ソロモン王の後継者
都へ入る前の、最後の宿場町。
都から程近いこの町は、これまでの街と比べ、格段に娼館などのようないかがわしい店が少なく、代わりにピンからキリまで幾多の宿屋と食事処が軒を連ねている。
都から馬で半日の距離にあり、都に出入りする人間が多く立ち寄るこの町は比較的治安が良い。
都に入れば、どうしても宿代は上がる。だから、ひとつ手前のこの街で宿を取る者も少なくない。
アルフレートはこの街でも、慣れた様子で迷いなく人気のない明け方の街の路地を右に左に折れ、ライラを一軒の店へ導いた。
四人がけの丸テーブルが幾つも並び、奥のカウンターでいかつい髭の親爺が不機嫌そうな顔で鍋をかき回している。
「……昨夜の騒ぎ、お前さんが原因らしいな」
香辛料の香りの湯気が、ライラの鼻をくすぐる。
「何でも賊の集団がこぞって砂漠を駆けて行ったってんで、一日出発を伸ばした連中も多かったらしいぜ?」
カンカンと音を立て、鍋をかき回していたしゃもじを鍋の淵に叩きつけて張り付いた具を落としながら、店の主だと思われる髭の男がじろりと片目だけこちらへ向け睨む。
「俺としては、街中で暴れたら迷惑だろうと思ったから表で暴れて来たつもりだったんだがな。けど、これでひとつ有力な盗賊団が消えたんだ。朗報だろ?」
アルフレートはライラの手を引き、遠慮なく屋内へ足を進めると、カウンターに一番近いテーブルの椅子を引き、ライラに勧めた。
自分もその隣に腰を下ろし、足を組み、男を見上げる。
「じゃあ、その嬢さんがリーの言ってた娘か?」
彼女の名前を聞いた途端、アルフレートの機嫌が一気に急降下した。
「……リーの奴め、どこまで話を広めるつもりだ。今度会ったら覚えていろ」
トントンと足で地面を叩き、貧乏ゆすりしながら眉間の皺を指でつまんで揉みほぐす。
「あいつに何を聞いたか知らんが、彼女は俺の契約相手だ。カイム、取り敢えず食事を貰えるか?」
男はしゃもじを大きな匙に持ち替え、椀に鍋の中身を一杯掬い入れた。
「全く、いくら吸血鬼とは言えこんな時間に突然やってきて飯の催促とはな」
ふんと鼻息を荒げつつも男は椀を二つ、アルフレートに手渡す。
「いつも相応の対価をきちんと払っているだろう?」
「世の中には金で解決できねぇ事はいくらでもあるんだぜ?」
男は竈の火を消すと、アルフレートの隣の席に陣取り、腕を組み足を組み、まるでアルフレートを尋問するように身を乗り出した。
アルフレートはため息をつきながら、ライラを見やった。
「……彼はカイム。リーやベヒモス同様、ソロモン王に仕えた時分の同僚仲間だ。――で、カイム。じゃあ金でないなら何で払えと?」
彼を紹介しつつ、アルフレートは無造作に椀の中身を啜りながらカイムに文句をつけた。
「もうじき新たな主が誕生すると、かつての同僚仲間の間ではその話題が絶えないのさ。新たな主はどんな奴かとな。誰も彼も、期待と不安で落ち着けねえのさ」
椅子の背もたれに寄りかかり、カイムは天井を仰ぎ見た。
「指輪の主は、鍵をもその手中に収める。誰もが今、お前さんの動向に注目してる。……当然、お前さんが連れ回してるそっちの嬢ちゃんにも、な」
「人間の目はごまかせても、やはりお前たちの目は誤魔化せないか」
「――お前、人間相手にアレを出しただろう? ……ここに居てすら、あの恐ろしい気配を感じたぜ。いくら数が居たとして、お前さんなら本気なんぞ出すまでもなく始末できただろう? 例えその嬢ちゃんを連れていても、な」
カイムは、遠慮がちにスープを啜っていたライラに呆れた眼差しを向ける。
「全く、俺でもアレを間近にすれば足腰立たなくなるってぇのに。何だってこの嬢ちゃんは平気な顔してお前の隣に座って飯なんざ食ってられるんだ?」
「知るか、むしろ俺が知りたいくらいだ」
「へえ? 何と言うか……、人間にしておくには惜しい逸材だな。いっそ、お前さんのものにしちまったらどうだ? 新たな主に仕える、新たな仲間として」
カイムが吐いた台詞に、アルフレートは啜りかけた汁を吹き出し、思い切りむせ返った。
「ば、馬鹿なことを言うな!」
怒鳴りながら、アルフレートは袖口で乱暴に汚れた口元を拭う。
「――俺は、指輪の主となる者の為に存在しているんだ。主の望みが俺の望み。主を定める前に、俺だけの判断で勝手が出来るか」
咳き込みながら、アルフレートはまるで自らに言い聞かせるようにそう言った。
「ほう? だがその言い方だと、本音は別のところにあるように聞こえるな」
ぐっと言葉につまるアルフレートを、ライラは珍しいものを見たように興味津々に眺める。
どちらかといえばいつもはやり込める側にいる彼が、こんな風に困らされているなんて。
けれど、それ以上にカインの言葉はライラの興味をそそった。
彼らの会話の流れと、これまでに聞き及んだアルフレートの事情を鑑みると、アルフレートの言う『指輪の主』というのが、これから彼が都に迎えに行く女性のことなのだろう。
そして、かつてソロモン王に仕えていたという彼が『指輪』と言うからには、もしかして、あれの事だろうか?
古の偉大な王が、悪魔や天使、魔物を使役するのに使っていたとされる、エメラルドの指輪。
それの主、という事は――。
(ソロモン王の、後継者……!?)
これからアルフレートが迎えに行く女性というのは、そんなに偉大な人物なのか。
彼が、長年探し求めてきたものが、その彼女で。
なのにやっとの事で見つけた彼女を、あの赤竜の牙に奪われた。そして彼は彼女をずっと探し続けていたのか……。
あれだけの力を持った彼が永い時間をかけて探し求め、その傍らで傅く女性――。
(分かっていた、つもりだったけど……)
そんな壮大なスケールの話に、ライラなど到底太刀打ちできない。
その彼女に、勝るなど、到底無理だ。
ライラは、苦い想いを飲み下し、ため息をついた。
明日には都に着く。そうしたら、彼とはそこで別れなければならない。
今日が、彼と居られる最後なのだ。
後で支払う約束だった報酬が、おそらく今回の契約最後の支払いとなるだろう。
本来人間相手には明かさないはずの秘密を、彼は幾つもライラに明かしてくれた。
彼女にはかなわずとも、少なくともその他大勢の人間とは明らかに違う扱いを、彼はライラにしてくれた。――それだけで、満足するべきなのだ。
「ところで、裏の宿は以前のままか?」
「……そう来ると思って、ひと部屋だけ簡単に支度しておいたぜ。手間賃代わりに害獣駆除しておいてくれると助かるんだがな」
「害獣?」
「最近、あちらから良くないお客が増えててな。まあ、雑魚連中ばかりだが、ああもちょくちょく来られるとさすがに骨も折れる」
「……俺はついさっきまで盗賊集団と戦り合って、今ようやく一息ついたところなんだが?」
「働かざる者、食うべからずって言うだろ」
言い返されたアルフレートは椀の残りを一気に干し、乱暴に卓に戻した。
「ああ、分かったよ。……行ってくるから、しばらくそいつを預かっといてくれ」
アルフレートは音を立てて立ち上がり、踵を返して店を出て行ってしまった。
おそらくは、『害獣』退治に出向いたのだろう。
申し訳なさそうにその背を見送るライラの顔を、カインが愉快げに見つめた。
「本当に、あいつを恐れていないんだな、あんた」
煙管に火をつけ、一服しながら、ライラに話しかける。
「もう一杯食うか?」
カインは空になったライラの椀を見下ろし、尋ねた。……折よく、ライラの腹がきゅうくるるると盛大に鳴った。
「待ってな、貰いもんの菓子があるんだ。あいつに内緒でひとつあんたにやるよ」
椀をスープで満たしたカインは、一度店の奥へ引っ込むと、小さな革袋を手に戻ってきた。
口を縛る細い革紐を解くと、中からは砂糖を固めて作った砂糖菓子が数個、転がり出た。
「どれでもひとつ、好きなのを取れ。んで、あいつが帰ってくる前に口に入れちまえ」
カインは促す。
だが、喜んで手を伸ばそうとしたライラは、その言葉に、ふと手を止めた。
以前、リーに似たような事を言われて受け取ったそれで、アルフレートが大変な事になってしまったのを思い出したのだ。
「これは……」
警戒の眼差しを向けるライラに、カインは笑みを深めた。
「ただの砂糖菓子だよ、正真正銘な。変なものは入ってねえ。だが、その反応。リーの術は効いたんだな?」
ライラの口にひとつ、無造作に砂糖菓子を押し込み、彼は尋ねた。
「――多分。幻惑術だって、彼は言ってました。私の血を口にした後で、すごく、苦しんで……」
「ふうん、ってことはあいつは抗ったって事か。ま、そうだろうな。術に押し負ければ理性なんて消し飛ぶ。加減なんか一切効かなくなるからな、当然か。しっかしあいつの理性の鉄壁ぶりはもはや伝説級だな、目の前に上等の餌をぶら下げられた状態でリーのあの術をまともに喰らって、なお耐えるとは」
感心するカインが漏らした台詞に、ライラは反射的に目を逸らした。
うっかりアレを思い出してしまわないよう、慌てて首を振る。
……が、彼の目は誤魔化せなかったらしい。
「――え。まさか……、もしかして、違う? え、本気であいつに襲われた?」
「べ、別に襲われたとかじゃ……! あれだけ苦しそうなのに、触るな近づくなって言うから……。ただ見てろだなんて無理だと思ったから、血を飲めば楽になるだろうと思って!」
慌てたライラは思わずいらない事まで叫んで墓穴を掘った。
だが、カインは呆然と目と口を明け、固まった。
「え、何? じゃあ暴走寸前のあいつに自分から? 嘘だろ? あいつに本気で血を吸われて? それでまだあいつと一緒に居るって……」
いたたまれないと言う風に頭を抱えて項垂れ縮こまるライラの赤らんだ顔を眺め、カインはため息をついた。
「成程、あいつもつくづく罪作りな野郎だな」
カインは、再び席を立ち、再び店の奥から何かを取ってきた。
「……そういう事なら、もうひとつ、いいもんをやるよ」
彼は、孔雀の羽を模した小さな髪飾りを、テーブルの上に置いた。
とても控えめなデザインなのに、何故か目を惹きつけられる輝きを放っている。
「いざという時のお守りだ。何か困った事があった時には、そいつが導いてくれるだろう。……ただし、効果は一度きり。一度使ったら、後はただの髪飾りでしかなくなる」
彼は微笑みながら言った。
「持って行きな。多分、そう遠くない未来に役立つ時が来るはずだから」