ライラの事情
互いに同じような悩みを抱えているなどとは互いに気づかぬまま、ひたすら変わらぬ景色の中を淡々と進み続ける。
周囲の景色と同じか、もしかするとそれ以上に変わらない未消化なままのそれにいい加減うんざりしながらも、上手い対処法を思いつけず、内心焦りと苛立ちがだんだんと澱のように沈殿していく。
互いに殆ど会話もないまま、沈黙が空気を支配する。
――こんな風に会話もなく、沈黙が続くこと自体は、今に始まったことではない。あの契約を交わした日からあの町までの道のりでも、今と変わらぬ様子だったはず。
だが、その沈黙が今は何故か重く感じられ、あの時にはなかった微妙な気まずさが漂うのだ。
しかし、このような状況下にあっても、ライラは決してアルフレートに嫌悪の情を向けたりはしなかった。
契約を交わした際、試しだなどと称して吸血の振りをした――あの時点で逃げ出す輩は少なくない。
――留まった者でも、実際に血を吸われれば慌てて契約の破棄を申し出る輩も……また然り。
だが彼女は未だにそれを言い出さない。
無論、彼女一人で砂漠を越え都へ行くのは不可能だ。だから、やむなく契約を続けているだけとも考えられなくはないが……。
それにしては、ライラがアルフレートに向ける眼差しに嫌悪の情があまりに無さすぎる。探しても探しても、それを見つけることができないのだ。
これまで、彼の正体を知った者たちの目には、少なからず存在した、それ。――あのワルダの居た村の者たちですら、多かれ少なかれそれはあった。
唯一、それを持たなかったのが彼女――ワルダだった。
本当に、見れば見るほど、ライラとワルダという2人の少女はとてもよく似ていた。
そんな娘が、偶然にも同じ盗賊団に攫われ、同じ主人のもとへ買われたことは――果たして本当に偶然なのだろうか。
これは、何かの運命――神のお導きというやつなのだろうか?
今や神話で伝説と呼ばれる王に仕えたアルフレートも、神の真意など推し量れたためしがない。
だが、指輪を託された者として、それを無視することは出来ない。
天使も、悪魔をも自在に使役する指輪の力は、神から与えられし力。直接の裁定こそ全面的にアルフレートに委託されているとはいえ、そこは神の意をきちんと汲んでいることが前提になってくる。
それも含め、ワルダは申し分のない候補者であったはず。
だが、運命は彼女をアルフレートから引き離し、彼女を探すアルフレートとこうしてライラと出会わせた。そこに、神の意図が絡んでいるのだとしたら――。
改めて、ライラの脳天を見下ろした。
手綱を握るアルフレート両腕の中にすっぽり収まる、小さく華奢な体をした、ごくごく普通の少女のはずだ。少なくとも、見かけは。
そしてアルフレートにとってはずっと探し求めていた貴重な情報をもたらしてくれた娘で。
確かに、貴重な資質を持つ娘である事は認める。彼女に惹かれる魔物は、きっと多く居るだろうと、アルフレートも思う。
だが、それだけのはずだ。
(その、はずだが……。ああ、神よ、これがあなたの導きだと仰せならばせめて、俺が進むべき導をお示しください)
――異性に、男という生き物に馴れて、免疫をしっかり獲得させてやるべきだ
神へ恨み節混じりの祈りを捧げながら、アルフレートの脳裏にしつこく彼女の“導き”が木霊する。
何度も何度も否定し続けたそれ。
……だが、不思議に似通ったところのある2人の少女のうち、アルフレートはこれからその片方――ワルダだけを救い出し、彼女を同じ境遇の門前まで送り届け、ライラがその敷居の向こうへと足を踏み入れるのを黙って見ている事になるのだ。
アルフレートの、契約上の仕事は、ライラをそこまで無事に送り届ける事だけ、の、はずだが。
もしもそこにこそこの運命の鍵があるのだとしたら。
(俺は、彼女に何をしてやれる……?)
永い、永い時を生きてきた。ソロモン王の側近として仕えた頃から、今日まで、実に様々の物を見、様々な知識や技術を得てきた。
だが、そのどれもが今この状況にさしたる益をもたらなさないように思え、アルフレートは眉間にしわを寄せつつ思案する。
――彼女を、その未来から救う事自体はは、アルフレートにとってそう難しいことではない。だが、彼女一人を特別扱いする事はできず――だが、その一方でアルフレートはワルダを特別扱いして、彼女だけをそこから救おうとしている。
もしも、それこそが運命の鍵なのだとすれば。
(……だが、彼女自身はそれを望んではいない)
何故だろう。あのモハメドが傍に居たうちなら分からないでもないが、あの男は既に逃げ出しもう居ないというのに。
あの時点で、ライラには故郷へ戻るという選択肢もあったはずなのに、彼女は迷うことなく都への道を――過酷な未来を選択した。
「……お前は、何故都を目指す?」
正直、今更とも思える問いを、アルフレートはライラに投げかけた。
「お前が望むなら、俺はお前を故郷へ送り届けてやる事もできる」
アルフレートはその選択肢をはっきりとライラに示し、重ねて問いかける。
「……俺も、都に待ち人が居るのでな。まずは都へ向かわねばならない事情があるから、すぐにとは言えない。だが、その用事さえ済ませれば、お前を望む場所へ送り届けてやることができる。無論、相応の報酬はいただくが」
それを聞いたライラは一瞬期待するような眼差しをアルフレートに向けたが……すぐに目を伏せ、悲しげな表情で首を左右に振った。
「……何故だ? お前を待つ未来がどんなものかはお前も知っているだろう。なのに何故、過酷な――神の教えに背く罪を犯さざるを得ない未来を選ぼうとする?」
「私、一人なら。……私だけなら、きっととっくに逃げ出していました」
ライラは、声を震わせながら答えた。
「私の故郷が、あのオアシスを襲った盗賊に襲われたこと、前にお話しましたよね? その時、私は彼らに捕まって。……その後で私だけあの男――モハメドに連れ出されてしまいましたが……その前に捕らえられた中に、私の弟妹も居たのです」
耳に残る、恐ろしい声。
「私一人逃げ出したなら、弟妹たちがどうなるか……分かっているだろうと、そう脅されました。きっと、あの子たちも私と同じように、何処かへ売られるのでしょう。もしも私一人が逃げ出して、本来よりもっと酷い所へ売られたら……? それどころか……こ、殺されてしまったら……?」
その恐ろしい想像を振り払うように、ライラは目を閉じて首を振った。……その華奢な体が、小刻みに震えているのを、アルフレートは文字通り肌で感じ取る。
「だから、私はどうしても、旦那様のもとへ行かなければならないのです。嫌だけれど、……怖いけれど、でも……それ以上に、これ以上家族を失くすのはもう嫌なんです」
ライラは静かに言った。
「私にも、弟妹たちにも、私たちを助けに来てくれるような、そんなあてはもうない。……全部、あの人たちに奪われてしまったから。だからきっと、売られたら最後、私たちに逃れる術はない。……だけどせめて、あの子達が最悪よりは少しでもましな状況で生きていてくれたら、って……そう思って……だから……」
言葉を詰まらせ、泣くのを我慢しているような声で、ライラは言う。
「私だけ、逃げるわけにはいかないんです。……何よりもう、私に故郷は存在しないのだから」