ろうばい
「暇だねえ。」
「暇ねえ。」
アパートの一室。二人でいるにはやや狭い空間で一組の男女が言葉を交わす。
「音楽でも流すかあ。」
寝ぼけた表情の男が、首の付け根あたりをポリポリと掻きながらけだるげに言う。
ん。とその発言を聞いた女は、ポータブルCDプレイヤーを足で男によこす。
「ハナは何聞きたい?」
「ヴェクサシオン。」
「んなもん持ってねえよ。ていうか持ってても聞きたかないよ。」
誰が演奏者を幻覚症状に陥れたような曲を聞きたがるんだ。一曲十数時間なんて馬鹿げている。
「ユキが聞きたいやつ聞けばいいじゃないの。」
「んじゃ、ジュ・トゥ・ヴー流そ。」
「サティからは離れないのね。」
かつて音楽界の異端児と称されたフランスの作曲家、エリック・サティが生み出した弾むような音色が、小さな部屋いっぱいに流れだす。
「ユキ。もっとボリューム上げてよ」
「え、ああ。まあいいのか」
一瞬ユキと呼ばれた男はご近所からの苦情を恐れたが、数か月前からとある事情により、その心配はいらなくなったことを思い出した。
「ユキ。背中が痒いわ。かいて頂戴。」
「壁にこすれよ。」
「なによそれ。やーよそんな貧乏くさい真似。」
「貧乏くさいの基準が独特すぎて伝わらないけど、わかったよ。後ろ向きな。」
ユキはしぶしぶといった様子で、ハナの方へと近寄る。
「んん、もうちょい右。もうちょい。」
「ここか?」
「ああ、行き過ぎもうちょい左。」
「ん?ここか?」
「うぅん、もうちょい上かな?」
「こことか?」
「うーん。あと少し左。」
「ここだろ。」
「あーんいまいち。」
面倒くさくなったユキはハナの背中全体を乱雑に掻いた。
「んあ”あ”~。ぎもぢいい~!」
ご満悦な表情をみせるハナを見て、ユキはやれやれと自分が元居た場所に座り込む。
ユキはぼうっと天井を眺め、考える。こういった時間をなんと形容するか。怠惰?虚無?怠慢?それとももっと愛すべきなにかだろうかと。思考して、逡巡して、結局たどり着くのは暇だという普遍的な事実であった。
「しりとりでもするか。ハナ。」
「ええ。いいわよ。」
暇な時間に耐えられなくなったユキが、音楽に合わせて体を揺らしているハナに向かって提案する。ハナは二つ返事で了承する。ノリのいい女である。
「じゃあ、私からね。リードオンリーメモリ」
「なにそれ。」
「内容にアクセスして読み取ることはできるけど書き換えはできない記憶装置のこと。」
「はあん。勉強になったわ。」
「ユキの番だよ。」
「ああ、えーっとね。林中に薪を売らず湖上に魚を鬻がず」
「なにそれ。」
「物が豊富にあるところでは、それを求めて争いは起こらないってことの例え。」
「ほおん。勉強になりますなあ。」
そんな調子で二時間ほどしりとりをして、まいったの声を上げたのはユキだった。
「これで340戦中165勝164敗11分けで私がリードね。」
「あぁ。クソ。なかなか勝ち越せんな。困ったときの『ず』攻めは効いたぜ。」
「せいぜい『ず』の語彙を増やしておくことね。」
ハナは片方の眉と口の端を持ち上げ、敗者を煽ることに特化した表情を見せつけてくるのだった。
ユキはそんな彼女を無視して、胸の少し下らへん、つまるところの胃のある位置に手を当て摩った。
「腹減ったな。」
「そうね。私もおなかと背中がくっつきそうよ。」
「カップ麺でも食うか。確か残り少なかったっけ。」
「ええ、そうよ。なんと残り一つよ。」
ハナはそう言うと、この部屋に残された最後のカップラーメンを蹴飛ばしてみせる。
「おい。お前のその足癖の悪さなんとかならんのか。」
「誰の足が臭えって?なんて失礼な男なのかしら。信じられないわ。」
「誰もお前の足が臭いなんて言ってないよ。あ・し・く・せ。お前の足のにおいはすうぃーとなもんだぐぱぁっ!」
華麗なるローリングソバットを顔面に叩き込まれた愚かな男は、後方の壁に背中を強く打ち付けたのであった。
「そして死んだのであった。」
「死んでねえよ!痛ぁ・・・。せっかく褒めてやったのになんてことしやがる。」
「あれで女性を褒めた気でいるなら、本当に死んだ方がいいと思うわ。」
言いながらハナは何でもないように魔法瓶からカップラーメンにお湯を入れる。
「器用なもんだな。」
己が頬をさすりながらユキがそんな感想を漏らす。
「1、2、3、4・・・・」
ハナが目を閉じて3分を数えだす。
邪魔するわけにもいかないので、その場に座り込み再び天井を眺める。
「・・・・178、179、180。」
先ほどまで瞑っていた瞼をぱちりと開く。そして目の前で天井を眺める男に向かってユキ。と呼びかけた。ユキはなんだよと言いたげな表情でこちらを見る。
「麗しきレディーにセクハラをはたらいた罪よ。食べさせなさい。」
あーん。と口を開けるハナを見て、ユキはやれやれと腰を浮かせた。
「火傷させたら、怒るわよ。」
「善処はするけど、熱いんだから少しは許せよ。」
「いいえ駄目よ。知らないの?私は猫舌なのよ。」
「面倒だな。どうしろっていうんだ。」
「それを言わせるの?やーね。だからあなたはいつまでたっても童貞なのよ。」
「それとこれとは関係ないんですけど!?」
ユキは大きく、それは大きくため息をついた。
「ちゃんとふうふうしてから食べさせなさいということよ。」
結局一口も分けてもらえなかったユキは、食料もといカップラーメンの調達に大型スーパーにやってきていた。
「別にお前がついてくる必要はなかったんだけどな。」
ユキの傍らにはちゃっかりとハナもいる。
「なによ。ユキが暇なように、私だって暇なのよ。私一人であんな牢獄みたいな部屋にいたら、退屈すぎて心の病に感染しちゃうわ。」
「牢獄とはご挨拶な奴だな・・・。って心の病って感染症だったの?」
「よく聞く話じゃない?鬱病の介護をしていた人が同じく鬱病になってしまうだなんてこと。ある意味では、心の病も感染症なのよ。」
そんなしてやったりみたいな顔されても。と思うユキであった。
「あ。」
「?どうしたハナ。」
何かを思い出したように、ハナはその場にしゃがみ込んだ。否、しゃがみ込みそして寝転がった。ツレが何をしているのかさっぱりわからずに当惑するしかないユキを無視して、ハナは寝転がったままその場でじたばたと暴れだす。
「いやあああああああ。これ買ってこれ買ってええええええん。うぱああああああああああ!!」
「え?え?何事?なにしてんの?あれ?心の病?俺も真似するべきなの?」
「韓国のり買ってええええん。うぴぱああああああああああああああ!!」
「韓国のり?!いやおいしいけど。そのテンションで強請るようなものではないだろう!?」
「買ってよおおおおおおおおあああああああん。うぴゃっぽぴいいいいいいいいい!!」
「どうでもいいけどお前の泣きわめき方独特すぎない?誰をモデルにしたらそうなるんだよ。」
「買ってよんほおおおおおおおおおおおお!!うぽぽぽぽぽぽぽぽおぽおおおおおおおおおおおおお!!」
「わかった!買うから!買うからその奇行をやめてくれ!なんだか解らないけれどいたたまれなくなってくる!」
ユキがそういうとピタリとハナは暴れるのを止め、その場に立ち上がった。
「ふぅ。一度はやってみたかったのよね。コレ。危うくやらずにスーパーから出るところだったわ。」
「願うなら一度だってやってほしくはなかったとだけ伝えておこう。」
驚きと混乱のあまり寿命が数日縮んだと思う。
「ほら阿呆なこと言ってないで、ここにカップラーメンがあるわ。何味にする?」
「一度くらい俺はお前をひっぱたいていいと思うんだ。そうだなぁ、最近は変わり種ばかり食ってたからなあ。そろそろ王道に返り咲いてもいいと思うんだよ。」
正直もうショートケーキ味はごめんだ。数日前に食べたが、想像を絶するほどの不味さだった。よく市販で出したと褒めてあげたくなるくらいの不味さだった。
「それじゃここら辺のなんてどうかしら。」
「ん。そうだな。」
ユキはハナが示したカップラーメン達とその他足りなくなっていた日用品などを(一応、韓国のりも)カートに入れ、スーパーを後にした。
帰り道の途中、公園を横切ろうとした時、少し後ろを歩いていたハナがユキを呼び止めた。
「ねえ、ユキ。私アレに乗りたいわ。」
ハナが顎をくいと動かし、ユキの視線を誘導する。その先にあったのは一枚の板が支柱に縄でつるされている遊具だった。
「ブランコ・・・か。んんー。危ないからよした方がいいぞ。」
「あら、なめられたものね。ユキが後ろから支えればいい話じゃない。」
「そんなお願いしといてなめるなって方が無理な話だろう。え?なに?俺がハナを抱っこしながらブランコ漕ぐの?ふつうに窮屈じゃねえか?」
「大丈夫。意外といけるものよ。」
「そんな食べたことない奴に人生初の虫料理食べさせる時みたいに言われてもなあ。」
まあ、ハナはかなり小柄だし、いけないこともないのか。
「少しだけだぞ。」
「やった。」
荷物を傍らに置いておいて、先ずユキがブランコの板に腰掛ける。その膝の上にハナがちょこんと座り込んだ。ユキはブランコのロープに腕を回し、少し無理をしてハナの胴を手で支える。
「言っとくけど、俺の上にお前が乗ってる以上大きくは漕げないからな。」
「ええ、わかってるわ。ゆっくりでいいの。漕いで頂戴。」
承知した。とユキが応じ、キィキィとブランコを揺らす。
先ほど出向いたスーパーが、ハナ曰く牢獄のような部屋から少し離れた位置にあったので、既に日が沈み始めていた。
「綺麗なものね。」
ハナが夕焼けに目を細めながら言う。
真っ赤な夕日が街全体を切ない光で包んでいる。街を撫でるように、心を締め付けるように、太陽が光のベールを連れて沈んでいく。
ゆっくり、ゆっくりと。
「このまどろみの時が永遠に続くのかしら。」
「今日はやけにセンチだな。どうした?」
ふう。とハナはため息を一つ。ハナはため息の似合う女だった。
「不安・・・なのよ、私。漠然とした不安に押しつぶされそうなのよ。強がってみせているけれど、私だって普通の女の子なの。優しくしてほしいと、珍しくそう思ってるのよ。」
「ふーん。そうかい。」
ユキは少しだけハナを支える手の力を強めた。
「お願い。もう少しだけ、もうほんの少しだけこのままでいさせて。」
ハナは祈るように、つぶやく。
すっかり暗くなってしまった。ユキは車輪をガタガタ言わせながらカートを押す。夜道を歩かせると危険なので、ハナにもカートの中に入ってもらった。ひび割れたアスファルトの上を転がしているので、ハナはあうあう言いながら乗っている。
「明日は何しようかなあ。」
「あうっ。・・・そうねえ。あうっ。二人きりでも楽しめる『はないちもんめ』の開発にでもいそしもうかしら。あうっ。」
「不毛どころのはなしじゃないな。」
二人は考える。明日の予定を。
暇に殺されないように。
ユキとハナは荒れた道を歩く。折れた電柱を、朽ちた車両を、崩れた民家を横切る。
死した人類を思い。残された、たった二人だけの人類として、両腕を失った少女と生殖能力を失った少年が明日を生きる意味を模索する。
今日も一日が終わる。