ライラの好きなもの
アルフレートは、あの日の光景を瞼の裏に浮かべ、眉間にしわを寄せた。
全て燃やされ、ぶすぶすと黒煙を燻らせる、変わり果てた村の有様。たまたま出ていて無事だったアルフレート一行を除き、村はあの日全滅した。
アルフレートは人間ではない。吸血鬼の力を以て対峙したなら、人間ごとき、どれほど束になってかかってこようと軽くいなせる。
だから、あの襲撃の日、村に居なかった事をずっと後悔し続けてきた。
だが、アルフレートが居なければ――出かけていた一行があの日村に居たならば。
本当に、村は全滅していただろう。
そして、同じ事が彼女の故郷でも起きた。
彼女にはもう、帰る場所がない。
――例え弟妹を質に取られていなくとも、なんの力も持たない少女が一人で生きる術など限られてくる。
それは、これから待ち受ける未来と大差ない現実。
無情な現実に、アルフレートは口を閉ざしたまま手綱を強く握り締めた。
やはりアルフレートにはライラにしてやれることなど無いという事か。
どれだけ齢を重ねた吸血鬼といえど、その手に掬えるものは人と変わらずたったひと握りだけで、広い世界から見ればほんのちっぽけなものしか守れない。
どんなに力を持っていても、手のひらからこぼれ落ちていくものまで救う術をアルフレートは持たない。
全てのものを救うなど、全能の神でもなければ不可能で。
しかし、それが可能な神はこの世界に直接手出しをする事は決してない。
この世界に満ちる不条理に、アルフレートは改めて己の無力を噛み締めた。
縋るもののない不安定な足元に、アルフレートは在りし日の記憶を仰いで天を見上げる。
一つきりの手で掬えるものは限られても、その手が多くあれば、掬えるものもまた増える。
かつての指輪の主に居た頃は、こんな不安を感じることはなかった。
ただひたすらに王に忠誠を誓い、彼のために忠実に仕事をこなしていればそれで充分に満たされていた。
再び指輪の主を得れば、きっとあの日々を取り戻せる。
指輪の主が望めば、彼女も救える。
ワルダだったらきっと。
辛い環境に放り込まれ、苦しんだ彼女ならばきっと、同じ境遇の少女たちをも救って欲しいと、アルフレートに願うだろう。
村での日々、彼女と共に過ごしたアルフレートは疑いもなくそう思った。
指輪の主の願いならば、アルフレートだけでない、全ての天使と多くの魔物たちが従う。
全能の神には及ばずとも、きっと救いは訪れる。
だからせめて、ライラの都までの旅路の平穏を守る決意を新たにし、アルフレートは鐙を蹴った。
ざくざくと砂を踏み、一定のリズムを刻みながら、砂漠を行く。
ライラは、相変わらず黙り込んだまま、静かに夜空を見上げ続ける。
――そう言えば、あの隊商に居た時にも、彼女はよくこんなふうに夜空を見上げていた。
「――星が、好きなのか?」
アルフレートは他意なくそう問いかけた。不思議そうに首をかしげるライラに、少し決まり悪そうな顔をしながらも、アルフレートはもう一度問いかけてみる。
「よく、空を見上げていただろう?」
他愛ない世間話。ライラは、静かに頷いた。
「広い空に、数え切れないほどたくさんの星が散らばっているのを見ていると、今自分が抱えている悩み事が、とてもちっぽけなものに思えてくるから。……それに、こんな所では他に見るものもないですから」
まだ少しぎこちない気はするが、それでもアルフレートが話しかければ、ライラは特に嫌な顔もせずきちんと答えを返してくる。
この年頃の娘だ。きっと、本来の彼女は無口なたちではないのだろう。
「――そうか。では、他にお前が好きなものは何だ?」
アルフレートは、さらに尋ねた。
「好きなもの、ですか?」
「ああ、そうだ。好きな食べ物は?」
「ううん、いろいろあるけど……豆を牛の乳で煮込んだスープは好きです」
「では、好きな色は?」
「色……?」
それまでの沈黙を無理矢理押しのけるように、次から次へ投げかけられる問い。
見るからに、アルフレートの表情はそれまでと大差ないように見え、少々不機嫌そうな仏頂面のままのその口から絶え間なく紡がれる問いに、ライラは戸惑いながらも答える。
特に答えに困るような質問ではなかったし、流石にライラもあの気まずい沈黙はそろそろ我慢の限界が近かったから、これ幸いとばかりに答えていく。
「……黒」
首を限界まで後ろに倒して背後のアルフレートの顔を見上げながら、ライラは答えた。
「黒?」
てっきり娘らしい淡い明るい色の名が返ってくるものとばかり思っていたアルフレートはその意外な返しに目を瞬いた。
すると、仄かに彼女の頬が赤く染まった。
アルフレートの身なりは――黒髪に黒い瞳。着衣も黒みの強い色調で整えられ、全身黒い。
思わず、といった様子で漏らした彼女は再び俯いた。
――あ〜あぁ、罪な男だねぇ、アンタも……
呆れたようなリーの声が耳の奥で聞こえた気がして。
アルフレートはその幻聴を払おうと首を振った。
全く、気の遠くなるほど永い時を生きてきて、こんなことで頭を悩ますなど初めてだ。
だから、他に方策も思いつかず、アルフレートは再び口を開いた。
「他には?」
アルフレートは尋ねる。
「他に、好きなものは?」
夜が明け、空が白み、東の地平線から太陽が顔を出すまでずっと、2人は馬上でひたすら質問を繰り返した。