気持ちの名前
いくらオアシスの町といえど、砂漠の真ん中に変わりはない場所で、生の野菜などまず望めはしない。干したり、塩漬けにしたりした野菜を戻して、スープなどに入れるだけでも、ここでは贅沢品のうちに入る。
この店ではそんな貴重な野菜を、たっぷりの肉とオリジナルブレンドのスパイスとで味付けした豪勢なスープを比較的良心的な値で客に提供する。
当然、これから本格的に暗くなると客も増え、酔客も多く訪れる。
そうなる前に街を離れるため、アルフレートはまだ客の居ない1階の酒場にライラを連れて降りた。
自分一人であれば食事など馬を駆りながら干し肉でもかじれば十分なのだが、頼りない少女を連れての旅路でそれはあまり望ましくない。
ましてや、たったいま自分が彼女から血を奪い、ただでさえ消耗していたはずのライラにさらなる消耗を強いた後だ。せめて栄養補給はしっかりさせなければ、過酷な砂漠の旅には耐えられまい。
「リー」
アルフレートはカウンターの中の彼女に声をかける。すると彼女は口の端に微妙な笑いを浮かべながら、つまらなそうにため息を吐いた。じっとこちらを眺める目は、先程ライラを抱えて部屋へ上がる際に、アルフレートの背を見送りながら投げかけてきたのと同じ、からかい混じりの色が見え隠れしている。
「あら、もう発つの? それとも……」
そして、アルフレートに向けていた瞳を背後に立つライラに移すと、つまらなそうだった彼女の微笑が一気に面白いものを見つけて興味津々な笑みに変わった。
「食事を頼む」
その彼女の笑みに、こめかみが引き攣るのを自覚しつつ、アルフレートは素っ気なく彼女に要求し、彼女の言葉を遮った。
彼女は「はぁい」と応え、それを奥の厨房へ告げると、カウンターを回り込み、ライラの隣の席に腰を下ろし、そっと彼女の耳元に唇を寄せ、そのまま口づけでもするのではというような距離で何かを囁くと――途端にライラの顔が真っ赤になった。
「おい、リー。ライラに余計なちょっかいを出すな」
何を言ったのか、ライラはそのまま顔を俯け、ふいとそっぽへ顔を背けた。
「やぁね、アンタのものだと知りながら、そう幾度も手を出す程身の程知らずじゃないよ。アタシはただ、ちょこっと尋ねただけ。アンタに聞いてもいいけど、彼女に聞く方が楽しそうだったからね」
にまにまと笑いながらライラの腕を取ってぴたりと彼女に寄り添いながら、リーは尋ねる。
「で、どうだった?」
「へ、え、あ、あの……」
言葉につまり、へどもどするライラの目が泳ぐ。
「だってアンタもう何処かへ嫁いでも良さそうな年頃なんだし、若い男と同じ寝室使って何もなかった、なんてことはまさか……ないでしょう?」
リーは優しげな微笑みを浮かべながら尋ねる。
「――あるわけないだろう。彼女は、俺の契約者だ。それも、彼女を無事に都へ送り届けるのが契約条件のな。それを、護衛対象を自ら襲う? 俺はそんな下衆じゃないぞ」
アルフレートが不機嫌そうに彼女を睨む。
「あらぁ、吸血鬼だって、男でしょうに。ホントお堅いんだから、つまんない男! ……でも、ライラちゃん、なぁんにもなかったっていう割には随分顔が赤いけど?」
ぷにぷにと、ライラの頬を人差し指でつつきながら、リーは意地の悪い笑みを浮かべた。狼狽えるライラを眺めたあとで、リーは笑みを深めながら改めてアルフレートを見やる。
「ほら、ね。何もなかった、って言ったって、これじゃあ説得力ゼロだよ。さあ、白状なさい。何があったの?」
アルフレートは逆に渋面を深めながらリーに答えた。
「別に、何もない。強いて言えば、契約の報酬を受け取ったが、それだけだ。彼女も、我ら同様神の教えに忠実な使徒の一人、無闇に異性と関わる事には慣れていないだけだろう」
だから、と彼はリーを睨む。
「あまり悪戯に彼女をからかってやるな」
「でもねえ……」
リーは、しかし彼の視線に怯むことなく、首を傾げてみせながら、ライラの体を抱きしめるかのようにしっかと彼女に寄り添った。
「こんな砂漠でこんな娘一人都へ行くなんて、……つまりはそういう事でしょ? 似たような境遇の娘が、この街にも大勢いる。……それが、神に背く行為であり罪だと知りながら、それを犯さざるを得ない娘達が、ね」
豊満な彼女の体は柔らかく、細いライラの体を包み込む。
「慣れないどころか無知なままの純粋培養の淑女で居るのは――神に忠実である美徳を守り続けることは……ただ辛いだけ。今のまま突然この世界に飛び込めば、きっと心が壊れてしまう。……こんな綺麗な魂が壊れてしまうだなんて、――魔物の私からすれば、そのほうが余程大罪に思えるよ」
だから、と、今度はリーがアルフレートを睨んだ。
「本当に彼女のためを思うのなら、今から、少しでもいい。異性に、男という生き物に馴れて、免疫をしっかり獲得させてやるべだと私は思う」
そして彼女はライラの耳元に囁く。
「ねえ、お嬢ちゃん、アンタ恋をしたことはある?」
ライラは彼女の問いに慌てて首を横へ振った。
「だろうねえ、その様子じゃ。……心に想い人を抱えながら他の男と夜を共にするのは、それは辛いものだけど」
彼女は潤んだ目を伏せ苦く微笑む。
「恋も、まともな男を知らないまま、つまらない男に囲われるのは苦しいよ? 狭い世界では、目の前の事実だけが全てになってしまうから」
だからね、と彼女は続ける。
「せっかくの機会だ。少し遊ぶくらい、神様だって大目に見てくれる。……だからね、自分の心に嘘を吐くことだけはしちゃいけない」
そう、ライラを諭した。
「ねえ、彼が何だか知っていて、それでもついて行くからには、少なくともアルフレートを嫌ってはいないだろう?」
そして、彼に聞かれないよう声を潜め、彼女はライラの耳元で囁いた。
「……あれは今、アンタから報酬を受け取ったと言った。……つまり、彼に血を吸われたんだろう? なら、さっきアタシがお嬢ちゃんの生気と引き換えにあげようと思ってた情報を、己の身を以て知ったはずだ。……で、どうだった?」
と、彼女は先程と同じ質問をもう一度ライラの耳元に囁きかけた。
「ど、どうだった……、って……」
もう、これ以上は赤くなれない位にまで頬を赤く染め、ライラは目尻に涙を浮かべる。
「うん、そういう反応をするってことは、少なくとも嫌だとは思わなかった、……そうだろう?」
ほぼ断定するように、彼女は重ねて問いかける。
「だってほら……こんなにも体が熱くなってるし、脈も随分と早い。……アルフレートのこと、気になっているんだろう? ――だったら」
リーは、一瞬それまで浮かべていた笑みを消し、真摯な顔でライラに囁く。
「素直になった方が良いよ。……少なくとも、自分の心に嘘をついて想いを閉じ込めてしまうよりは、思うままに振舞ってみたらいい」
そして、彼女は唐突に席を立った。――と、奥の厨房から声がかかる。
「リー!」
「はいはい、今行きますよ!」
彼女は、ポンと軽くライラの肩を叩きながら片目をつぶった。
「まあ、殆ど化石級の超堅物男だからね。色々面倒だろうけど、少なくともそこいらの男共に比べればまともな男だし、真面目だけは保証できるから」
言いながら、彼女はバシンとアルフレートの背を叩く。
「ブアイソだし、言葉は足りな過ぎるし、正直真面目しか取り柄のない男だけどね」
くすくす笑いながら、一度厨房へ姿を消し、次に両手に料理の皿を乗せた盆を持ち、踊るような足取りで戻ってくる。
その料理を卓の上に並べながら、リーは再び意地の悪い笑みを浮かべた。そして、先程ライラにしていたように、ぺとりとアルフレートの背後から彼に抱きついた。
豊かな胸が、グッと彼の背に押し付けられる様を目の当たりにし、ひくりとライラのこめかみと口の端が引きつった。
それを見て、リーはしてやったりとばかりににんまり笑う。
「……余計な世話だ。それと、離れろ」
一際迷惑そうな顔をしながら彼女を押しのけようとするアルフレートに、つい険しい眼差しを向けつつ内心ホッとしながら、ライラはリーの言葉を反芻する。
(――恋……?)
これは――この気持ちが恋、なのだろうか?
父や族長など、周りの大人が決めた相手との結婚が当たり前で、これまで恋など御伽噺の中の話でしかないと思っていた。
しかもこれから待ち受けている未来を思えば、なおさらそれは遠い、自分とはかけ離れた存在だと、そう思っていた。
(でも……)
――良いのだろうか。本当に、この気持ちを抱いていても。
不安げに俯くライラに、リーは満足げに笑いながら頷いてみせた。
「いいかい、この先どんなに辛いことがあっても、自分の心を偽ることだけはするんじゃないよ。どんなにその心を、感情を捨ててしまいたいと思う事があったとしても、だ」