ぐうたらな令師
やってきた令師領は、雪が深く積もることで有名な土地だった。
ドルトラント北西にある、国境沿いの領地――ヴァンサン領。
ヴァンサン領は、そのほとんどが山でできている。
冬には雪がふりつもり。山頂に近づけば、さらに雪深く、凍えるような寒さとなる。
山奥の朝は、冷えこみがきびしい。
家のすぐ裏に、小さいながらも温泉が湧いていて、お湯の川も流れている。そんな環境であっても、寝床から出るには勇気がいるし、外に出るには覚悟がいる。
一歩家の外に出れば、きんとした寒さが容赦なく襲ってくるのだ。外の仕事は、気合を入れないと取りかかることすら難しい。
居間へとつづく扉を開けば、飾り付けていた鈴が、ちりんちりんと鳴った。
こちらに来てからというもの、生活音が少なくて、どうしようもないさみしさを感じている。
山奥にぽつんと建っている家に、周囲からの音が届くことはない。腰のあたりまで積もっている雪は、木々や動物が出すわずかな音を、律儀に吸いこんでしまう。そのせいで、辺りは常にしんとしている。
わいわいと賑やかだった里と比べて、あまりに静かで落ちつかず。ネグリア土産でもらっていた鈴を扉につけて、日々の慰めにしている。
自室として割り当てられた部屋から出れば、目の前が居間だ。
居間を挟んで向かい側に、ふたつの扉がある。
左側は、師父の居室につながっている。日中は、ほとんど開くことがない。
いっぽう右側の扉は、いつも開け放たれている。そこは師父の作業場であり、仕事道具の倉庫であり、売り場でもある……らしい。
「らしい」で止まってしまうのも仕方ない。何しろ、ここに来てから一度もお客さんが来ていないのだ。いちおう商品は置いてあるけれど、こんな風で商売になるのだろうか?
令師の暮らしぶりは、まさしく千差万別。
栄えた町に、堂々と屋敷をかまえている者もいる。人里離れた場所に、家を建てている者もいる。
自分の師父は後者である。
とくに人嫌いな風でもないのに、どうして山奥なのかと聞いたら、「周囲に気づく者がいなければ、真術が使い放題だからの」という、すぼらな返答がきた。わが師父は、たいそうななまけ者なのである。
ここに来る前は、令師と会うことに緊張していたのに……ちょっと損した気分だ。
家には、来客用の部屋がひとつと、炊事場。それから、炊事場から入れる食料庫もついている。
山には、ほかに家がない。
買い物をするには、山を下りて、けっこうな距離を歩いていくのだ。そんな環境のため、食料は秋のうちに買いこんでいるのだとか。
弟子としてあたえられた仕事は、炊事、掃除、洗濯。
内容は、いままでやってきたことと大差なかった。なので、とくに戸惑うこともなく。それから、師父のありようも相まって、とても気の抜けた毎日を送っている。
野菜をきざみ、お湯を沸かしていると、扉を開くにぶい音が聞こえてきた。
「先生、おはようございます」
自分の挨拶から一拍おいて、まだ眠さを残した声が耳に届く。
「おはよう。今日も朝から精が出るのう」
「精を出さないと朝ごはんが食べられません。……食べたらすぐに洗濯しますから、汚れ物は全部出しておいてくださいね」
「ん、わかったわかった」
「全部ですよ? 早めにお願いしますね」
「わかったと言っておるだろ」
「……だって、昨日は洗い終わってから足布が出てきましたもの」
洗濯板もたらいもすっかり片づけてから、どろどろに汚れた足布を出してきて……困りものである。
うらみをこめて、ちくりと刺したのに。わが師父は「そうだったかのう?」と、どこ吹く風だ。
まだまだ若そうに見えるけど、先生ったら、じつはかなりお年を召しているのかもしれない。
真導士は、見た目と年齢が釣り合わない存在だ。
十代、二十代までは、年相応の見た目でいられる。しかし、それ以降になると、年の取り方が民とは違うようになっていく。
気力と真力は、身体の加齢と密接につながっている。真術に親しめば親しむほど、見た目のうえでは年を取らなくなる。
すぼらで適当としか思えない人であっても、いちおうは令師。真導士としての位は、非常に高い。
優れた真導士とは思えない性格でも、実際はすごいはず。……そうでないと、弟子入りした側としても困ってしまう。
故郷である "第三の地 サガノトス" から巣立ち。道なき雪道を延々と歩いて、ようやく会えた師父――ヒイラギ令師は、たいそう雑で適当な人である。
見た目だけなら三十代。髪は白銅、瞳は錫色。
背丈もあり、体格もしっかりしている。とくに肩周り、腕周りはがっしりしていた。剣のあつかいに長けているようで、家のなかでも愛剣をたずさえている。
聞けば、真導士となる前は、国境で兵士見習いをやっていたらしい。
その時期についたものか。師父の顔――右のまぶたから頬のなかほどにかけて、大きな傷跡がある。
剣術の心得があるからだろう。売っているとも思えない商品は、すべて刀剣類。ごくたまに作業場で手入れをしているから、知識や技術は持ち合わせている様子。
真導士にとって、生涯の師匠となるのが令師である。
もちろん、正師も師匠のうちに入る。けれども、あちらはやはり「雛に対しての親」という存在。そのため、真導士の師匠といえば、一般的に令師を指す。
令師は、中立と孤高の象徴とされる真導士の里―― "空白の地 セレンピア" に所属しており。各里のしばりも、四大国のどの国のしばりも一切うけない、じつに特別な存在だ。
令師に命令を下せるのは、この世でただのひとり。 "空白の地" を治めている慧師のみ。
それ以外の里や慧師、国からの命令では決して動かないため、令師のことを "小慧師" と呼ぶ人もいる。
里を出るときには、「どんな人だろう」とか。「怖い人だったらどうしよう」なんて思っていたのに……。
会ってみて拍子抜けした。
師父との暮らしは、ゆるいとしか表現できないもの。緊張感は皆無である。
朝起きて、朝食をつくり。
部屋の掃除、洗濯をして、昼食をつくり。
日が出ているうちに、家の外の掃除をして、夕食をつくり。温泉に入って、身支度を整えたら寝る。
それだけ。
まさしくそれだけだった。
これをゆるいといわず、何という、である。
修行地に来てからというもの。試練も災難も厄災も、何ひとつ感じずに日々を過ごしている。そしてこの平穏過ぎる日々が、いまのところ一番の大問題でもあるのだ。
朝食ができあがったので、居間の中央にある大きな卓まで運んでいく。
古道具屋で安売りしていたという無骨な卓は、六人がけにしても十分余裕があるほどの大きさだ。ひとり暮らしなのに、何でこんな大きな卓を選んだのか。これもまた謎である。
卓や年齢以外にも、師父にまつわる事柄には謎が多い。
まず出身地。
ドルトラント王国であることだけはたしか。けれど、領地や町村名までは判然としない。
生家には子供が多く。食い扶持を減らさないと、どうにもならなかった。
だから、国境の兵士を目指した。それ以来、一度も帰っていないし、あっちも帰ってくると思っていない。そもそも定住していなかったので、家族がどこにいるかわからず、いまさら帰りようがないらしい。
つぎに系統。
真導士には、かならず系統がある。
自分は天水だ。天水の修行をするなら、天水の師匠が一番いいと思っていた。しかしながら、いまだに師父の系統を教えてもらっていない。
家には、真術で構築されているものや術具、それに輝尚石もある。ところが、それらにはことごとく "隠匿の陣" が籠められていた。
自分は隠匿を追える。下にある真術は、強く籠められているものであれば、種類を判別することも可能だ。
けれど、家にある真術は、そこに在るとまでしか読めない。高度な "隠匿の陣" は、下に敷かれている真術が展開している最中も、真円や光が視えないようになっている。そのせいで、いまも師父の系統は不明のままである。
そのふたつよりも、さらに謎なのは――。
「…………先生。どうしてそんなに泥だらけなのですか?」
「うん?」
いかにもおざなりな返事をした師父は、寝ぼけ眼をこすりながら、自身の姿をながめまわす。そんな師父に合わせ、あまりにひどい有様を、上から下までじっくりと再確認した。
その姿は、まるで農作業をしたあとのよう。
いや、それよりももっとひどい。まるで戦場を駆け回ってきたかのようだ。
服のみならず、髪も顔も泥まみれの苔まみれ。
なかでも靴は最悪だ。泥と苔の間に、発色のよいぐちゅぐちゅとした赤い何かがこびりついている。
こんな靴で、部屋を歩きまわられてはたまらない。
可能なかぎり眉をしかめ、いますぐに着替えてほしいと伝える。
そうしたら、へらへらとした力のない笑いが返ってきた。
「お前、なかなか口うるさい奴だのう」
「どうとでも言っていいですから、早く脱いできてください。毎日これでは、いくら掃除しても切りがありませんっ!」
もう我慢の限界である。
毎朝毎朝、どうしてそんなに汚れているのか。
夜、寝る前まではそれなりの格好だったのに。いったい、わが師父はどこで何をしているのだろう?
家が建つこの山も、周囲の山々も、すっかり雪で埋もれている。泥を見かけることなんて、まったくない。はっきり言って、この有様は謎どころの騒ぎではない。
またも適当な返事を出した師父は、のたのたと部屋に引っこみ、しわだらけの薄い生地の服をひっかけて戻ってきた。
……ああ。あの服も、適当に丸めてしまっていたものに違いない。
本当に困った人だと肩を落とし、朝食の準備を再開する。
「先生、せめてボタンを全部締めてはどうですか? いい加減、風邪をひきますよ」
「いいや。わしには、これがちょうどいいのだ。むしろ、お前は暑くないのか? 暖炉に火も入れておるのに、何枚も何枚も服を重ねて。それでは身動きがしづらく見えるの」
シャツのボタンを半分しか締めていない人に、服装についてとやかく言われたくはない。
「わたしには、これくらいが心地いいんです」と言い返し、ついでに届いたばかりの新報書を手渡した。
新報書は、真導士の世界における呼び売りのようなもの。新しい情報が載っているので、新聞と呼ぶ人もいる。
里では、高士のための新報書が配布されていた。
人事異動に関わる情報。里抜けや片生についての情報。それから、国側の大きな変化や事件についても書かれていた。
いま先生に手渡したのは、令師用の新報書。
分厚さはかなりのもので、高士用の三倍はある。高士用の新報書に加え、空白の地や、ほかの国についても記載されているためだとか。
……正直、あんなに細かい文字は読む気になれない。
ドルトラント国内の情報だけなら、暇なときに読んでもいいと言われたけれど、まだ一度も目を通していない。
「息苦しそうだがのう」
「大丈夫です。それに、男性のふりをするなら着込んでいるほうが安心ですもの。あまり薄着をすると、体つきが違うのがわかってしまいますから」
「いちおう、幻視がかかっているがの?」
「すごく変な風に視えましたけど」
「それは、お前が真導士だから違和感があるだけだ」
「そうなんですか?」
「その腰布を巻いているうちは、男の体型にしか見えんようになっている。ま、男の格好だからといって、警戒心を失くさんようにしておけ」
そう言って、師父は新報書を広げて、目を通しはじめる。
「男性の姿なら安全では?」
師父の物言いが、変に気になった。
この家の近くには、集落自体が少ない。町と呼べる規模のものは、それこそキテナクスだけだ。
キテナクスは、国の主要な街道から逸れた町ではあるものの、神殿が建てられており、転送の祠を所有している。
行商人の行き来も盛んで、自治のために領兵が、多数派遣されてきている。
娘ひとりが出歩くならまだしも。男がひとりで出歩くのが、そこまで危険とは思えないけれど――。
「何やら近辺の領地で、男の行方不明がつづいておるようだぞ」
「男の行方不明?」
ほれ、と卓に広げられた新報書には、たしかに「行方不明者」という文字が記載されていた。
「めずらしいですね。誘拐されるのは女性ばかりかと……」
「たしかにめずらしいの。めずらしいが、まったく無いとも言えん。子供は、性別問わず狙われるものだ。それに力仕事をさせるなら、男手が必要になる。あんまり気を抜いていると痛い目を見る」
はいと返事をしつつ、斜め下の記事に視線を移した。そこには「術具の紛失」という記載があり、場所と真術の名前が並べられている。
場所は王都、聖都、街道が多い。でも、少ないながらヴァンサン領の地名も載っている。
地名の横には、癒しや守護、浄化など、大きな害がない真術の名称が連なっている。こういったものは、行商人を狙った賊が盗んでいくことが多いと習った。
被害の数は、かなりある。
しかし、それを真導士が追う機会はほぼない。物盗りを追うのは、国側の役目と決められている。
強い真術が籠められた術具が奪われたり。自治をゆるがす大きな事件が発生すれば、付近に住む高士や令師に声がかかるという。
師父が出るなら、自分も随伴することになるだろう。
危険や目立つ行動は避けるよう、慧師からも正師からも厳命されている。できるだけ事件は起こらないほうがいい。
行方不明者については、各領地で調査中とあった。小火のうちに消火されることを祈っておこう。
そう考えながらつぎの段に視線を移し、その名称を見つけて息を止める。
「…… "誘炎の陣" 」
自分の変化に気づいたのだろう。師父が目をのぞきこんできた。
「どうした」
「いえ、その。 "誘炎の陣" が流出って、けっこう危ないように思えて……」
「蠱惑の術だから、天水の真術よりは危険のように思えるかもしれんがの。誘炎も、それなりに流通している真術だ。これもさほどめずらしくはない」
「流通って、民の間でですか?」
「民というより為政者に、だの。 "誘炎の陣" は領主や町長が必要とするのだ。賊や悪党を捕まえて、尋問代わりに使う。こそ泥くらいなら、処罰を与えれば終わるがの。人さらいともなれば、急いで自白させなければならんから」
人さらいは時間との戦いだ。
もたもたしていると、さらわれた者が売り払われ、移動させられていってしまう。
「まあ、真術に親しめば対応ができるようになっていく。導士があつかえるような蠱惑の真術は、ちゃんと対応策が用意されている。 "空白の地" に行けば、ほかの里の連中が、気軽にひっかけてくることもあるくらいだ」
「え、何でです?」
「だいたい、ただの知的好奇心だ。ほかの里の話が聞けるのは、 "空白の地" の合同演習くらいだからの。だれがだれに惚れてるだとか、逆に不仲になった兄弟弟子の弱みをにぎりたいとか。ま、子供の遊びみたいなものだのう……どうかしたか?」
師父の問いに、いいえと首をふり。意識して、その文字から視線を外す。
本当に何でだろう。やっとのことで "風渡りの日" を越えたところなのに。
近頃、過去の記憶が騒がしくてしょうがない。
「ところでサキよ。飯はまだか?」
「あ、もうできてますよ。いま持ってきますね」
がさごそと新報書をたたむ音を聞きながら、炊事場にもどり、鍋つかみに手を通した。
先生は大柄な人で、けっこうな量を召しあがる。毎日おかわりが忙しかったから、昨日から鍋ごと卓に置く形に変えたのだ。
卓の中央に鍋を置いて、蓋を取る。お皿にたっぷりよそってから、いっしょに女神への祈りを捧げ。ゆったりとした朝食の時間がはじまる。
時間の進みが止まったのではないかと錯覚するほどの、おだやかな時をすごしながら、頭をめぐらせる。
師父にまつわる謎も新報書のことも、今日のところは脇においておこう。
今日こそは。
そう今日こそは、このぬるま湯の生活に、終止符を打たなければいけない。
何しろ、自分は修行中の身だ。
修行をしなくては、ここに来た意味が、まったくないのである。