運命の娘
「父上の――族長の決めたことだもの。族長の決定に、私のような小娘が口を挟めるわけないわ。……族長の決定は、絶対だもの」
俺で、俺なんかが相手で、お前は嫌じゃないのか、と、問うたとき。彼女はそう言いながら淡く微笑んだ。
「神を信じ、神の教えに従うならば、あなたが何者だろうと、私は気にしないわ。……ううん、私は、あなたが――」
彼女は、顔を赤らめながら語尾を濁し――。
「あなたこそ、私なんかで良いの? あなたは、一族の者ではないのだから、族長の決定に従う義務はないのよ? 私はお世辞にも美人じゃないし、私よりおしとやかで素敵な娘は他所を探せばきっといくらでも居る。……あなたなら、きっともっと良い相手を望めるでしょうに」
アルフレートの瞳に揺れる光からその心を推し量ろうと見上げてくる彼女の瞳は、月と星の明かりを受けて輝いている。どんな宝石よりも美しいと、アルフレートはそれに魅入られるようにじっと見つめながら、苦笑した。
「ワルダ。――知っているだろう、俺は人間ではなく吸血鬼なのだと。それも、幾千もの齢を重ねた化け物なのだと。その間、それこそ星の数ほどの人間を見てきた。当然、見目の良い女はいくらもいたが……、俺は、そんなものに惑わされたりなどしない。……俺は、吸血鬼だからな」
アルフレートは、苦笑を浮かべたまま、彼女の首筋――長い髪の生え際近くへ唇を寄せ、そっと口づけ……そのまま、ぷつりと肌に牙を埋めた。
「んっ……」
ワルダの喘ぎを耳元で受け止めながら、ぴちゃぴちゃと溢れた血を舐めた。
「見目の善し悪しなど、俺には何の価値もない」
ぺろりと、自分の唇を染めるワルダの血の赤を舐め取りながら欲に潤んだ瞳でワルダの瞳を捕らえる。
「それに――いくら気立てが良かろうが、裏ではろくでもない事を考える輩というのも、数え切れないほど見てきた」
彼女の頬に手のひらを添わせ、アルフレートは悲しげな笑みを浮かべ――再び穿った傷口に唇を寄せ、もう一度、今度は先ほどよりもさらに深く深く、牙を埋め、激しく血を啜り上げた。
「――っ!」
ワルダは、声を詰まらせ、息を呑む。
アルフレートが牙を抜き、荒く息を継ぐ。
ワルダの血の赤で汚れた口で、アルフレートは言った。
「地位も、財産も。人でない俺には、何の価値も見いだせない。――だが」
夜の闇の中、月明かりを背に彼は笑う。
「――永い孤独と絶望の闇から、俺の魂を救い上げた……お前のその魂こそが、俺の心を揺さぶったんだ。お前なんかで良いのかって? 冗談を言うな。――俺は、お前が良い。これまで独り、永い旅を続けて、ようやく見つけた俺の運命――」
「ワル……ダ……」
渇いた声が、喉の奥で絡まった。
強い西日の橙色に染まった窓辺の眩しい照り返しから目を庇い、手をかざしながら、彼はゆっくりと起き上がった。
ぼうっと、夢の残滓に浸りながら、もう一度その名を呟く。
「ワルダ……」
遊牧民一族の族長の娘。かの王から受けたそれを預けるに相応しい娘。アルフレートにとって希望であり、運命の娘。
ちりちりと、渇きにひりつく喉の感覚に眉を顰めつつ、アルフレートは隣の寝台で眠る少女に視線を向けた。
最後に、血を啜ったのはあの隊商の男に声をかけられたあの日よりもさらに数日前の事。そろそろあれから半月を過ぎようとしている今、流石にそろそろ限界も近い。
「ライラ……、夜の名を持つ娘……か」
彼女もまた、これまでアルフレートが見てきた多くの人間たちの中では珍しい部類に入る。
自らの命をつなぐための苦渋の選択なのだとしても、人間ではないとその目で見、実際吸血鬼であると告げられても尚、この自分と共に旅をすることを躊躇いなく受け入れた。
かと言って、魔物の誘惑に容易くなびく心の弱い人間、という訳でもないらしい。
事実、昨日はあのリーの誘惑を退けていた。――あれで、彼女もそれなりに齢を重ねた魔物だ。彼女の本気の誘惑に抗い切れる人間は、そう多くは居ないというのに。
必要にかられて結んだ契約にしても、きちんと真剣に受け止め、きちんとその責務を果たそうと努めているらしいことは、彼女の様子を見れば容易に知れる。
少し、遠慮しすぎなきらいはあるが……。それも、彼女の経験した過去を思えば無理もないだろうと思う。
盗賊に故郷が襲われただけでも、幼い少女にとっては十分衝撃的な出来事であっただろうに、故郷から無理やり連れ出され、あんな下衆な男に連れられ過酷な砂漠の旅を強要され――。その果てに待つのは、辛いばかりの未来。
普通に考えれば、とっくに心が壊れてしまっていても不思議ではないというのに。
彼女は、アルフレートが吸血鬼であると知っても、憚りなく喜怒哀楽の情を素直に表に出してくる。
渇く喉が、ごくりと鳴る。
あの時。契約を交わした直後に、試しと称して彼女に牙を立てる振りをした際――。彼女は、必死に怯えを押し隠していた。
このまま起こして、血を差し出せと彼女に言えば、ライラは素直に頷くだろう。だが、彼女はまた怯えを隠そうとするのだろうか。
子どもを無用に怯えさせるのは決してアルフレートの本意ではない、のだが……。
いかんせん、喉の渇きはもう誤魔化しの効かない段階に至ろうとしている。
しっかり食事を摂らせ、たっぷりと睡眠を与えた今なら、彼女の身体にかかる負担は少ないはずだが――。
彼女は、今やワルダに繋がる唯一の手がかりの糸でもある。ワルダを奪われてからこっち、久しぶりに得た居心地の良い居場所でもある。
成程、リーの言う通り、彼女もまた、ある意味では運命の娘なのかもしれない。
つらつらと一人そんな事を考えながら立ち尽くしていると、ふと寝台の上でライラが身じろいだ。
「ん……」
掠れた声が漏れ、ゆっくりとまぶたの下から現れた瞳がこちらを見た。
二度、三度と瞬きをした後――ライラは慌てたように跳ね起きた。
「お、おはようございます……・! あ、あの……、ごめんなさい、私、もしかして寝坊を……?」
じっと彼女を見下ろすアルフレートの様子にライラは恐る恐る尋ねた。
「いや。……俺も今起きたばかりだ。気にするな。まあ、そろそろ出発すべき時間帯ではあるが。――下で晩飯を食ったら、行くぞ。また、馬に乗ってもらわなきゃならないが……どうだ、身体の方は?」
アルフレートは緩く首を左右に振りながら、彼女に尋ね返した。
ライラは、アルフレートの問いに、ベッドから立ち上がりながらあちこち手で触れたり動かしたりしながら確認し……顔を僅かにしかめた。
「……まだ、少し痛いです。でも、このくらいなら我慢できますから」
ライラの答えに、アルフレートはため息を返す。
「……今は我慢できても、今日はまだこれからかなりの距離を馬で移動しなきゃならないんだ。当然、今より痛みは増すだろう? ――仕方ないな」
アルフレートはライラの額に手を当て、ライラの知らない難しい言葉を小さく呟いた。
――すると。どうだろう、彼の手のひらからじんわりと暖かい何かが身体全体に広がる感覚を覚えたと思ったら、ゆっくりと全身の痛みを溶かしてくではないか。
「……どうして。できないって、言っていたのに?」
「できない、と言ったつもりはない。正確には、これをやると余計に喉が渇くから控えていたんだ」
アルフレートは、渇いた喉から掠れた声で言った。
「ライラ。下へ降りる前に。――契約に従い、俺にお前の血を差し出せ」