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「負けたんですか?」
和成おにいちゃんの家で、所属しているクラブが新しく立ち上げる小学生チームのスカウトを任されたその日の夕方。
寮に戻った私と裕香は、寮の食堂で、意気消沈しているAチームの先輩たちや同級生を見据えながら、後藤監督の話を聞いていた。
本来スクレイバーFCの下部組織であるマライアSCは第1部リーグに準じている。といっても、ここ最近の負けから、2部に足がかかってしまっているが。
その2部リーグに位置しているファナティックSCと練習試合を行い、1-0で負けたのだという。
「あれは絶対吉原のミスでしょ?」
サイドバックの向井先輩が詰め寄るように叫んだ。「あんなリバウンドに引っかかるなんて」
「リバウンド?」
私は近くに座っていた海老川先輩に視線を向ける。
「むこうのMFが放ったシュートが、ポストに当たってね」
「クリアできなかったんですか?」
「その逆――相手チームがそれをわざとして、頭で決めてきたの」
終わったことは仕方がないと言ったように、海老川先輩は頬杖をついた。
なるほど、ボールを大きくバウンドさせて、ヘディングしやすい状況にしたのか。
それをしたってことは、相手のMFはかなりのシュートコントロールがあるということになる。多分ビデオに撮っているだろうから、あとで見せてもらおう。
「でも、なんでそれで吉原先輩が責められるんですか?」
裕香のいうとおりだった。イレギュラーなことなんてプロでも起こりえる。まさかわざとポストを利用するなんて誰も予想できない。
「そのポストに当てた選手に抜かれてるのよ」
GKの館林先輩がにらむように吉原先輩に言った。
その吉原先輩は、ジッと椅子に座り、まるでテーブルの木目を数えているかのように顔をうつむかせている。「だからって」
別に吉原先輩が悪いわけじゃ――と、私が口を出すよりも前に……。
「でも負けたってことですよね――誰も、1点も取れないで」
裕香がハッキリとそう言った。
「ちょっと、裕香?」
あんた、この状況でそんなことを言ったら、どうなるかくらい空気読みなさいよ。
「濱崎、あんたなんか言った?」
先輩たちの目がいっせいに向けられた。
――いや、違う。
何人か、本当のことを言われて黙って顔をうつむかせている人もいた。
おそらくだけど、後藤監督や矢沢コーチから同じようなことを言われたのだろう。
「誰も1点も取れないで負けたんですよね?」
裕香はそれでもけんかを売るような声で言う。
ガタンッ――と、椅子が勢いよく倒れた。
「濱崎っ! あんた――Bのくせに、一年のくせに調子乗ってんじゃないわよ」
裕香の近くに座っていた、FWの妻崎先輩が、裕香の胸元をつかみあげた。
「やめなさい……」
静かな声に、妻崎先輩はその人に視線を向けた。「で、でも海老川先輩」
「裕香のいうとおりよ。私たちは1点も取れないで無様に負けた」
「で、でも和。今日の試合は練習で――リーグ戦とは関係ないって」
険悪な空気をなだめようと、三年生で控えのMF、伊夫伎静江先輩が止めに入った。
「だから余計に悔しいんでしょ? 私たち三年は今度の大会で最後なのよ」
そうだ。もう季節は秋。三年生はその大会が終わると引退しなければいけない。
もちろんプロに上がれる人もいるだろうけど、結局それもほんのひとつまみいるかどうかもわからない。
結局その日の夕食は、Aチームはもちろんのこと、応援に行ったBチーム、控えの選手たち全員に悪い空気をあたえてしまい、ギクシャクとした食事会となってしまった。
☆
もともと二段ベッドの上段を使っていたのだが、怪我をしたため、下段を使っていた裕香と交換した。
その下段ベッドに横たわっていた私は、夕食前に起きた言い合いの時に海老川先輩が言っていた言葉が気になっていた。
――無様な負け方。
練習試合なのだからとか、本番じゃないんだからとかいろいろと言い訳があるかもしれない。だけど、海老川先輩の言葉にはそれとは違う意味があったのだろう。
「梨桜、お風呂くらいは入れるでしょ?」
トイレに行っていた諸星先輩が部屋に戻ってくるや、顔を覗かせるように言ってきた。
「あ、すみません。急いで入ってきます」
私はあわてて起き上がる。気づけば、一年生が浴室を使う時間帯になっていた。
うーん、考え事をすると時間を忘れてしまうくせはどうにかしないとなぁ。
「いいっていいって。海老川先輩もそこまで鬼じゃないから」
カラカラと笑いながら、諸星先輩は言った。「でも規則ですから」
「まぁ、そうだけどね。それとたぶん海老川先輩は裕香のこと怒ってないと思うよ。本当のことを言われたんだからさ」
「そうなんですか?」
「むしろ点が取れなかった自分たちに苛立ってるんだと思う」
諸星先輩は、私と向かい合うように自分のベッドに腰かけた。
Aチームのボランチである諸星先輩は、試合を直に関わっているからこそ、理解していたのだろう。
「自分たちよりも下のチームに、ウーノゼロで負けたことが悔しいんでしょうね」
ウーノゼロ。イタリアサッカーで美学とも言われている1-0の完全試合を意味する。
多分だけど、海老原先輩や、裕香を睨まなかったAチームの先輩たちは、負けたことよりも、点を取れなかったことが悔しかったのだろう。
それもそうだ。シュートは絶対打っているはずだし、点も取れていたはず。
それなのに1点も返せなかった。いくら練習試合だったとしても、なにもできなかったことを悔しいと思わないほうがおかしい。
1点しか入れさせていないことよりも、前後合わせて90分間もある試合の中でひとつも取り返せていなかったことが、負けることよりも悔いていたのだろう。
プロの試合でも、完封試合はよくある。
その時に一番悔しいのは、負けたことよりも反撃ができなかったこと。
「だからさ、裕香もわかってあえて言ったんだと思うわよ」
諸星先輩は苦笑を浮かべるように言う。
「それはないかと。あの子思ったことはすぐに言っちゃいますから」
私は肩をすくめるように言い返した。
「もうすこし先輩に対する礼儀を見せてほしいと思いますけどね」
そんなことを話していると、部屋のドアノブが回される音が聞こえ、私と諸星先輩の視線がそちらへと注視された。「おつかれさまです」
部屋に入ってきたのは裕香だった。お風呂に入っていたのか、肌が赤みかかっている。
「梨桜、お風呂」
言うやいなや、裕香は私のブラやショーツ、アンダーやズボンが入っているタンスを開け、着替え一式を取り出した。言っていることとやっていることがまるでお母さんだ。
まぁ三段タンスの一番下を使っていて、肉離れであまり足を曲げられない私をおもってのことだから、あまり文句は言えない。
「わかってる。それじゃ行ってきます」
さすがに入らないわけにもいかず、私はベッドから出ると、裕香が出してくれた下着を着替え袋の中に詰め込み、松葉杖を手に取ってそれに支えられるように部屋を出た。
お風呂場へと続く廊下を歩いているときだった。「あっ」
その道中、部屋から出てきた海老川先輩と妻崎先輩の二人と鉢合わせになってしまった。
「今からお風呂?」
「あ、はい。すみません」
「いいって。怪我をしてしまっている以上、まずはそれを治すのが最優先だからね」
海老川先輩は笑顔で言う。「それとさっき裕香さんが謝りに来てくれたわよ」
「そうなんですか?」
「ええ。むしろあぁいう反抗的な下級生がいると、こっちはうれしいのよ」
裕香に詰め寄っていた妻崎先輩の意外な言葉に、私は目を瞬かせる。
「下級生の何人かはいい子ちゃんぶって監督や上級生に媚を売ろうとする子が多くてね。多分推選してもらおうとかそんな安っぽい考えを持っているんじゃないかしら。中学生と高校生ではレベルが違うってわからせるために、あえてAとかB関係なしに練習試合とかに出させたりするけど、そういうバカはすぐに控えですら呼ばれなくなる。基本うちは実力主義だけど腕がいいだけじゃ勤まらないのよ」
「裕香は基本的に思ったことを言うみたいだし、ミニゲームでも私たちに負けるつもりどころか勝つ気でいるくらいだったからね」
いや、それは私もだと思う。そもそも負けると思って勝負をする人なんていない。
「先日のミニゲームも、あなたから受け取ったボールを無駄にしないよう、私を抜こうってプレッシャーを|かけてきた。それで私はあの子がドリブルで抜くって勘違いをしたから、あんなミスをとってしまい――点を取られてしまった」
妻崎先輩は、なんともはやと言ったように苦笑を浮かべながら叩頭する。
VTRを見せてもらった私も感じたが、あんな闘争心むき出しで相手に向かってくれば、そりゃぁ誰だってドリブルで抜くと思っても仕方がない。
「だからこそ裕香は私たちが負けたことが許せなかったって言っていたわ。練習だろうがなんだろうが、気持ちで負けたことが許せなかった」
妻崎先輩が肩をすくめ、私を見据えた。「でもなにもあんなところで言わなくても」
申し訳ないと言った声で私は二人に頭を下げる。
「あの場所だったからこそじゃないかしら。一番悪いのは負けた事実を受け止めきれていない私たちAチームだったんだから」
「小さいときに再放送で見た人形劇の劇中歌に"今日がダメなら明日があるさ。明日がダメなら明後日があるさ"ってのがあってね。ダメな部分を引っ張っていたら、次も失敗してしまう。だからあのあとAの選手だけで話し合って、点を盗られたらその倍以上は点を盗り返そうって心に決めたのよ」
海老川先輩が胸を敲くように言った。その時、彼女の豊満な胸が沈む。
うーん、学年別でお風呂に入るから見たことないけど、この人いったいサイズいくつなんだろう。
「それにあなたたちには期待しているのよ。ゲームに必要なのは勝つという向上心だから」
海老川先輩と妻崎先輩は、そのまま階段を下りていく。
――向上心か……。そんなこと思ってもなかった。
先輩たちの言葉に、私はベンチ入りできればいいとさえ思ってしまっていたと甘えている自分が許せなくなっていた。
日本代表U-17の地域トレセンに呼ばれなかったことも、Aチームのスタメンに選ばれなかったのも、私がそれに対する向上心がなかったからだ。
「ふぅ……」
一度深呼吸をし、自分の両頬を敲いて、気合を入れなおす。
――食らってやる。
怪我を絶対治して、冬の大会の時には絶対Aのサイドバッグに選ばれて、相手チームを食らってやる。そのときは、当然裕香も一緒だ。
そのためにも、まずは和成おにいちゃんや監督たちにお願いされた、小学生チームのスカウト。その第一難問である畑千鶴さんに話をして、来てもらうこと。
明日の放課後、監督とコーチに話を通して、もう一度璃庵由学園に行ってみよう。