前編
息子が今日、二歳になった。
ケーキに刺さり、メラメラと揺れるろうそくの火を、息子はじっと見つめている。
私と妻はお祝いの歌をうたう。けれど、息子はやっぱり、ろうそくの火をじっと見つめている。珍しいからかな。
歌が終わって、私たちがパチパチと拍手をする。息子は手を叩く音にハッとして、妻と私を交互に見る。
「ほら、ろうそく、ふぅーして。」
そう言って、妻はろうそくに軽く息を吹きかける。そして、息子がそれを真似する。
息子が行ったのは、「ふぅー」ではなくて、息を吹きかけるという行為であった。
息子が火をゆらすのを眺めながら、最も古い誕生日の記憶を掘り起こす。息子に比べて私は、ろうそくの火を消すことが苦手だったはずだ。両親のその「ふぅー」という音を真似ていたのだ。いくらやってもろうそくの火が消えなかったのを覚えている。最後にはぐずってしまい、両親が私に合わせて息を吹きかけてくれた覚えがある。
息子は三回目のチャレンジで、二本のろうそくの火をいっぺんに消してみせた。
息子の誕生日が終わろうとしている。
私たちは川の字になって横になっていた。息子は私と妻の間で気持ちよさそうに眠っている。
私は息子の寝顔を見ながら、不思議な感覚に包まれていた。
遠い日の記憶を思い出したのは久々だった。息子と同じか、それより少し成長したころの自分。ほとんど覚えていないが、『何をしたか』や『何があったか』ならわずかながら覚えている。しかし、『何を思ったか』は何一つ思い出せない。
妻にそのことを言うと、「小学生ぐらいの頃もそうじゃない?」と言われた。確かにそうだと思った。
「うーん。やっぱり、大人になってしまった私たちの最初のそういう記憶って、初恋の記憶よ。」
「どうして?」
「恋の感情は、人が成長する中で最後に見つける感情でしょう?だから、いろいろと忘れても、一番最後まで残ってる気がする。」
「なるほどね。」
意外にも論理的な理由だった。そう一瞬だけ思ってから、その論理が、ただの『論理っぽいもの』であるとも思った。けれど、それはあくまで彼女の『論』なのだと理解した。
「あ、また理屈っぽいこと考えたでしょう?」
私が考え込んでいるときの空気を、妻は正確に感じ取れるらしい。
「ねえ、そういえばあなたの初恋の話とか聞いたことなかったわね。」
私はすこしドキリとした。
「そうだね。」
「そうだね。じゃなくて、ほら、聞かせてよ。」
調子の上がってきた妻の声にも、息子は変わりなく一定のリズムで寝息をたてている。
初恋か。
一体どこまで遡れば、初めてのそれにぶつかるのだろう。いや、分かっている。なぜなら、先ほど『初恋』という言葉を聞いたとき、ドキリとしてしまったのだから。
「なあに?もしかして子供に聞かれたくないぐらい刺激的だった?」
私が息子の顔を見ていたからだろう。妻はいたずらっぽくそう聞いた。
「起こしてしまうんじゃないかって、少し心配だったんだ。」
「大丈夫よ。すごく穏やか。」
「うん。でも、確かに刺激的といえば刺激的かもしれない。」
「あら、意外ね。」
「君の思うような刺激ではないと推測されるけどね。」
「余計に気になるじゃない。」
「面白くないかもしれないけど、君がせがんだ話だ。文句をつけられても困るからね。」
「分かってるって。前置きはそれくらいでいいんじゃない?」
一呼吸する。
「僕が中学生の頃……そうだ、あの頃はまだ自分のことを僕と呼んでいたんだよ。」
三年生の春。始業式が終わって、教室でホームルームを受けていた。
新しいクラスには一度も話したことのない人ばかり。僕が人付き合いを得意としていないことを差し引いても、それはちょっと異常なくらいだった。
席は、男女が縦横共に交互になるよう並んでいた。僕は窓側の端の列だったから、横隣の女の子は一人で、その子とも一度も話したことはなかった。
黒板の廊下側に書かれた文字を見るふりをして、隣の女の子を視界にしっかりと収めた。
耳に小さな穴が空いていた。耳の穴じゃなくて、耳たぶに穴。
なんだか僕はしらけてしまって、窓の外、青い空を見ることにした。
それからしばらく、そのまま、頬杖をついてぼーっとしていた。
ハッと我に返ったときには、教室中から、紙のゆれる音や擦れる音が聞こえていた。何かプリントを配っていたわけだ。
まず、僕は自分の机にそれらが置かれているかを確認した。机の上には、マルバツゲームの落書きだけ。
バサバサッ
僕の斜め後ろから紙束の落ちる音がした。それだけでなく、僕のすぐ足元にも、それらが滑り込んでくるのが見えた。
「ちょっと、ぐーた。ちゃんとしてよ。」
「うん。ごめん。」
慣れたようなその謝罪が、ぐーたと呼ばれた彼の、僕が聞いた初めての声だった。
僕は足元のプリントを拾おうとした。だけどちょうどそのとき、前から自分の列の分がやってきた。
「あ、いいよ。あたしが拾うから。」
中途半端に下を覗く僕に、隣の女の子は気怠そうにそう言った。
「そう。」
僕は短く返事をして、前の席の女の子からプリントを受け取った。その女の子はプリントを渡すとき、顔はこちらに向けず、プリントを持った手だけをこちらによこす人のようだった。
自分の分を机の上に置いて、残りを後ろに回す。そのとき、僕はぐーた君の顔を見てみたくて、いつも以上にしっかりと後ろを向いてプリントを渡した。
彼の肌は色素が薄くて、全体的に肉の少ない印象だった。髪が真っ黒で……それは本当にびっくりするくらい真っ黒だったから、生白い顔の上にそれがあるのは、ちょっと普通の配色ではないなと失礼ながら思ってしまった。
彼は、僕の隣の女の子からプリントを受け取って、「ごめん。ありがとう。」と申し訳なさそうに、でも柔らかい笑顔で言った。女の子は、「ったく、ほんとぐーたはどんくせーな。」と、呆れたように言った。僕はそのやり取りから、案外二人は仲が良さそうだと思った。
僕と彼の目が合った。
彼の視線が、僕の足元から頭の上までを一瞬のうちに撫でていった。そして彼は、さきほど女の子に向けたのと同じ笑顔を僕にも向けた。僕もそれに似た表情を返したと思う。
僕は再び前を向いて、ホームルームが終わるのをぼんやりと待った。
「起立、礼。」
「「ありがとうございました。」」
日直は出席番号順になった。だから、一番廊下側の一番前の席にいる、青木さんが号令をかけた。窓際に座る僕の日直は、ずっと先の日だなと思った。
ガラガラという椅子を引きずる音が響き、クラスメイトたちは放課後特有の解放感ある声色でざわつき始めた。
僕はその空気が好きだった。いつも、20分ぐらいかな、教室がすっかり寂しくなってしまうまで席に座っていた。
「ねえ、君。同じクラスになったのは初めてだよね。」
僕の右腕に、何か細いものが当たっていた。
振り返ると、斜め後ろに座るぐーた君が、シャーペンのノックを僕の方に向けていた。
「あれ、そうじゃなかったかな?」
「いや、初めてだよ。」
彼は安堵の表情を浮かべた。
「ボクね、人の顔を覚えるのが苦手なんだよね。だからね、君の顔に見覚えがなくて、実際そうなのか、ボクの頭の方に問題があるのか、それが気になって尋ねてみたんだよ。」
彼は滑らかに、よく練習した自己紹介のように、そのような不思議な弁明をした。
「そういうことは僕にもよくあるよ。」
僕はそう言って、彼に笑いかけた。
「ボク、松本偶。ぐーたって呼ばれてる。」
「僕は渡辺幾多郎。下の名前で呼ばれることはあんまりないかな。」
僕らは互いの名前を珍しがった。
「以上が、僕と彼の初めての会話。」
「ぐーた。」
妻は彼のあだ名をつぶやいて、クスっと笑う。
「かわいらしい名前ね。ちょっと気の抜ける感じ。」
「うん。彼、頭はよかったんだけどね、名前の雰囲気どおり、ぼーっとしてることが多かったよ。」
夢でも見ているのだろうか。息子の小さな手が虚を握りこんで、そして放す。
「この子も名前やあだ名の通りに育っていくのかな。」
「そういう雰囲気の人だから、そういうあだ名で呼ばれてたんじゃないの?ぐーたっぽいから、ぐーたって呼ばれたってこと。」
大げさな言い方をすれば、それは逆転の発想というやつだった。
「ああ、そうか。うん、そうだ。なんで今まで気づかなかったんだろう。」
「おかしい人。ふふっ」
私はよほど間抜けな顔をしていたのだろう。妻の笑い方は、私の知る中でもかなりウケているときのそれだった。
若干の恥ずかしさをこらえて、妻の呼吸が落ち着くのを待つ。
「ふぅ……。そうだ、隣の女の子とぐーた君はどういう関係だったの?」
「それは話の本筋ではないから話してしまっても問題ないね。その女の子はぐーた君の従妹だったんだ。二人のお父さんが兄弟。一般的な名字の選択に則って、その子の名字も松本。」
「同い年で近くに住んでる従妹ね。きょうだいみたいなものかしら。」
「うーん。あくまで私から見た二人は、姉弟(二人の誕生日を知っているわけではないけど、なんとなくぐーた君の方が年下という雰囲気)ほど仲は悪くなくて、しかし姉弟ほど距離は近くない。そういう関係だったかな。」
「よく分からないわ。」
「そうだね。」
「まあいいわ。あなたと彼の話……でいいのよね?それを続けて。」
「分かった。」
三年生で最初の体育の授業だった。グラウンドで体力測定だった。
「準備運動!二人一組を作ってくれー。」
体育。僕はあまり好きじゃなかった。
僕は次々とペアになっていくクラスメイトたちを眺めていた。いや違う、少し違うな。いまにもペアになりそうな二人に近づいて、それでその二人がペアになったら、いかにも残念そうに離れていく。そんなことを2、3回繰り返していたんだ。
ちょっと離れたところに、ぐーた君が眠そうな顔で直立していた。
彼とは始業式の日以降、一度も話していなかった。だけどそれはクラスのほぼ全員に当てはまることだったし、どうせ余りもの同士でくっつくだろうと思ったから、僕は彼の方へ足を向けた。
だけど、一歩踏み出した、ちょうどそのとき
「えーっと、あとは……おっ、渡辺と松本!お前らペア作ってくれ。木村と鈴木!お前らも!」
先生の声で、ぐーた君が僕の方に顔を向けた。
「ん?いま何の時間?」
そんな彼の能天気さに、なんというか、僕は救われた気持ちになったと思う。
そうして僕らは互いの体を伸ばす作業に移った。
ああ、そういえば最近は、準備運動にはこういった静的ストレッチではなく動的ストレッチを行うね。まあそれはどうでもいい話だ。
「松本君、体柔らかいんだね。」
僕は、足を開いて座るぐーた君の背中を押しながらそう言った。
「うん。準備運動は得意なんだ。」
「ははは。準備運動は得意って、それ、なんか面白いね。」
「幾多郎君はどう?準備運動すき?」
幾多郎と、下の名前で呼ばれることは多くなかったから、僕はちょっと緊張した。
「体育自体あんまり好きじゃないかな。」
「ボクもそうなんだけどね。準備運動は別なんだ。特に幾多郎君、君の背中を押す力加減は最高だよ。」
「そう?よくわからないけど、それはよかった。」
「よければ、次回からもよろしくね。」
「うん。」
それは少しだけ、体育の時間が苦痛ではなくなった瞬間だった。
「あ、ボクのことはぐーたでいいから。」
「わかった。ぐーた君。」
彼はニコっと笑ってから立ち上がり、僕と役割を交代した。
ちなみに、彼の力加減はちょっと強すぎた。だからいつだったか、もう少し弱くしてほしいと要望したんだ。そうしたら、彼は自分の細い体では全力で押すぐらいが丁度いいと思っていたみたいで。そういうところが、彼の抜けてるところなんだな。
「体力測定していくぞー。そのペアのままでお互いに記録をつけてくれー。」
先生はそう言って、たくさんのバインダーを地面に置いた。その横には、たくさんの鉛筆が入った缶が置いてある。
「僕が取ってくるよ。」
「ありがとう。」
僕はズボンについた砂を払いながら、バインダーと鉛筆を取りに行った。
鉛筆が短いのしか残ってなかったのが残念だった。でも、三菱の濃い緑色のHBの鉛筆、あれだったから許した。
「あ、その鉛筆いいよね。」
「ぐーた君もこれ好きなんだ。」
「ペンケースに必ず二つ入れてるぐらいには好き。」
「へぇ、僕はそこまでじゃないけど、鉛筆の中だとこれが一番だと思う。」
「うんうん。」
ちょっとしたことだけど、誰かと好きなものが共通しているというのは、やっぱり嬉しい。
「静かにしろー。」
僕らは自分たちが注意されたのかと思って、二人とも少し強張った顔で先生の方を見た。
先生は、辺りをぐるっと見ながら言っているだけで、特定の誰かに言っているわけではなさそうだった。
僕はぐーた君とホッとした顔を見合わせた。同時に、おしゃべりしていたことには変わりないので、それはよくなかったなと反省もした。
静かになった後、先生は各ペアをいくつかのグループに分けた。それから、測定する種目の順番をグループごとに決めていった。
あれ、僕らはどんな順番だったかな。
順番がどうだったかは忘れてしまったけど、とにかく、ソフトボール投げがあった。一番初めの種目ではなかった。
「幾多郎君、体育嫌いだって言う割には運動できるんだね。」
ぐーた君が記録表の挟まれたバインダーを、鉛筆の削っていない方で叩いた。
「小学校では一応野球やってたんだ。」
「そうなんだ」
彼の驚いた顔はそのとき初めて見た。
僕は慌てて首を横に振る。
「全然、長くは続かなかったんだけどね。」
「でも、それくらいには野球や運動が好きだったわけだ。」
僕に否定することはできなかった。だから誤魔化すように、同じようなことを彼にも尋ねることにした。
「ぐーた君だって運動神経、悪くないと思うんだけど。」
「そうかな?特にスポーツの経験はないよ。」
彼はソフトボールを握って、「あ、でも」と何か思いだしたように続けた。
「緑部なんだ。だからね、暇なとき運動部の様子をよく観察するんだよ。それの効果があったのかなあ……あるといいなあ。」
緑部というのは、グラウンドの端にあった小さな菜園で、いちごやきゅうりなんかを育てる部活のこと。それが正式名称ではなかったと思うけど、みんなそう呼んでいた。
「あの部活、全員幽霊部員だと思ってた。」
「それだと菜園の世話は誰がしてるって言うのさ。」
笑いながらそう言って、彼はグラウンドの端に目をやる。その先の菜園は、遠目にも分かるぐらいに整えられている。
「まあほとんどボクなんだけどね。」
その顔はちょっと自慢げだった。
「あ、ボクらの番みたいだ。幾多郎君、向こうで記録をつけてくれる?」
「うん。」
僕はボールが投げられる方向に走って、20mのところでストップした。
彼の投げたボールは全部僕の頭上を越えていった。対して、僕の記録は15mぐらいが最大だった。
「だから野球はやめたんだよ。」
僕は恥ずかしさを隠すように、不貞腐れた顔で言った。
「投げる姿勢は綺麗だったけどなあ。」
普通なら皮肉に聞こえると思うけど、彼が言うと全くそんなことはないんだな。本当に羨むようなんだ。
「美術部とは違って、サボりはしなかったから。ああ、僕、一応美術部なんだ。ほとんど行くことはないけど。」
「そうなんだ。じゃあさ、幽霊ならさ、気が向いたら緑部覗いて行ってよ。」
「いいね。うん、わかった。」
「それから一月に一回ぐらいの頻度で緑部に行くようになった。」
「あなたの高校って、受験するのに部活の余裕なんてなかったんじゃない?」
「そうだね。だからサボりやすいって聞いた美術部だったんだよ。でもまあ月一回、放課後に友達と遊ぶぐらいどうってことないよ。」
「それもそうね。」
「彼の育てたもので一番おいしかったのは夏にもらったトマトだったなあ。」
「ミニトマトじゃなくて?トマトってなんとなく難易度高そうだけど。」
「店で売っているものよりは小さかったけど、普通のトマトだったね。ただ、君の言う通り、ぐーた君もミニトマトの方が作りやすいと言っていたと思う。」
「やっぱりそうなんだ。」
夏頃の彼を思い出す。
色の濃い彼は記憶にない。真っ赤になった彼は少し記憶にある。ああ、そうだ。
「彼、日焼けても肌が黒くなりにくい体質だったみたいでね。夏でも生白い顔だった。」
「あなたとは逆ね。外に出なくても夏はいつも黒いわ。」
「うん。私はそれが羨ましかったんだ。いや、肌の色の話は難しいね。白い色が良いという話ではないんだ。日本人であれば、私の活動量では生白い肌であることが多いから、なんというか、生活と体が一致しないような気分だったんだ。」
しっくりきているとは言い難い妻の顔に、この感覚はやっぱり伝わりづらいなと思った。
「ふーん。そんなこと思ってたんだ。」
「今はそうでもないかな。というより、ぐーた君にそのことを言ったら、逆に羨ましがられてね。それ以来、ただの気分の問題だって思うようになった。」
「私はあなたの肌の色、好きよ。」
「うん。ありがとう。」
私は少し照れくさくなって、次の話へ急ぐ。
「そうだな。期末試験、7月まで時間を飛ばそう。」
バリボリ……バリボリ
「形は歪だけど、味はおいしいね。それにみずみずしくて、今日は暑いからすごくいい。」
「もう一ついる?」
燃え尽きたヘビ花火みたいな形のきゅうり、ぐーた君がその根元にハサミを当てていた。
「うん。」
「りょうかい。」
彼は2本のきゅうりを収穫した。
「はい。もう一度言うけど、よく洗ってね。衛生面のことはあんまりよくわからないから。」
僕たちは手洗い場に並んで、きゅうりを洗った。
「去年はね、もっと形がよかったんだよ。本当だよ。」
「知ってるよ。なんとなく見たことがあって、確かに去年はもっとまっすぐだった。」
バリボリ
「でもやっぱりおいしいよ。」
僕は正直な感想を伝えた。彼はそれを聞いて、きゅうりをかじり、そして満足げに微笑んだ。
二人ともきゅうりを食べ終わった。別に汚れていないけど、なんとなく手を洗った。
「今度は味噌を持ってこよう。」
ぐーた君が手を叩き合わせてそう言った。そして「あっ」とつぶやき
「そういえばこれ、去年も思ったんだよなあ。でも結局持ってこなかったんだ。」
「ははは。ぐーた君らしいね。」
「まあ、そのままでもおいしいからね。忘れても仕方ないや。」
そういうことなのかなあ?と思った。彼はなんかこう、ずれているね。
僕はギラギラの太陽を見上げた。そのせいで、せっかくきゅうりが軽減してくれた暑さを再び激しく認識することになった。だから、蛇口を上に向けて、水を顔にビシャビシャと当てた。
「ほんと、暑いよね。」
顔を上げて、横を見ると、ぐーた君がグラウンドの方を見ていた。僕もそっちに目を向けた。
グラウンドには一面誰もおらず、静かだった。下駄箱から出てくる生徒はみんな、自転車小屋の方へ行ってしまった。
「人がいないとさ、暑さも、寒さも、みんな直接届くんだね。テスト前になると、ボクはいつもここでそれを思うんだ。」
「暑さは、地面で反射した日光が届きやすくなるから?寒さは風の通りがよくなるとか?」
「知的だねえ。」
「あ、そういうことじゃないか。」
彼だけじゃなくて、僕もまた、ちょっとずれているね。
「いやいや、結局はそういうことかもしれないけどね。」
彼はそう言ってから、僕と同じように、蛇口を上に向けて顔面を水につっこんだ。
「ぐーた君はテスト大丈夫なの?」
「うぶぶぶ~んぶ。」
「水のせいで何言ってるか分からないから。」
「ぷはっ。いやまだ、うーんって言っただけ。はぁ……ボクね、テストは苦手なんだ。」
「えっと、それは勉強が苦手ってこと?」
「それもまあ、あるんだけどね。それと時間かな。ボク、ぼーっとしてるから。」
ここで一つ、かねてよりクラスメイト達を見て羨ましいと思っていたことをやってみようと思った。
「僕でよければ勉強、手伝おうか?」
「ほんと!?それは助かるなあ。じゃあさ、今からさ、ボクの家でどうかな?」
それから三日間、僕はぐーた君の家で勉強会をすることになった。とは言っても、僕には塾やその課題の時間があったから、あまり長くはできなかった。それでも、17時を少し過ぎたぐらいまでは彼の家にいた。僕にしてはとても長い時間を友人の家で過ごしたと思う。
「幾多郎君は教えるのがうまいね。」
「うん?そんなことないと思うけど。というより、ぐーた君は時間がかかるだけで一人でも解けてるよね。」
彼はとても不思議そうに顔をかしげた。
「まあ、確かにそうかもね。でもね、幾多郎君の教え方がうまいのと、僕が一人でも解けるかどうかというのは、あまり関係ないように思うんだ。君の教え方は絶対的にうまいと思う。」
頭の中が照れくささでいっぱいになるより先に、僕の目は彼の参考書をとらえた。
「今の、『絶対的』って言葉が使いたかっただけじゃない?」
「ばれちゃった。」
彼は茶目っ気に富んだ表情で、ニッコリ笑った。
彼の鉛筆の先は、『絶対的』の意味を問う問題、その選択肢の上にあった。
「でもさ、君の教え方がうまいのは本当だよ。すごくわかりやすい。」
「うん。ありがとう。」
結局、照れからは逃れられなかった。
僕は素直に喜ぶということが、あまり上手ではなかったんだ。ああ、うん、わかってる。それはいまも同じだ。
開いていたページの最後の問題の答えを埋めた。それとほぼ同時に、ぐーた君が深く息を吐いた。
「あ、ぐーた君もキリのいいとこ?」
「うん。」
僕はちらりと、卓上の時計を見た。16時45分だった。
「ちょっと早いけど、今日はここまでにしようか。」
「うん。今度のテストはいつもより良い点がとれそう。助かったよ、ありがとう。」
「ううん、僕も楽しかったから。それに、大して何もしてないし。今日なんか特に、ぐーた君は国語が得意なんだよね、だから本当に自分の勉強だけだった。」
「あはは、確かに。そうだね、国語は得意かもしれない。」
そして彼はうつむいてしまった。彼の髪全体が見えた。そのとき、ふと違和感に襲われた。彼と初めて会話したときの、ちょっと気味の悪いくらいの黒さがそこにはなくて、ただの普通の黒い髪の毛だった。
彼は突然、勢いよく顔を上げた。
勇気の顔だった。今ならそう思う。
「ボクね、お話を書いてるんだ。」
「えっ。」
彼は僕から視線を外して、頭をかいた。
「だからね、つまりね、国語はボクがお話を書くのに必要なことで。その、将来そういうことになるかもしれないから、そういうわけで一番真面目に勉強してるんだよ。」
いつもより少し早口だった。彼はいつもゆったりと話すから、僕は珍しいものを見ている気分になって、つい反応するのを忘れていた。
「あ、うん、こんなことを言っても、どうすればいいかって話だね。そうだよね。」
「いや、違う違う。お話?小説ってことかな?うん!僕にはそういう夢というか、それ以前に趣味とかもないから、すごくいいと思う。羨ましいぐらい。」
彼の視線が再び僕を捉えた。
「ほんと?」
「うん。」
少し間をおいてから、彼は一つ小さく息を吐いた。
「あのさ、もしよければさ、時間があればでいいんだけど、ボクの書いたお話を読んでみてくれないかな。それでさ、感想を聞かせてほしいなあ、なんて思うんだけど。」
彼はまた、僕から視線を外した。
「うん。もちろん。」
今度はちゃんと、すぐに言葉を返そうと心掛けたよ。だから、彼ももう一度、僕と目を合わせてくれた。
「ありがとう!」