暴かれた想い
「……ッ、……俺は……何を……ッ」
ふと、正気に返ったとき。
目の前に横たわる、ライラの青白い顔がまず網膜に焼き付いた。目は固く閉じられ、呼吸はかろうじてあるものの、弱い。
――貧血。明らかに吸いすぎたのだと分かる彼女の状態に、アルフレートは自らを呪った。
うだるような暑さ。
砂漠の昼は、暴力的に降り注ぐ太陽の熱と、それを照り返す砂の熱とで容赦ない暑さで陽炎が立ち上る。
生ものを外へ放り出せば、ものの数分で腐り、異臭を放つ。――そんな暑さの中にあって、ライラの肌はひんやりとしている。
アルフレートは、彼女の寝台から離れ、どさりと自分の寝台に腰をかけ、先ほどより更に深くうなだれ、ため息を吐きだした。
見るまでもなく、ライラの両の首筋には痛々しい二本の牙の跡がくっきり残り、未だにじくじくと血が滲んでいる。
それに引き換えアルフレートはといえば。あれだけ発熱し、汗にまみれていた身体が嘘のように鎮まり、頭はすっきり冴え渡り、思考に何の難もない。
ただ自己嫌悪に沈む心の重さを除けば、むしろ身体の調子は絶好調と言っていいだろう。
つくづく、あんな安い罠に引っかかった己の愚かさが悔やまれる。あんなもの、普段の自分であればまずかかるはずのない簡易魔術。――インキュバスの常套手段である初歩の魅了、男の“欲”を煽り惑わせる幻惑魔法だ。
少なくとも、直接喰らったのであったなら、目をつぶってでも払い除けられる。その程度の魔法に気づかず、うっかり惑わされてしまったのは、“それ”がライラの中に――彼女の血に仕込まれていたせいだ。
彼女に牙を立て、血を啜り――血と共に呪いまで飲み下し体内に取り込んでしまった。
それによって襲ってきたのは、猛烈な血の渇きによる餓えと、強烈な吸血衝動だった。
神に従うと誓を立てた後、吸血は必要最低限に控えるようになり、常に軽微な喉の渇きが共にあるのが当たり前になってもう相当な時間が経っている。
――が、こんな強烈な渇きを覚えたのは相当に久方ぶりだった。
幻惑術の効果で、ライラの血からは常より強烈に魅惑的な香りを感じ、牙が疼き、身体は熱くたぎり――。己の内で猛る欲の渦を抑えるのに、アルフレートはありったけの精神力を振り絞らなければならなかった。
だが、そんなところへあんな言葉をかけられたなら――必死に築いた理性の堤が一気に決壊するのも無理はなかった。
「血に餓え、吸血衝動にかられた吸血鬼を前に、魔物に見えない、だと……? 目か、頭か。おかしいのはどちらだ、ライラ……?」
アルフレートは渋い顔で彼女の透明な寝顔を眺めやる。
――何の考えもなしに、あなたを苦しめるようなこと、あのリーさんがするとは思えない……
ライラの推測は間違いではない。
リーは、目的を持ってライラに術を仕込んだのだ。アルフレートを焚きつけるために。
……それでも。アルフレートがライラを何とも思っていなければ、この術は何の効果もないはずだった。
1を10に増幅する事はできても、0を1にする事は出来ない。そういう術だ。
「俺……は……」
ライラに対し、特別な感情を抱いている――?
「だが、俺は指輪の主の選定者、指輪の主は、ワルダだ。俺が仕えるべきはワルダだ」
ワルダによく似た、けれど違う。
アルフレートのあんな姿を目の当たりにしながら、それでも逃げることなく真っ直ぐアルフレートと向き合い、受け入れた。
あの様を見た者で、そんな対応をしたのはライラ一人だけ。他は、どんな強欲な人間も、揃って逃げを打った。
ワルダの前で、こんな風に取り乱したことはなかったが……。
ああ、そうだ。彼女は彼女で、ワルダと同等かそれ以上に綺麗な輝く魂を持つ希少な人間。
――もしも。もし、ワルダと出会う前にライラと会っていたら……俺は……
「こいつを、指輪の主に選んだ……?」
もしも論など、今となっては意味などないと分かっていても、考えてしまう。
指輪は、一つ。指輪の主となれるのは、ただ一人のみ。
「だが、俺はワルダと出会い、ワルダを選んだ……」
その選択が、間違いだったとは思わない。……だが。
「俺は……こんな小娘に、惹かれているのか……?」
彼女の性質を好ましいとは思う。――思う、が……。
神書に記された、一つの掟。――浮気は、重罪。不義密通は死罪に値する恥ずべき罪。
ワルダに仕えるべき身としては、この想いはあってはならないものだ。
今の今まで全く自覚していなかったし、リーのお節介がなければ気づかないまま事が済んだ可能性も少なくなかったはずなのに。
術により浮き彫りにされた気持ちは、誤魔化しようがなかった。
「俺は、どうすればいい……? なあ、我が主……王よ、神よ、俺は……何を選べばいいんだ……?」
自らで考えなければならない事だと分かっていながら、無責任にも自らより大きく強いものに縋り、投げてしまいたくなる。
全く、情けないにも程がある。力でアルフレートにかなうものなど、今も昔もほとんど居ないというのに。
大した力も持たず、抗いようのない理不尽な境遇と未来を憂いながらも、強く生きようとするライラの魂の放つ光。
それを、穢したくない。アルフレートは強く思う。この穢れ無き真っ白な輝きを、守りたい。
「……飯、用意しないとな」
この宿に食事処はない。食事をしたいなら外で食べるか、買ってくるかしなければならない。
せっかくここ数日で持ち直していたライラの体調を、一気に最悪な状態に突き落としてしまった張本人であるアルフレートとしては、少しでも栄養価の高い食事を与えたいところだ。
アルフレートは立ち上がり、つかつかと窓へ歩み寄った。――宿の玄関から正直に出ていけば、ライラが一人で部屋に居ることが知れてしまう。こんな治安の悪い街の宿屋に、寝こけた小娘一人と悟られる訳にはいかない。
窓から通りの様子を伺い、人目がないのを確認するとサッと眼下の通りへ飛び降りた。
幸い、ここにはありとあらゆる品物が集まってくる。値段さえ気にしなければ、一通りの物は揃う。
この先の道行は、色々な意味で荒れそうだ。少しでも精のつく食べ物を求め、アルフレートは混み合う市を物色し始めた――。