初めての課題
自室で過ごしていたら、居間から声がかかった。
先生が呼んでいる。やっと修行がはじまるのだ。
暇つぶしで組んでいた紐をしまいながら、「いま、行きます」と返事をした。
そうだ、ジュジュはどうしようか?
悩んだけれど、やっぱり置いていくことにした。外は寒い。よく眠っていることでもあるし、留守番しているほうがジュジュにはいいだろう。
手早く片づけをすませ、居間に顔を出して「これはいけない」とおどろいた。
先生は、外に行く支度をすっかり終えている。外套を羽織って、革袋までかかえているではないか。
いますぐにも出られる師父の姿を見て、踵を返しかけたとき、待ったとの声がかかった。
「サキよ。わしは、ちょっと出かけてくるぞ」
「え、出かける? 先生、修行はどうするのです?」
聞き返したら「それなんだがのう」と、歯切れの悪い返答が出てきた。
まさか。
まさかのまさか。
先生ったら、修行が面倒になって逃げようとしているのではなかろうか。
「先生、困ります! わたしは、修行がしたいって言ったじゃないですか!」
あせりのまま声をあげたら、部屋のほうから短い鳴き声が出た。
ジュジュと同時に首をすくめた師父は、こちらのあせりなど気にする風でもなく、おお、怖いのうと苦笑いしている。
「サキ。お前、外勤の高士になりたいと言ったな」
「言いました!」
「外勤の高士になるには、多重真円を描け、 "転送の陣" を習得している必要がある」
「それは知っています!」
だから、修行を――と、言いさしたのを、師父が手で制した。
「での、このふたつ以外にも、もうひとつ絶対とされる条件があるのを知っているか?」
「もうひとつ?」
そう、とうなずいたあと、師父が答えを口にした。
「三つ目の条件は、令師紋が入れられた、允許ローブを持っていることだの」
令師紋とは、各令師を象徴する特別な紋章のことである。
令師がまとうローブの背に入れられた紋章は、ひとつとして同じものがないという。
また、令師紋は、空白の地や里の運営への意見書。一人前となった弟子が、何らかの部隊や役職に着くときの推薦状などの、各書類にも入れられると聞いた覚えがある。
「弟子が着る、令師紋が入れられたローブ。これは二種類ある。里から巣立ち、師匠である令師の元で修行している旨を証す "修練ローブ" 。これは、令師の庇護下にあるという証明となる。もうひとつは、令師が修行を終えた弟子に与える "允許ローブ" 。相応の力を身につけ、高士になれると認めた者にのみ与えられるもの。いわば修了証明というやつだの」
修行期間を終えて里に帰れば、まず慧師との謁見がある。
そのときに "允許ローブ" を着用していれば、正式に里へ帰還したとみなされる。
「外勤の高士となるには、 "允許ローブ" が必須となる。高士のローブは "允許ローブ" の存在を確認してからわたされる。高士のローブがない者には任務が回ってこない。内勤の部隊に入ることはもちろん、外勤の高士となることはできんし、そもそも里に定住ができん。里に入れたとしても、夕暮れには、令師領へ帰ってこなければならない。そういう規則となっている」
つまり、 "修練ローブ" を着用中のものは、令師の管理下に置かれつづける。
里に帰還はできず、高士ともなれず、導士のままで過ごすことになってしまう……という話であるらしい。
「そして "允許ローブ" は、 "修練ローブ" と引き換えにわたされるもの。修行期間を終え、 "空白の地" の演習に参加してもよいと師父が認めれば、申請書を "空白の地" に提出する。演習開始に間に合うよう、申請期限という面倒なものも設けられておる。ふたつのローブは "空白の地" で造られているものだ。 "空白の地" は、基本的に慧師と令師しか入れんようになっているが。演習参加の際、 "允許ローブ" を着て、 "修練ローブ" を返却することで、導士は入島を許可される……なかなか、ややこしい話であろ?」
たしかにややこしい。
ややこしいが、とても大事な話だ。
こんな大事な話を、どうしてずっと黙っていたのだろう。そもそも "修練ローブ" だって、まだ手渡されていないではないか。
こちらに来てから初めてとなる詳しい説明は、もどかしさを抱かせるものだった。
じりじりとした感情をおさえこみ、息を整えて、できるだけ冷静な言葉を紡いでみる。
「修行中に着るという "修練ローブ" は、どこにあるのですか?」
「それなら、お前が来る前に届いておるぞ」
「ええっ、なんですって」
しかし、その努力はあっという間に意味がなくなった。
ローブは、自分がこちらに来る前に届いていた。それはつまり、先生の部屋に保管されているということにほかならない。
何としたことか。先生の部屋にあるなら、くしゃくしゃになっている可能性が高い。何だったら、あの変な色の謎汚れがついているおそれもある。
こういう話は、もっと早く……できれば初日のうちに聞いておきたかった。
大事な "修練ローブ" は、修行の前に洗わなければまずい状態かもしれない。一刻もはやく引き取ろうと、手を差しだしかけたとき、こちらの意図を見越したかのように師父が口を開いた。
「だが、いまのお前にわたすわけにはいかんな」
「――え?」
「ここ数日。お前の様子を見させてもらっていたが。修行をはじめるに当たって。つまり、弟子入りするに当たって、決定的に欠いているものがあるようだのう」
欠いているもの。
それは何だろう?
この十日間、先生は自分のことをずっと観察していたのか。何を見られていたんだろうと考えたら、ひやりとしたものが背に伝った。
弟子の心情など、意に介していないかのように。目の前に立つ師父は、後ろ髪を束ねていた髪を下ろし、手慣れた動きで結び直しはじめた。
「欠いているものって……」
さっきの強気はどこへ言ったか。
情けなさすらにじませた質問は、一切の容赦なく切り落とされた。
「いったい何だ――と、問うでないぞ。人から与えてもらった答えは、頭を素通りして身につかぬからな」
いつになくきびしい言葉をうけて、出しかけた言葉をぐっと飲みこんだ。
師父は、顎下まで伸びた前髪だけを、後頭部のあたりでくくり。ややずり落ちた額飾りをもどしてから、話をつづけた。
「正師と令師は、同じ師匠という枠にあれど、別種の存在だ。一年も満たない期間、仮親として立っている正師とは違い。令師との関係は、生涯にわたって結ばれるもの。師弟とひとことで言うがの。実際の関係は、言葉ほど簡単でも、薄っぺらくもない」
初めての師匠らしいお説教。突然の様変わりに、気持ちが追いついていけないでいる。
「真導士の戦いは、秘匿からはじまると座学で習ったの」
「は、はい」
真導士の戦いは、真術を展開するより前にはじまっている。
まだ春がのこる時期に習った、基礎中の基礎の話である。
「真導士にとって、己の力を明かし、研鑽の果てに編みあげた技を伝えるというのは、生半可な覚悟でできるものではない。令師の技ともなれば、なおのことだ」
しかとしたつながりがなければ、とてもではないが明かせない。
おのれの技を伝えるのは、手のうちを明かすも同然。その行為は、時として命の危機にもつながる。
真導士として、大事にすべき心得を、ごく軽い口調で語ったあと。師父は、こんなことを言い出した。
「わしは、用事がある。用事をすませている間、お前にひとつ課題を出そう」
「課題ですか」
「そう、課題だ。期限は……そうだの。何やら急ぎたがっているようだから、今日中としよう。課題の出来によって、お前を正式に弟子と認めるかどうかを決めるとする」
欠いているものを埋めるには、ちょうどいい課題だ――と、師父は自信ありげな笑みを浮かべた。
「今日のうちに、お前の力をたしかめさせてもらおう」
「力……」
「そう、力だ。全力と言い換えてもよい。いまの時点でのお前の全力を、わしに示してみよ。その力が、たしかにそうだとうなずけるものであり。課題に対する姿勢が、師弟となるに相応しいと納得できたなら、お前を弟子と認め、 "修練ローブ" をわたすとしようか」
先生は、そう言い切ってから、外套についた分厚いフードを深くかぶって、さらにつづけた。
力の形はどのようなものでもいい。
己で磨いたものでも。だれかの模倣でもかまわない。
「模倣も力だからの。独自のものであれ、借り物であれ。形を成せばそれも実力」
また、示し方も自由とする。
目の前で展開してもいいし、術具の形状にしてもいい。お前がもっとも適していると思う形であらわすように、と。
「あの……もし。もしも力と姿勢が、うなずけるものでなければ……?」
弱気から出た問い。
それを、師父は「そうだの」と引き受け。まったく剃る気配がない無精髭をなで回してから、ことさら明るい声でこのように答えた。
「そのときは、心ゆくまで湯治を楽しんでいくといい」
ひどく軽いその言葉のせいで。伝えるべきことも、聞くべきことも。何もかもを、一瞬で見失ってしまった。
「留守中は、どんな風に過ごしていてもいいぞ。しかしの、家にいるにしろ、外に出るにしろ、戸締まりと "お守り" はしておけ――ああ、それから。これは決まり文句だから言っておくが、決して "真導士の十戒" は忘れぬように」
では、言ってくるからの、と言いおいて。普段はぐうたらな師父は、颯爽と家を出ていってしまった。