リーの贈り物
「何……?」
アルフレートの顔は胡散臭いものを見るようにそれを見下ろした。その一方で、ライラは困ったように、その羊皮紙を見下ろした。
差し出されたそれを、戸惑いながら受け取るも、ライラは折りたたまれた紙を開けて見ようとはしなかった。
「あの……、私、字が読めないんです」
それを差し出したベヒモスにとも、アルフレートにとも、どちらへ向けたものか判然としない様子で、ライラは呟いた。
――まあ、当然だろう。
学問など、王侯貴族が嗜むもの。それ以外の一般庶民は、日々の仕事をするのに必要な知識を親や上役から叩き込まれる位で、まともに文字の読み書きができる者など、商人など限られた職業に携わる者くらいのものだろう。
それだって、あくまで仕事に出る男たちのもので、娘たちに求められるのは妻として、母親としての能力のみだ。
遊牧民族の村で生まれ育ったライラが、文字の読み書きなどできるはずがない。
だが、勿論リーだってそれくらい織り込み済みだろう。
アルフレートとしては、どう考えても歓迎できない類の内容なのに違いないと思える紙切れなど、見る前に燃やしてしまいたいというのが本音なのだが、他人宛の物を勝手に処分するのは褒められた行為ではない。
アルフレートは長々とため息を吐きだした後で、眉間のしわを深めながらも、ライラの手からそれを奪い、開いてみせた。
ライラは、不思議そうにその紙面を見つめた。
そこに書かれていたのは、文字ではなかった。
円形の図形の中に、よく分からない記号のようなものがいくつも配置された、緻密な絵――?
「こいつは、魔法陣だ。こんなもの、お前でなくても普通の人間には何だか分からんだろうな。……リーめ、俺をとことん試す気なのか」
不快そうに呟きながら、アルフレートは既に完治して傷跡すら綺麗になくなっていた指の腹に再び牙を立て、滲んだ血を紙に押し付けた。
すうっと、紙が彼の血を吸い込み、血の色が消える。その代わりというように描かれた図形の黒い線が、青白い燐光を放った。
ふわりと、そこから半透明の煙が立ち上り、それが徐々に集まりかたまり、形になる。
ふわふわと、宙に浮かぶ泡のように頼りなさそうな半ぶん透けた姿で現れたのは、ライラも見覚えのある女性の姿――リーが、楽しそうに笑みを浮かべながらじっと、アルフレートとライラを見比べた。
一方で、アルフレートはそれを苦々しげに見上げる。その横で、何故かベヒモスまでもつまらなそうに舌打ちをした。
「うふふ、ほーらね。だから言ったでしょ、ベヒモス? 賭けは、アタシの勝ち。と、いう訳で今回のお代はチャラよ」
「……賭け?」
アルフレートは顔をしかめて咎めるように低く呟いた。
「そう。アンタがこの手紙を読まずに燃やす方に、ベヒモスは賭けてたの。勝ったらうちの飲み代、一回いくらでもチャラって条件でね」
聖典では良くないとされているはずの賭け事の内容を、リーは悪びれる様子もなくあっけらかんと明かした。
「……それで、用件は?」
ひくりと、こめかみと口元を引きつらせながら、アルフレートは限界まで低めた声で促す。
じろりと彼女を睨む瞳には仄かな殺気が宿っている。
「用件? そりゃあ勿論……」
リーはいたずらっぽい笑みを深め、そっとライラに寄り添った。ふわりと腕を回してライラの身体を後ろから抱きしめる。――が、半透明の彼女の身体に実体の感触はなく、まるで冷たい空気に触れているようだ。
だが、暑くてたまらない昼の砂漠では、それが気持ちよく感じる。
「……で、首尾はどうだいお嬢ちゃん?」
リーは、こしょこしょとライラの耳元で囁いた。
「アイツと、何か進展はあったかい?」
興味津々、期待に満ちた眼差しでライラを見つめながら、彼女は尋ねた。
ライラは、慌てて首を横へ振る。
「ふぅん? ……まあ、相手がアイツじゃねえ。そう簡単にコトが運ぶとは思ってなかったけど。でも、これを燃やしもせず、わざわざ厄介だと分かっている魔法を発動させた。その上であーんな顔してるってことは……。うん、悪くないね」
リーはニヤリと悪そうな笑みを浮かべる。それを冷ややかなアルフレートの眼差しが射抜くが、彼女は一層笑みを深めて返す。
「……と。前置きはこのくらいにしておいて――本題に入ろう」
リーは意地の悪い笑みを浮かべたまま、ふわりとライラに絡みつけた腕を解いてライラの前に立ち、そっと両手を椀のようにしてライラの前に差し出した。
キラキラと、リーの両掌の上に光の粒がいくつも生まれては、集まり、かたまり、ひとつの球体を形作っていく。
キラキラと輝くそれを、リーはおもむろに片手でつまみ、ライラの口へと放り込んだ。
とたんに、甘酸っぱい果物のような味がふわりとライラの口内に広がった。
まるで空気を含んだように、それの質量を全く感じないのに、唾液がじわりと滲んでくるほどの美味だけが口内を支配する。
思わずライラは口の中に溢れる唾液とともにそれを飲み込んだ。
すると、僅かに爽やかな後味だけ残して、味がなくなる。
訳の分からないライラは手を唇に添え、目を白黒させた。
「……おい、リー。何をしている?」
アルフレートが、剣呑な声を上げる。――半透明の身体とはいえ、リーの背に邪魔されて、リーがライラに何をしたのか、彼にもよく分からなかったらしい。
「ふふ、“いいもの”をやっただけだよ」
ふわりと、彼女はライラを離れ、アルフレートに近づく。
「……あの娘を買った、都のお大尽様なんだけどね? あれから色々噂を聞き集めてみたら、どうもその筋ではとても有名な殿方らしい」
そして、ライラに聞こえないよう声を潜めて呟いた。
「有名?」
「そう。人身売買に関わる裏の連中にとっちゃ上得意の客なんだそうだ。年頃の娘とくれば、余程の醜女でない限り絶対に悪くない値で買い上げる、根っからの女好き。一国の王ですら目を剥くようなハレムにごまんと妾を囲って、毎夜のように女と褥を共にする、真性の助平親爺だって評判だそうだ」
リーのセリフが進むに従い、いつも不機嫌そうなアルフレートの顔から、スコンと表情が抜け落ちた。
「毎夜たった一人に与えられる主の寵愛の権利を、囲った娘たちに競わせて……。気に入りの娘には綺麗な衣や宝石でいくらでも着飾らせ、贅沢三昧させるけど、それ以外の大半の娘にはまともな食事さえ与えないらしい。……まさに、クズの中のクズみたいな野郎らしいよ」
もはや、完全なる無表情で押し黙ってしまったアルフレートに、リーは肩をすくめてみせる。
「果たして、アンタの愛しの姫君がどうしているか……。情報は何もないけど、……まあ、推して知るべし、だね」
無言のまま拳を握り締めるアルフレートに苦笑しながら、一言釘を指す。
「……こんなトコで、暴れるんじゃないよ。それよりも。……本当にアンタ、あの娘をそんな男にくれてやるのかい?」
リーの問いに、アルフレートは目を伏せた。
「……まあね、アタシはアンタみたいに頭良くないから、難しい事は良く分かんないけどさ」
リーは、そんなアルフレートを面白そうに眺めた。
「そんなにしっかと捕まえて離したくないものなら、大事にしなよ。うっかり手放したら、きっと後々ずっと後悔することになるよ」
リーとの会話の間中も、一度も離されることのなかった、手。それを見下ろし、リーは笑う。
「さて、この後どう転がるか……楽しみだね。ベヒモス、どうだい? 賭けないか?」
「やめておく。せっかく温まった懐を痛めたくはねぇからな」
首を横に振ったベヒモスに、つまらなそうにブーイングしながら、リーはほろほろと姿を崩し始めた。
「じゃ、幸運を祈ってるよ、アルフレート?」
何故か意味深な笑みを残し、リーの姿がその場から完全に消え失せた。
「――嬢ちゃん」
そこで初めて、ベヒモスが直接ライラに話しかけた。
「アイツと賭ける気にはならねぇが、確かにあんたは面白ぇ。俺からも一つ、いいもんをやろう」
と、何かを投げてよこした。
「……?」
見れば、白い小さな牙をトップにした革紐のペンダントだ。
「本当に必要な時、一度だけ、しばらくの間獣たちの声が聞こえるようになるってぇ代物だ。一度使ったら、それで終い。消えてなくなる」
「あ、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げたライラに、ベヒモスはニヤリと笑う。
「使いどころを間違うなよ」
ふと、いかつい男の外見に、象頭がダブって見えた。
そう、ベヒモスというのは聖典でも有名な魔物。
だが、リーもベヒモスも、決して悪いモノには見えない。少なくともライラには、あの賊たちの方が余程も悪鬼のように見える。
ましてや、この隣の男など。
そう言えば、リーの居た街から出て数日が経つ。
今日は、久しぶりに野宿ではなく宿屋での宿泊と相成るだろう。
――と、なれば……。