気に入りの一員のもの。

 そしてなによりアルフレートの心を打ち砕いたのは、その立場を受け入れ疎んじる様子のないワルダの態度と、彼女に向けられた邪魔なものを見るような目――。

 直後、吸血鬼だからと言って捕らえられた瞬間、アルフレートが感じた絶望は、果てしなく深かった。


 ワルダを助けるために差し出した手を、彼女自身の手で振り払われた。

 アルフレートの正体を、あの男に教えたのはおそらく彼女だろう。


 ようやく見つけたと、そう思った光が堕ちた――。

 

 この過酷な状況に突然放り込まれて、未だ曇りない光を保っているとはアルフレートも思ってはいなかった。けれど――アルフレートが神の教えに従う身であると知っているはずのワルダが、アルフレートを吸血鬼だからと遠ざけようとした。

 彼女は、神の教えそのものを捨ててしまっていた。


 これだ、と思ったそれ。あの絶望から救ってくれたあの光。それが堕ちた――。


 そう悟った時に感じた途方もない虚無感。

 「俺は……いったい何の為に……ここまで……」

 

 人間用の牢など、アルフレートが本気を出せば容易く壊せるし、脱出も難しくないはずだ。

 けれどもう、再び立ち上がろうという気になれない。

 不衛生な床に座り込んだまま、力の抜けた足腰で……一体どこへ行けばいい?


 ここから脱出して、そして次は何をすればいい……?


 現実の闇をいともたやすく見通すアルフレートの肉眼。だが、心を見通す心眼には今、闇しか映らない。

 しかし、人より遥かに優れた吸血鬼の聴覚は、望みもしないのに遠くから聞こえてくる足音を確実に拾う。

 この地下牢へとやって来る人間の足音が、二人分。

 そのうち片方の足音には聞き覚えがある。アルフレートをこの地下牢に放り込んだ使用人の一人だ。

 

 階段を降り、地下室の扉を開ける。

 真っ暗闇だった部屋に赤々と燃える松明が差し入れられ、周囲を橙に染めた。


 「……これが?」

 やって来たのは聖職者――中でも戦闘に特化した『剣』。

 異教徒や魔物を滅する専門職の人間だった。


 アルフレートは吸血鬼だ。人間より遥かに丈夫で回復力に優れた肉体を持っている。……が、残念ながら不死ではない。吸血鬼を殺す方法は確かに存在し、そしてこの男はそれをよく知っている。

 アルフレートは神の教えに従う身であるが、肉体は他に数多いる吸血鬼のそれとなんら変わらない。

 精神はともかく、肉体に関しては間違いなく魔物そのものなのだ。


 この男は、アルフレートを始末するために喚ばれたのだろう。

 男の腰の半月刀が、鈍い銀の輝きを放つのを目にしたアルフレートは薄く笑った。


 ……そうだ、あれがこの胸を貫けば、課せられた役目を放棄して、消滅することが出来る。

 もう、この苦しいばかりの現実に抗い続けなくてもいい――。


 それは、疲れきったアルフレートにとってまるで甘い蜜にも似た誘惑だった。


 鈍く輝く切っ先に、アルフレートは焦がれるような眼差しを向けた。

 きっと、これは天罰なのだろう。

 ワルダを求めながら、ライラに懸想した自分に神が下した罰――。


 諦観し、目を閉じたアルフレートは、全身の力を抜き、時期に訪れるだろうその瞬間をじっと待つ。

 ……それにしても何だろう、背を預けた壁の向こうから何やらがさごそ妙な音がする。ねずみでも巣食っているのだろうか? いや、それにしては妙に音が重たすぎるような……?

 ヒュッと剣先が空気を切る音。

 ――ああ、いよいよだ、とアルフレートが覚悟を決めた――次の瞬間。


 ガラガラと音を立てて、背中を預けていた壁が豪快に崩れ落ち、アルフレートはそのまま後ろへ倒れ、振り下ろされた剣は狙いを狂わせ、石の壁にガキンと弾き返された。

 


 「ちょ、ちょっと待ったぁ!」

 そして、その場に場違いに高い声が響いた。

 子どもの、……それも女の子の声。その声に、アルフレートは聞き覚えがあった。この数日、毎日聞いていた声だ、間違えようもない。

 あの、途方もない殺し文句を吐いた声を、忘れられるはずもない。


 「……ライラ、お前、どうしてこんな所に?」

 アルフレートは呆然とかすれ声を上げる。

 「無事ですか? 無事ですね? 無事だって言ってくださいね!?」

 力なく蹲っていたアルフレートを、ライラは掴みかからんばかりの勢いで問い詰める。

 「怪我は? 動ける? 歩ける?」

 まず何から聞いたらよいのか、尋ねている本人も混乱しているらしく、とにかく疑問をごく短い言葉で乱発しながら、ライラはアルフレートと、弾き返された剣をすかさず構えなおした男との間に割って入った。

 ――まるで男が持つ銀の剣の切っ先から、アルフレートを庇うかのように。 


 「何者だ、貴様? それが何なのか理解した上での行動か、それは?」

 長四角のいかつい顔に、あごひげをたっぷり蓄えた男が、その鋭い目でライラを睨み下ろした。

 「……当然です、彼は私の恩人なんですから!」

 ライラは、声を上擦らせながらも、言い返した。


 戦いを生業とする男の殺気のこもった視線に怯え、体を小刻みに震わせているのが丸分かりなのに、ライラはその場を動こうとしない。


 「後ろの穴、外まで通じているそうです。――動けるなら、早く、行ってください!」

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