リーの罠
痛みと、快楽。その奔流がライラの思考を押し流していく。
嵐の中、ただ一人で立たされているような――。他に縋るものもなく、揉まれ、翻弄され、蹂躙される。
先日の、まるで騎士のような紳士的な振る舞いが嘘のように、まるで獣の如き荒々しさで貪られ、全ての抵抗は難なく封じ込められる。
血を啜られる音が、耳のすぐ傍で、鼓膜を揺さぶる。先日よりもはるかに近い場所で奏でられるあまりに生々しい音が、耳奥をくすぐる。
傷口に吸い付く、唇の音。時折息を継ぐ吐息の熱。頬に当たる、意外なほど柔らかい彼の髪の感触。全身を覆う、彼の身体の引き締まった筋肉の硬さと、熱。手首や足を押さえる彼の手の力の強さ。
全身をめぐる、甘い痺れと快楽。
その波に、ライラはたちまちあっぷあっぷする羽目になる。――溺れそう、だ。
――安心して溺れろ。
彼らしくない笑みを浮かべながら言われた言葉。
ライラの動揺と戸惑いを正確に見抜いた上で、それを全て自分の責任だと、ライラは悪くないのだと、そう仕向けようとしている。
それが分かるから、ライラは藁にも縋る思いでもがき続ける。
こんな風に呑まれてしまいたくはなかった。
その他大勢と、一緒くたにして欲しくなくて、ライラは必死に抗い続ける。
「――っ、!?」
――と。突如、アルフレートの口から荒々しい吐息が漏れた。ガタン、と大きな物音を立てて、彼の身体が寝台からずり落ちた。
肌に埋まっていた牙が抜けると、猛烈な勢いで快楽の波が引いていき、代わりに痛みが一気に押し寄せてくる。
手首にささやかに穿たれた先日のそれに比べ、容赦なく深々と穿たれた首筋の傷の痛みは、肩の方まで痺れるようで、じっとりと汗が滲んできた。
――だが。
「……っ!」
寝台と寝台の狭い隙間に蹲り、苦しげな呻きをあげながら肩で荒い呼吸を繰り返すアルフレートの様子が、明らかに尋常ではなく、ライラは慌てて跳ね起きた。
彼の背に触れ、撫で摩ろうと伸ばした手は、しかし乱暴に振り払われた。
「……寄るなっ」
怒鳴られ、ライラは思わずびくりと身体を強ばらせた。
「……済まない、突然大きな声を出して。だが、お前、あの時リーから何を受け取った?」
「何、……と言われると、言い様に困るのですが……。何か、形のない空気のような……けれど、とても甘い不思議なものをいただきました」
ライラの答えを聞いたアルフレートは、深くうなだれた。
「――リーめ。……くそ、してやられた」
牙の隙間から唸るように低く悪態をつく。
「あの……、もしかして私、リーさんから何か良くないものをいただいてしまったんでしょうか……? これは……私の、せい?」
「違う、お前のせいじゃない。……確かに原因はリーだが、まんまとあいつの罠にかかった俺がうかつだっただけだ。心配ない、奴が何だか、お前は知っているだろう?」
確かに、リーは自らインキュバスと名乗った。
「インキュバス、……つまり夢魔だが。別名、淫魔とも称される魔物だ」
「いん……ま……」
「なんて言っても、お前ではピンと来ないか。……とりあえず、今の俺に近づくな、――決して触れるんじゃない」
もしも、触れたならば。
「俺は。今のすら、蚊に刺された程度にしか思えなくなるほど酷いやり方で、お前を襲うだろう」
アルフレートの額から、凄まじい汗が吹き出し、だらだらと流れ落ちる。
「既に今、俺は自分の欲を抑えるので精一杯なんだ。だから……」
モハメドに剣で刺され、腹に穴が開いた時ですら平然とした顔を崩さなかった男が、ライラの前で初めて明らかに苦しげな表情を晒し、吠える。
――リーは、一体何がしたくて、こんな事をしたのだろう?
だが、明らかに苦しんでいる彼を、ライラは黙って見ているなんて出来そうになかった。
氾濫する川の中で。必死に足を踏ん張ってもその甲斐なく、凄まじい力によって押し流される恐怖。
たった今、ようやく開放されたそこへ、――それよりもっと深みへ自ら戻る。
……正直、とても怖いけれど。
ライラは、彼の前に手を差し出した。
「苦しんでいるひとを前に、見て見ぬふりなんて、私にはできないよ。だって、神様の教えに背いてしまうもの。あなたに血を差し出すことが、契約の代償なのだから、私はあなたに追加料金を支払わなきゃならないのよ。だって、最初の契約の条件を考えたら契約外とも言える事を、して貰うんだもの」
そっと、固く握り締められた彼の拳に触れる。――熱い。汗でじっとりと湿った肌から伝わる熱のあまりの熱さにライラは驚く。
「……私があなたと出会ってからまだわずか、契約を交わしてからはたった数日しか経っていないど。……でも、あなたは吸血鬼かもしれないけど、決して魔物じゃないと思うわ。あなたも、リーさんも、ベヒモスさんも」
何のために、リーがこんな事をしたのかは分からないけど。
「でも、何の考えもなしに、あなたを苦しめるようなこと、あのリーさんがするとは思えないの。……ねえ、それ、血を吸えば治るんでしょう?」
「――っ」
言葉を詰まらせた彼の応えを肯定と受け取り、ライラは彼の前に座った。
「だから。……私は、あなたの契約者だから」
チッ、と小さく舌打ちの音が、ライラの耳に届いた。
――その、次の瞬間には、先ほどとは逆の首筋に、覚えのある痛みが穿たれた。