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狼の真実

 彼は、一つ大きなため息を吐いた後、その水たまりのようなオアシスのほとりにかがみ込み、革製の水筒の中身を捨て、新たに水を汲み直と、それを無造作にライラに突きつけた。

 それをどうしたら良いのか咄嗟に判断がつかずに狼狽えるライラに、彼は不機嫌そうな声で端的に命じた。

 「……飲め」

 ライラはおずおずとそれを受け取り、飲み口に口をつけた。汲みたての冷たい水が、喉を潤し、身体にすぅっと染み渡っていく。

 

 どうやら、自分で思っていた以上に渇いていたらしい。一口、口に含んで初めてそうと知ったライラは、夢中で水筒の中身を飲み干した。

 中身が空になって、ようやく一息ついたライラの横で、彼はもう一つの水筒に満たした水で腹部を汚す血を洗い流していた。

 

 改めて見てみても、その出血量は生半可なものではない。――にもかかわらず、綺麗に洗い流された腹はといえば、やはり傷跡一つない。

 

 だが、さっき見た限り、間違いなく短剣は彼の腹に埋まっていた。事実、放られたままの短剣の刃は血に染まり、彼の衣服にもその痕跡が確かにある。

 彼は、衣服に付着した血を洗い流そうと、しばらく悪戦苦闘していたが、短剣で裂かれた穴を苦々しげに眺めた後で、もう一度大きなため息を吐いた。

 濡れた服を放り出し、荷物から替えの服を取り出した。さして代わり映えのしないそれをさっさと着込む。

 

 その様子を見るに、ついさっき重傷を負わされたのだとは到底思えない。が、怪我をしたことは事実で。

 ……怪我をさせた張本人は、彼を“化け物”と恐れ逃げ出した。


 そう、今ライラの目の前にあるのは、常識的には有り得ない事。普通の人間では有り得ない事。――普通の人間ではない、つまり端的に言ってしまえば……


 「――逃げなくていいのか?」

 着衣を整え、剣を携え、身支度を終えた彼が、その様をじっと凝視し続けていたライラを振り返り、ぶっきらぼうに尋ねた。


 ……化け物。 


 「今なら、見逃してやるぞ」

 狼と称された男は、不機嫌そうな表情のまま、どかりとその場に腰を下ろし、がぶがぶと水筒の水をあおった。

 ライラはそのすぐ隣に腰を下ろした。

 「……逃げないのか」

 彼はライラを横目で見下ろす。

 「どこへ逃げるんですか、こんな砂漠の真ん中で。……私、まだ死にたくありません。自ら死を選ぶことは罪だって、コーランにも書いてあります」

 ライラはふくれっ面で答えた。

 「私は、生きて都へ行かきゃならないんです。都に居る、私を買った旦那様のもとへ行かなければ、家族が……」

 ライラはつい俯きたくなる気持ちを押し殺し、彼を見上げた。

 「あなたも、都に用事があるんでしょう? ……私を買った旦那様のところへ行くんでしょう?」

 不安を押し込め、静かに見下ろしてくる彼の目の色を窺う。

 「……だったら、お願い。一緒に連れて行って」


 ライラは、きゅっと拳を握りしめた。

 ――彼は、あの隊商に雇われていた護衛だ。……そして、彼を雇うような金をライラ一人で用意できる訳ない事も重々承知の上。

 けれど、今のライラには彼に縋る以外、生きてこの砂漠を越える術はないのだ。

 「生き延びることだけ考えろ、って。あなたが言ったんです。……だから」

 

 「では、対価は?」

 彼は、嘲るでも、憐れむでもなく、ただ淡々と、事務的な問いをライラに投げかけた。

 「――隣人に手を差し伸べよ。聖典には確かにそうあるが、現実は綺麗事ばかりでは回らない。俺が護衛の仕事を生業としたのは『赤竜の牙』の情報を集めるためだが、それで食っている以上、タダで引き受ける訳にはいかない」

 ある意味、予想通りの答えに、ライラは唇を噛み締める。

 今、ライラの手元には現金はおろか、金目の物など何一つない――どころか携帯食一つ持ち合わせていない。あるのは、身体一つと、辛うじてボロ着が一着のみ。今のライラに差し出せるものといえば……。


 「……私、を」

 服の裾を強く握り締め、こみ上げる羞恥を必死に飲み込み、小さく呟く。

 「私を、買ってください」

 

 盗賊に襲われ、都の豪商に買われた。……その時点で、ライラはその未来を嫌でも覚悟せざるを得なかった。

 コーランで、それは大罪とされる。

 その罪を背負う覚悟を、ライラはせざるを得なかったのだ。

 その、罪を犯す時期が、ほんの少し早まるだけ。

 

 だが、彼は不快そうに顔をしかめた。

 「俺は子ども相手に興奮する趣味はないぞ」

 ライラは、彼の答えに少しホッとしながらも、落胆を隠せない。他に対価にできるようなものを、ライラは持っていないのだから。

 「でも、悪魔シャイターンが欲しがる物って、どのお話でも人の魂か、処女じゃない。……今、魂をあげるわけにはいかないから、だから……」

 「俺は、悪魔じゃない」

 だが、彼はムッとして言い返した。

 「――俺は。……俺の名はアルフレート。……吸血鬼だ。そこいらの下等な悪魔(デーモン)と一緒にするな。俺は、そんなものに興味はない」

 吸血鬼。人の生き血を吸う魔物。彼がそれだというのなら、彼が欲するものも……?

 

 でも。彼は昨夜、確かに神に祈りを捧げていた。……魔物だというのに?

 「俺は、かつてソロモン王に仕えていた。かの王に忠誠を捧げると共に、神の教えに従うことを誓い、これまで生きてきた。故に、無闇に人を襲いはしない」

 その疑問を見透かしたように、彼は淡々と、ライラが思わず目を見張るほどの衝撃の告白をした。

 「ソロモン王って、あの……?」

 天使も悪魔も自在に使役したと言われる、伝説の王――。

 では、彼のあの、貴族を相手に商売をしている商人達ですら真似のできない磨き上げられた感のある優雅な仕草は、そんな伝説の王に仕えた時代の名残だと……?


 ライラは、改めてまじまじと彼の姿を眺める。――綺麗な人。ぶっきらぼうだけど、優しい人。……優しいけど、厳しい人。何かを得るためには必ず対価が必要。それは世の理だ。……働かざる者食うべからず。それも、確かに神の教えの一つ。

 

 「ああ、そうだ。……だが、いくら神の教えに従うことを誓ったとはいえ、俺が吸血鬼であることに変わりはない。命を繋ぐのに最低限必要な分の生き血を得るため、俺は人間と“契約”を結び、彼らの望む対価を支払い生きてきた」

 「……契約」


 「お前が、真に望むのであれば、俺と契約を結べ。都へ行き着くまでの旅の間、その血を対価として俺に差し出すと誓うのならば、俺はお前を無事都まで送り届けることを約束しよう」

 

 

 

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