屋敷の日常
「お待たせして申し訳ありません、旦那様。少し、身支度に手間取ってしまいまして……」
寝台にだらしなく身を預け、グラスに注いだ酒をあおる赤ら顔の男に、彼女は膝をついて頭を下げる。
深々とスリットの入った衣装から、折られた脚が顕になる。広く開いた胸元からは胸の谷間が惜しげもなくさらされ、その中央に飾られたエメラルドの首飾りが彩りを添える。
たるんだ顔を、さらにだらしなく緩め、男は彼女を手招いた。
「全く、待ちくたびれたぞ。さあ、来るんだ」
「はい、旦那様」
彼女は言われるがまま、男が横たわる巨大な寝台の端に腰掛ける。
男は、手にしていたグラスを寝台脇の小机に置くと、早速彼女の身体へ手を伸ばす。
唇と唇を触れ合わせ、彼女の身体を寝台へ引きずり込み、横たえる。
慣れた手つきで、何のためらいもなく彼女の素肌を暴き、触れる。
「……昨夜の娘の慣れない様子も新鮮で悪くなかったが、やはりワルダ、お前は別格だな」
満足気な男に、ワルダは微笑みかける。
「そうでございましょう? ……たまには違う味をお試しになりたくなるお気持ちもお察しいたしますけれど、私のことを忘れてしまわれないか、とても心配しましたのよ?」
「儂は、商人だ。いつでも同じ事を繰り返すばかりでは客に飽きられてしまうのだ。……だが、かと言って常連客をないがしろにしても良くない。おお、分かっておるとも。上得意を疎かに扱うなど、あってはならぬことだ」
「ええ、勿論心得ておりますわ」
「うむ。お前のような女を手に入れることができたのは実に幸運だった。さあ、お前も今宵の幸運を存分に味わうといい」
――あれから、二月以上が経つ。常ならば、そろそろ“彼”がやって来る頃だった。
身体のあちこちを好きに触られ、熱く重たい身体にのしかかられる不快。好きでもない男に身体を明け渡す屈辱。
全てを飲み込み、ワルダは嬉しそうな表情を取り繕う。
「光栄ですわ、旦那様――」
この瞬間の屈辱に耐えれば、後は至れり尽せりの日々だ。
しかし、この男の興味がワルダから逸れてしまえばそれまでの、儚い夢。
だからワルダは、必死に取り繕う。その夢を壊さぬよう、少しでも長く見続けていられるように。
あの男意外にも、ここの主人に娘を売りに来る者は大勢居る。昨日も、新しく入った娘を、彼は早速呼びつけた。
彼は、新しい娘が入ると必ずその日の晩に呼びつけ、一夜を共にする。
殆どの娘は怯え、屈辱に打ち震えながらその夜を過ごすことになる。
が、寝台の上で主人を喜ばせる振る舞いが出来なければ、娘の行先は、夜は寒く昼は熱く、食事も満足に出ない大部屋となる。
そこでは同じ運命に陥った娘達が幾人もひしめいている。
そして、再び寝室に招かれる事は滅多になく、奴隷のような扱いを受ける。
――が、その初めての夜、少しでも主人の目に留まったなら、その他大勢とは違う運命が待ち受ける。
粗末ながらも個室が与えられ、大部屋よりはましな食事が与えられるのだ。
そして、二度、三度と主人の寝室に招かれる事になる。
そこで、さらに気に入られると、どんどん部屋と食事のランクが上がっていく仕組みになっていて、逆に主人の気分を害せば、一気に大部屋送りになる場合もある。
初めこそ嫌悪と屈辱で怯えていた娘たちも、それを理解するにつれ、段々と主人に気に入られようと必死になっていく。
少しでもライバルを減らすため、陰湿ないじめや嫌がらせも当然のように横行する。
新しく来る、初めての娘が主人に気に入られないよう、ワルダは彼女に散々恐ろしい噂を吹き込んだ。
過度に恐れ、怯える娘を、この主人は好まない。
だが、あの男が連れてくる娘はいつも一筋縄ではいかない。
あの男が連れてきた娘は、ワルダを含め、もれなく個室を与えられている。
ましてや、今回はあれだけ自信を覗かせていた。
気をつけなければ、ワルダの地位が脅かされる可能性がある。
だから、ワルダはとびきりの笑顔を浮かべて、男を受け入れた。
いつもなら、新しく入ってきた娘には、散々恐ろしい噂を聞かせ、脅しつける。怯えたところを痛めつけ、恐怖心でいっぱいの表情をさせたまま、主人の寝室へ送る。
しかし、今回それをあの男に禁じられてしまった。
いくら数いる女たちの頂点に君臨しようと、所詮は主人に養われる妾、対外的な力など皆無だ。
彼の機嫌を害して良い事は何もない。
おそらく、その娘もまた部屋を与えられるだろう。
だから、一度目のそのあとで、二度目が決して無いようにしなければならない。
さて、どうしてくれようか。
ワルダはこそりと冷たい笑みを浮かべる。
ワルダとて、初めての夜はそれはそれは恐ろしかった。
――結婚の約束までしていた男が居たのに、彼ではない男に無理矢理抱かれる嫌悪感は、吐き気すらこみ上げてくる程だった。
けれど、理不尽な運命に負けたくなくて、強気に男を睨みつけ続けた。
その気の強さを気に入られ、今ではほぼ毎晩のように寝室へ呼ばれるようになっていた。
今となってはもう、行為を楽しむことはなくとも、あの時のような嫌悪を抱くこともなくなっていた。
吸血鬼という魔物だった男。
ワルダの父である長は、そうと知りながら彼を村へ受け入れ、ワルダの夫と定めた。
――神の教えに忠実な吸血鬼は、実際とても誠実で、不器用ながらも優しかった。
他の粗野な男達にはない気品を纏う、不思議な魅力をもった男。
ワルダも、彼を好いていた。
他の娘達が羨む彼が自分の夫になるのだと、喜んでいた。
だけどそんなのはもう、遠い過去の話。二度と触れることのできない別世界の話だ。
神に忠実……? そんな事にいったい何の価値があるのか? どんなに神に祈っても、どんなに神の教えに忠実に従おうとも、神は何もしてくれはしないのだ。
むしろ、何もかも奪われた。
今、この地位を手にしているのはひとえにワルダがこの男から寵愛をもぎ取った故の事。
「絶対、負けない。ご主人様の寵愛は私のもの……。私だけのものなんだから」
事が済み、すうすうと寝息を立て始めた男を寝台に残し、ワルダは窓から夜空を見上げた。
――屋敷の影で息を潜める、数多の気配に、気づかぬままに。