記憶と混沌
何の音もしない、静寂の世界。
内陣を照らす松明の炎を見据え、まんじりともせずにいたら。いつの間にか、ニーザス神官と剣士が近くまできていた。
「あちらは礼拝堂でしょうか。内陣に荷物がありますね」
「……ああ。どうやら私の剣も、あそこにあるようだ」
「荷箱の上に、鍵束も。内省室の鍵でしょうかね」
ふたりは、自分が見ていたのと同じ場所を確認して、考えこむような様子を見せた。
そんなふたりのうしろから、いらついた様子の入れ墨男が、野太い声で文句を言いだした。
「むかつくなぁ、おい。目と鼻の先に鍵があるってのによ! どうにかあいつを引っ張れないか!」
「無謀だ。ここからでは道具がなければ届かない。それに……鉄格子から指一本でも出したら、魔獣が見逃してくれない」
言いながら、剣士が鉄格子を叩く。
たったの一度、ごく軽く叩いただけだというのに、魔獣たちは牙を剥いて鉄格子に飛びかかってきた。
魔獣たちの暴れっぷりを間近で目撃して、入れ墨男のいきおいが急激に落ちる。
「改宗する以外には、方法がないってことか……」
改宗という言葉を受けて、ニーザス神官が申し訳なさそうに肩を落とす。
「申し訳ありません。私は女神に背けない」
ともすれば、自責の深みにはまっていきそうな神官。
その肩を、剣士が叩いてなぐさめる。
「当然だ。澪尾神官は、神殿で宣誓を行っている。女神に背けば、命を失う」
「それじゃあ改宗は無理だな。まあ、オレは神も女神もわからねぇ。崇めろって言われても、崇めたフリくらいしかできやしねぇ」
この面子では、改宗などあり得ない。
結論づけたあと、話題は一度とおった場所に戻っていく。
「どうにか大志教をだますことは……」
お兄さんが提案すると、ニーザス神官が肩を下げたまま答えた。
「できないでしょうね」
「そうだな。志教連中ですら欺けなかった。そのうえ、大志教は志教よりも強力な術具を持っている。不可能と見るべきだ」
二度目の話題に、剣士が早々と結論を出す。
この窮地から、どうにか脱出できないか。
全員が頭をひねり、考え、対話をしている裏側で、自分だけがそこから外れていた。
(何かを間違えている)
絶対に間違えている。
その感覚が取れなくてもどかしい。
いまの自分ではだめだ。このまま会話に参加しても、またきっと間違えてしまう。
どこかにずれがある。このずれを直さなければ、いたずらに状況を悪化させつづけるだろう。
(でも、何を――?)
自分はどこがずれている?
いったい何が、間違いを生んでいるのだろう。
「やっぱ、あの転送が最後の好機だったんだ。あん時うまく逃げてりゃ、小僧も無事だったのによ、ちくしょうめが!」
「だから、あれはサミーが悪いわけじゃないって!」
再燃した怒りがふりかかってきても、自分の心に集中する。
いま、引っかかりがあった。そのときは気づかなかった小さな光が、記憶のどこかに落ちている。
これは、だれとの会話だったか?
手も足も出せない時間は、もどかしく、耐え難い。そういうとき――。
「もうやめておくれ!!」
入れ墨男とお兄さんが言い争っていると、ケン坊を抱きかかえたままのご主人が、大きな声で制止した。
「ちがう、あっしが……。あっしがいけなかった……。ああ、ケン。ごめんよ。おっとうがちゃんと止めなければいけなかった……。ごめんよ、ケン……」
涙声で子供にあやまり、抱きしめることしかできないでいるご主人。
苦しみの只中にいる親子を、だれもが黙って見守るしかできない。
咽び泣く父親の腕のなかから、弱々しい声がする。
「おっかぁ……痛いよぉ…………」
父にすがり、母を恋しがる声。
その声が耳に届くと、救えずに地下の牢獄に置き去りにしてきた子供たちの声が、頭で反響しはじめた。
「けっ……」
泣き声がしている。その声に励まされながら、考えに没頭した。しかし、考えれば考えるほど、どれが正解かがわからなくなる。
すべてを放棄してしまいたい。でも、そんなことは絶対にしたくない。
"お守り" をにぎりしめている手が、熱く汗ばんできていた。
(この気配……間違いない。内陣に行くことさえできれば。でも――)
つかんだままの気配と泣き声が、混沌の海と化した頭で、ぐるぐると回っている。
細い道を見つけては、横たわっている禁則にぶつかり。
ほかの道を見出しては、また禁則にあたる。
抜け道はどこにも見当たらない。
根本から考え直さなければ、この窮地から脱出することは不可能。でも、根本って何だろう?
考えるのは苦手だ。
苦手だけど、ここで白旗を上げたら終わり。
考えて、考えて。どうにもならなくて、心細さが増してくる。こういうときに思い出してしまうのは、思い出さないように心がけていた彼のこと。
頼りになるからと、寄りかかってばかりいた。彼が悩んでいたのは、解決の兆しすらなかったものばかりだったのに。
心細くなかったのだろうか?
いつまでも見出だせない答えに、焦れたりはしなかったのか?
そういえば、いつだったか聞いたことがあった。あのとき、たしかこう答えてくれたのではなかったか。
――考えつづけることだ。諦めなければ、いつかはどこかにたどり着く。だから俺は、考えるのをやめない。
諦めたくない一心で、動かしつづけていた思考が、混沌の海からひとつの言葉をひっぱりあげてきた。
すでになつかしさすら感じている声と言葉。それが、心に追い風を生む。
嘆きがひびく頭に、つぎつぎと記憶が浮かびあがり、弾けて混ざりはじめた。
家で。学舎で。都で。町で。
いつかだれかが語った言葉が、混沌の海に入っては、流れを加速させていく。
渦を巻きながら流れる、泣き声と記憶たち。頭の混沌が極まったそのとき、探していた言葉が光を帯びながら飛び出してきた。
やりたいこと、すべきこと、選ぶべきことがわからない。
そんな時は、自分が絶対にゆずれないことを追えばいい――。
思いがけないほど近くにあったそれ。
まだ新鮮なその音を追いかけてつかまえ、思考のなかに取り入れる。
(わたしにとって、絶対にゆずれない――ゆずりたくないこと)
それは何だ?
本当に。絶対にゆずりたくないもの。それはどれだった?
禁則。約束。願い。
わたしの心は――本当と呼べる心は、何を求めているのか。
自分自身に問いかけ、きつく目をつむった。
ぎゅっと閉じたまぶたの裏に、ちかちかとした光が見えている。
まぶたの裏に出た光は、師父の髪色によく似ていた。
光に記憶が刺激を受けたのだろう。とても傭兵だったとは思えないゆるやかな声が、つと思い出された。
――いらんものを重ねすぎて、何やら窮屈そうに見えるがの。