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ライラの怖れ

 身体が、だるい。――重い。

 まるで水の上を漂っているように不安定にふわふわぐらぐら頼りなく揺らぎながら、しかし手足は冷えた鉛のように冷たく重たい。

 そのくせ、喉は焼け付くように渇き、張り付いている。

 ぐるぐると、激しいダンスを踊りすぎたあとのように回る頭が、ずきずきと重たい痛みを訴える。

 夢か、現かも定かでない世界が、水面に映った影のように揺らぐ。

 ふとすれば即座に暗転しそうな視界が、ゆっくりと広がった。


 「気がついたか?」

 見慣れない天井をぼんやり眺めるライラの視界に、人の影が落ちた。

 「……良かった」

 いつもの落ち着いた低く聞き心地のいい声が、珍しく揺らぎ、心からの安堵の言葉をライラの耳に届けた。

 すん、と吸い込んだ空気が、ライラの嗅覚を甘酸っぱい香りで満たした。

 瞬きを繰り返し、彼の顔を見返そうとするが、乾いた眼球が痛み、長く目を開けていられない。

 口の中は酷く粘つき、喉もひりついて声が上手く出せない。

 

 「……いい。動くな、しゃべるな。まずは、これを飲め。口を開けろ、飲ませてやる」

 アルフレートが、ライラの半身を抱き起こし、その口元に杯を押し当てた。ゆっくりと傾け、中の液体を彼女の口の中へ流し込んでいく。

 ――甘い。爽やかな酸味と、鼻に抜けるすっきりとした香り。濃厚な果汁が、ライラの喉を潤していく。

 「美味しい……」

 砂漠の中で果物など、宝石よりも貴重で高価なものだというのに、舌に感じる味からすると、使用した果物は一種や二種ではなさそうだ。

 複雑に絡まり合う、甘味と酸味と清涼感は、新鮮な果物とスパイスやハーブの香りを含んでいる。


 流石にたちどころに回復、とはいかないまでも、渇きと辛い頭痛だけは治まった。

 お陰で、少しはまともな思考が戻ってくる。


 「良かった、それでは治まったのですね?」

 ライラは気を失う直前の記憶を辿り、落ち着いた様子のアルフレートを改めて見直すと、ほっとしたように笑った。

 すると、アルフレートは信じられないものを見るような目でとっくりライラを眺め回したあとで、彼は困った顔になり、皮肉な笑みで口元を引きつらせた。

 「……お前は、本当に――どうして」

 痛みを堪えるように、辛そうな眼差しを向けるアルフレートに、ライラは不安になる。

 「あの……? もしかして、まだどこか具合が……?」

 「違う。……一度にこれほど大量に血を摂取するなど、普段では有り得ない。吸血鬼という種族にとって、血はそのまま力となる。今の俺はいつになく調子が良い……むしろ良すぎるくらいだ」

 「では……何故? そんな痛そうな顔をしているの……?」

 アルフレートは、その問に呆れたようにため息を漏らし、片手で髪をかきあげた。

 「そうだな、そろそろ俺はお前の頭が心配になってきている」

 「は……、私の頭……、ですか? お陰さまで、頭痛は治まりましたが……。あっ、そうでした。明日にはもう発つとおっしゃっておられて……。もしかして、私、寝過ごしてしまいましたか? 今、何時でしょう?」

 「心配せずとも、まだこれから今日の月が昇る頃合だ。まだ、丸一日猶予はある。……が、その様子では一日は短すぎるな」

 慌てて起き上がろうとするも、見るからに力の入っていないライラの小刻みに震える細い手足を眺め、アルフレートはライラに粥を差し出した。

 「食え」

 「あ、ありがとうございます。……すみません、動くどころか起きることもままならないなんて。私、身体の丈夫さだけは自信があったのに」

 しょんぼりしながらそれを受け取るライラに、アルフレートはまた不機嫌顔を取り戻してしまった。

 「謝るな。今謝るべきはお前ではなく、俺だ。加減もせず血を啜ったのは俺なのだからな」

 アルフレートは皮肉な笑みを深めて言った。


 「守ると言った俺が、お前を害した。あんな初歩の罠に引っかかって、お前の身を危うくした。お前も、思い知っただろう? 吸血鬼の牙にかかる恐怖を――」


 ――恐怖?

 あれは、そんなものではなかったと、ライラは思う。


 一度目の吸血も、それは荒々しいもので、暴力的な快楽に翻弄されたけれど。それすら生易しいと思えた。


 首筋に牙が穿たれた瞬間、現実と繋がる感覚の一切が、意識ごと世界から引き剥がされた。

 次から次へと快楽が鉄砲水の如く押し寄せ、脳天から足の爪先まで一部の隙もなく痺れるような快楽に支配され、快楽の海深く沈み、抵抗の余地なく溺れるしかなかった。

 

 思考は、彼に血を吸われる歓喜に沸き、いっそ全てを捧げてしまいたいとさえ疑いもせず思ってしまった。

 死の恐怖すらも、恍惚の中で溶けていき……それを疑問に思いもせず、ただ快楽に身を任せ揺蕩い、微睡んで……。


 ライラの心など振り返ることのない、一方的なそれ。なのに……苦しいと感じるほどの快楽に溺れながら、それでも……


 もどかしい、と思うのだ。

 「恐くなんか、ない。だから、そんな顔をしないで」

 そんな苦しそうな顔をして欲しくて、血を差し出したのではないのだから。


 「私の村は、牛や羊を追って暮らしています。だから、村の若い殿方は立派な体躯を持っていますし、中には乱暴な方も居りました。けれど、そんな彼らもあの日襲ってきた盗賊たちには敵いませんでした。でも、あなたはそんな盗賊たちを簡単に倒してしまった……。あなたがその気になれば、私などいつでも簡単に好きに出来るのに……」

 村に住む若い乱暴な男たち。盗賊でなくても、娘たちに悪戯を仕掛ける不届き者は居た。そんな彼らに泣かされた娘も。

 「だけど、あなたはあんなになってまでも、私を傷つけまいとしていたでしょう? だから、私はいいと思ったんです」

 彼が正気を失いそうになっていたのに、勿論ライラも気づいていた。

 「私も、少しだけずるい事、考えてしまったんです。もしも、ここで血を吸われすぎて死んでしまったとしても……。あなたなら、あの子達を助けてくれるかもしれないと。あの子達の無事という理由がなくなったら……、私は……この先の未来が、突然怖くなって……」

 逃げたいと、思ってしまった。彼の優しさに甘えて、彼に全てを委ねてしまいたいと思ってしまった。


 「……軽蔑、しますよね?」

 彼からそんな視線を向けられるのが怖くて、ライラは俯いた。

 

 「私は、……一瞬でもそんな事を考えてしまった私のほうが、怖いです」

 もしも呆れられ、契約を解消されてしまったらどうしよう? ……この先、どうやって砂漠を行けばいいのだろう? ただでさえ厳しい道のりの先、あの盗賊たちはライラたちを探しているという。彼らに見つかればどうなるか……。全く良い予感はしない。

 だが、その怖さよりも、彼に蔑まれるほうがライラにとってはよほども恐ろしい。


 「一瞬の心の揺らぎなど、誰にでもあるだろう。……お前が今いる境遇を思えば、腐っても無理はないというのに、お前はそうして後悔し、反省している。それをどうして軽蔑などするものか。その程度で軽蔑するとしたら……俺は、とうの昔に俺自身を見限っている」

 アルフレートは、そっとライラに手を伸ばし、頭を優しく撫でた。

 「俺は、かつての主にある仕事を任されている。……その仕事を完遂するために旅をしながら……何度それを投げ出したくなったか。何度、絶望を味わったか……知れない。長い、長い旅だった。……ようやく見つけたと思った救いを奪われたとき、神をすら恨みたくなった。……今も――」

 静かに苦笑を浮かべて。


 「今は、余計なことを考えずに眠れ」

 眠りの魔法が、ライラの意識を再び夢の世界へ運ぶ。


 「俺は……、何を選ぶべきなのだろうな……」

 苦しげな呟きを口にして、アルフレートは苦笑を深めた――。

  

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