夜の砂漠の二人旅
たとえ自分で手綱を握るのではなくとも、馬に揺られるというのは、意外と体力を消耗するものである。
賊の襲撃で既に心身共に疲れ切り、途中でうたた寝してしまった昨日はあまり意識しなかったが、日が落ち気温が下がり始めた時分からこっち、ただ静かなばかりの砂漠をひたすら馬に跨り歩く、というのはなかなかに全身の筋肉を余すことなく使う、なかなかハードな行為なのだと、ライラは初めて知った。
空を見上げれば、今日は雲一つない綺麗な星空が一面に広がっている。砂丘の他に視界を遮るもののない漆黒の夜空を彩る大小も明るさも色も様々な星々の共演は、なかなかに壮大だ。
ライラの耳に届くのは、馬の蹄が砂を蹴る音ばかりの今は、ちかちか瞬く星の音が聞こえそうなほどに静かだ。
砂漠の夜は冷えるが、馬の背で慣れない全身運動を余儀なくされた体はほくほく温もり、それを大きすぎる男物のマントで包み、それをさらにライラの後ろで手綱を操るアルフレートにまるで抱え込むように支えられるライラは、それを辛く感じる事はなかった。
――正直なことを言えば、先程からお尻が痛くてたまらないのだが、そんなつまらない事でこれ以上アルフレートのお荷物になりたくないライラは、じっと星空に見入りながらそれを頭の隅に追いやり、忘れようと試みていた……の、だが。
地図も、コンパスもなしに迷いなく馬を進めていたアルフレートが、不意にひとつの砂丘のふもとで馬の足を止めた。
すとん、と身軽に馬の背から降り、ライラに手を差し出した。その手を、ライラは不思議そうに眺める。――明らかに何もない、砂漠の真ん中で、いったい何を……?
そんな疑問を見抜いたのか、アルフレートは、元々不機嫌そうな顔をさらにしかめ、半眼になる。
「小休止だ。――降りろ」
相変わらず端的な指示。
……だが、まだ大した距離を歩いた訳ではないだろうに、良いのだろうか?
ふとそんな思いがライラの心を過ぎったが――。これまでの経験上、それを口にして返ってくる彼の答えは何となく想像がつく。
ライラは素直に指示に従い、その手に縋ったところで――ふと、固まった。
アルフレートにがっちり抱え込まれながら馬の背に跨っていただけの間は、ただ尻が痛いだけだと思っていたのに。――確かに、全身いたるところの筋肉を酷使していた自覚はあったけれど、ライラは蝶よ花よと育てられたお嬢様ではない。村で生活していた頃は、それなりに肉体労働だって当たり前にこなしていた。
なのに、ちょっと馬に揺られただけで、こんなに全身がちがちに固まって動けないだなんて――。
彼にとって、少なからず足手まといな存在だという自覚はあったけれど、ここまでとなると……流石に情けない気分になってくる。
アルフレートは、手を添えただけで動かなくなったライラを見上げながらぴくりと片眉をひそめると――小さくため息を吐いた。
「……お前、もしかしなくとも乗馬は初めてなんだな」
ほぼ断定しながらの問いに、ライラは小さく頷いた。
「……馬の世話なら、毎日欠かした事はありませんでした。……けど、馬に乗れるのは、大人の男だけと決まっていましたから」
恥ずかしさに目を伏せたライラに、アルフレートはもう一度ため息を吐いた。
「ならば仕方あるまい」
そして彼が淡々とそう口にしたその言葉に、ライラはびくりと身体を強ばらせた。
――砂漠の旅は、命懸けの旅だ。それは、どんなに慣れた者でも変わらない。
……さすがの彼も、ここまでのお荷物を一人で抱え込めないと判断したのだろうか……?
だが彼はライラの手を解くと、両腕をライラの腰に添え、ひょいっと身体を抱えて持ち上げ、軽々と馬の背から降ろし、地面へ立たせた。
馬の揺れに馴染んだライラの身体が揺れない大地の上でふらつくのを片腕で支えながら、アルフレートはもう片方の手でライラの頭を軽く小突いた。
「少しでも何か不都合があったなら、言え。下手な遠慮はかえって迷惑だ」
と、眉間にしわを寄せながら言った。
「……こんな砂漠の中を、お前みたいな小娘を連れて歩くと決めた時点で、ある程度の面倒は織り込み済みだ。……お前という荷物が増えた分、馬の負担も増えている。歩みの速度は当然落ちるし、休憩もよりこまめに取る必要にかられる程度のことは、当然想定済みなんだ。だから、下手に無理をして後で大事になる前に、何かあったら早く言え」
淡々とライラを諭す彼は、やはり不機嫌そうな顔のままだが、その声には確かに焦りや不安といった感情は全く感じられない――どころか自信と余裕がたっぷり含まれていた。
アルフレートはそのままライラの頭を上から押さえて座らせると、その膝に小さな革の包みをひとつ、落とした。
「まあ、残念ながら、魔力を使わずお前の痛みを取り除いてやることはできないが。……それでも、街までは我慢して貰わなきゃならないからな。取り敢えず食って休んで体力だけでも回復させとけ」
見れば、中身は水と、干し肉だ。凍えるほど寒い中を動いたライラの胃は、気づけば先程食べた分の食事などとっくに消化してしまい、すっかり空っぽだ。
ライラは、小さく頷いてから、素直にそれを頬張った。
……魔力を使えば、ライラの全身を苛む痛みを癒せる、と。アルフレートは言外に告げた。だが、魔力を使えばその分渇くのだとも、先程彼はライラに教えてくれた。その渇きを癒せるのは今はライラの血だけで、けれど今のライラではそれを払うには足りないのだと。
だけど、彼はきちんとライラと交わした約定を果たすためのあれこれを考えてくれている。ならば、ライラも彼と交わした約定をきちんと果たせるよう努力するべきだ。
――だってこれは、神にかけて誓った誓約なのだから。
ほんの少しの硬い干し肉を苦労してかじり、ようやく全てがライラの胃に収まった頃合を見計らい、アルフレートは再びライラに手を差し伸べた。
「さあ、行くぞ。……まあ、まだ尻は痛むだろうが、もうしばらく我慢しろ。代わり、と言うのも何だが町へ着いたら今日は宿屋の寝台で寝かせてやろう」
素っ気なく言いながら、片手一本でライラの体重を軽々持ち上げ、彼の前の定位置にがっちりと抱え込んだ。
「ついでに、しっかりした食事もだな。……俺も、そう長いこと渇きを抑えてはいられない」
彼の声の振動が、彼の胸からライラの後頭部に直接響く。
「しっかり食って寝たら――」
彼はあくまで淡々とそう口にした。
「――今度こそ、試しでなく本当に契約の代償を支払ってもらおう」