恋か、否か
――全くもって、笑えない冗談だ。
馬の背に跨り、自分の前に座る少女の体を支えながら、手綱を操る。
自然、彼女を腕の中に閉じ込めるような格好になるわけだが、……それが、妙に気分を高揚させる。
馬の足は、変わらず都へ向けられている。……彼女の契約を交わしたその日から、何も変わらない図のはずだというのに。
慣れない乗馬で四苦八苦していた彼女も、今では随分と慣れ、こんなにしっかと支えてやらなくとも、問題はないだろう。
ライラは、真っ直ぐ前を向き、暗闇の向こうを見透かすように、じっと遠くを見つめている。
――吸血鬼であるアルフレートの目にも、今映るのは砂漠と空に浮かぶ星のみ。人間のライラの目に映るのは、それこそ瞬く星だけだろう。
だが、彼女の目が、アルフレートにも捉えられない何かを見つけてくれるような気がして、つい彼女の視線の先を追ってしまう。
――私にとっては間違いなく“救い”だから……
自分に会えたことが救いだと、彼女は臆面もなくそう口にした。
全くもって、とんでもない殺し文句があったものだと思う。
まさか吸血鬼の自分が、“救い”だなどと――全くもって、笑えない冗談だ。
いくら自分が神の教えに従っているとはいえ、吸血鬼であることに変わりはない。人の生き血を啜らずには生きられない魔物の身であるというのに。
それを、人間の――それも何の力も持たない少女が、アルフレートに出会った事が救いなのだと言ってのけた。
永く生きてきて、そんな事を言われたのは初めてだった。
ワルダや、彼女の父、――かの偉大なる王ですら、そんな事は言わなかった。
そう告げられた時、アルフレートの胸の内を、二つの感情が入り乱れた。
彼女の言葉を素直に嬉しいと思う反面、憤りを感じた。
過酷な環境で、ライラの心を支えるはずだった、彼女の弟妹たちの死。とどめのような事実に、心折れても無理はないというのに。
それでも、彼女はこうして前を向き、進もうとする。
何も考えていないわけでもなく、ただ無知なだけでもない。きちんと自分の状況を理解した上で、待ち受ける運命に抗おうとしている。
そんな彼女の姿に、アルフレートは惹かれずにいられなかった。
――ワルダが、居るのに。
これはもう、いつ神罰が下ってもおかしくないだろう程に、アルフレートの心は高揚していた。……ワルダにすら、一度も抱いたことのない気持ちに、アルフレートは自らを嫌悪した。
今、ようやく、ワルダに抱いていた気持ちがなんだったのかを、理解した。
永い絶望に満ちた旅の末、ようやく見つけた指輪の主に相応しい者。……アルフレートは彼女に救いを見出した。
アルフレートを絶望の闇から掬い上げた光を、アルフレートは守りたいと思い、跪き、仕えたいと願った。
――アルフレートは、彼女にかの王が持っていた光を見、彼女を主として見ていたのであって、決して彼女を一人の女性として愛していたわけではなかったのだと。
彼女の夫となるよう彼女の父に言われた時も、彼女を守り、支える立場としてそれが最適であると考えたから、話を受けたのであって、彼女に恋をしていたわけではなかったのだと。
勿論、主として大切に思う気持ちはあったし、今もそれは変わらない。
……けれど、アルフレートが女性として愛し、恋しているのはワルダではなく、ライラだと、もう認めないわけにはいかなかった。
だというのに、アルフレートはその愛しい人を、神をも恐れぬ不埒な男の元へ無事送り届ける条件で彼女と契約し、そう誓ってしまった。
――彼女の身柄を、気に入らない男に引き渡さなければならない。
もう間もなくやって来るはずのその時を想像するだに、腸が煮えくり返る。
その商人だという屋敷の主を殴り飛ばしてしまわないように自制するためには相当の労力を要するだろう。
そう言えば、久しく剣を振るっていない。
ワルダを失ってからこっち、ずっと護衛の仕事をしていたせいか、ほぼ毎日のように剣を振るい、人を斬っていたというのに、赤竜の牙を避けての旅は他の盗賊をも遠ざける結果となり、モハメドを脅したのがそう言えばまともに剣を抜いた最後だ。
ふと改めてそう思い出すと、もやもやとはっきりしない気分を発散するためにも、ひと暴れしたい気分になってくる。
ちょうど良い具合に、その機会がこの先に待ち構えている。
……ライラの心を慮るなら、迅速かつ確実に仕留めねばなるまい。
少しでも、彼女にかかる負担は減らしてやりたいと思う。
盗賊に襲われるたび、荷馬車に蹲り、震えていた少女。彼女が寄せる信頼に、せめても答えてやりたいと思う。
都まで、あと3日もあれば到着する。
(その前に、連中と決着をつけるなら……)
頭の中に、この近辺の地図を広げ、頭上の星空と見比べながら思案する。
「ライラ」
アルフレートは腕の中の少女の名を口にする。
「……もうじき、次のオアシスに着く。今日はそこで休憩しよう」
いつも、町やオアシスに着くのは不思議なくらい日の出る直前直後であるにもかかわらず、まだ日の出には早すぎる今、彼から告げられた台詞に、ライラは首をかしげた。
アルフレートの言い様は、明らかに小休止ではなく、野宿場所という意味に聞こえたから。
「明日、夕方の早い時間帯に、都から一番近い町に顔を出す。そこでわざと目立った後、そこから一気に無人のオアシスへ奴らを引きつけ、一気に叩く」
いよいよ迫った戦いの、具体的な話を聞かされ、ライラの身体が一瞬固まった。
けれど、彼女は気丈に頷いてみせる。
「大丈夫だ。暗がりへ誘い込めれば、俺が圧倒的に有利になる。……多勢に無勢でも、俺は人間じゃない。吸血鬼だ。体力も、身体能力も人間よりはるかに優れている。多少の傷は即座に塞がるし、夜目も利く。ここ数日で、お前もそれは見てきたはずだ」
殊更牙を見せつけるように笑う。
――でも。
そんな風に今更吸血鬼ぶられても、全く怖くない。
「……血は、要りますか?」
だから、ライラは躊躇いもなく彼に訪ねた。
彼は、困ったように眉尻を下げ、目を閉じて首を左右に振った。
「いや、それは後にとっておこう」
おそらく、それが彼女から受け取る、最後の報酬になるだろう。
――都はもう、すぐそこだ。