始章 嵐の下の、屋根の下
夕方には立派な風が吹きつけていた。築一〇年も経たない比較的新しい家の窓が、ガタガタドタドタ、と、音を立てている。
今この家には家主がいない。中等部二学年生の息子早瀬始を置いて、家主である両親は「誰だか」と、南国へ旅行中。家には独り、始が留守番と称される除け者として居残っているのみである。
「どうして、オレだけ……」
そんな文句を、両親にだけでなく同伴者「誰だか」にもどれだけ呟いたことか。始と両親はじつの親子であり決して家族仲は悪くないというのに。
なのに、この蒸し暑い中、独り取り残された理由が全く解らない。いっそ解りたくない、と、憤っている始。南国はこの地方より暑いであろうことよりも、置いてきぼりを問題視している少少おつむの軽い少年である。
沈鬱に拍車が掛かったのは、ただでさえ気が沈みがちな夜のことである。それでも貧乏揺すりをしたり発狂せずにいられたのは文明の利器、要するにテレビゲームやパソコンがあった。ついでに、ゆとり教育的休日を潰そうと画策した教師の陰謀(?)で、宿題が山積みになっている。教諭陣は「一日休養、一日教養」という故人の理念を調べたことがないのか、調べていないなら是非調べてほしい、などと、始が考えるわけもない。
が、不本意ながら、宿題は暇潰しになるのではないだろうか。始は勉強に関して可もなく不可もない一生徒であるから、宿題はそれなりにこなして間違っていても気にせず提出して終われる。問題を解いている間は、蒸し暑さを多少なりと紛らわせるのではないか。そんなことを考えながら、始は結局宿題に手をつけることなくネットサーフィンに現を抜かしていた。
早瀬家の「魔導クーラ」なる文明の利器は現在故障中。鬱陶しいほど熱した湿気達を窓から退散させたいが、暴風に次いで天から召した豪雨のお蔭でままならない。紛らわしてきたイライラが、始の心にUターンしつつあった。
そのとき、
トゥルルルルル……。
トゥルルルルル……。
リビングの固定電話への着信だった。廊下を跨いで、始の部屋の隣にリビングという間取り。部屋間の扉は開け放たれているが、
……体温とパソコンの熱が漂っている自分の部屋より、リビングのほうが涼しいか。
と、希しく高速で思考を巡らせた始は、金属製のパソコンデスクから熱気を振り払うように立ち上がった。
リビングの電話から受話器を取ったのは、電子音が三周して鳴り止まぬうちであった。
「早瀬です。どちら様ですか」
と、体面を作った声で、始は受電した。
返ってきた声は、変声期がまだ来ていないような大人しい声音の、
「もしもし」
女の子だ。始はこの声を、遠く離れた土地の親戚の声だと、名乗られずとも悟った。
「千歳か」
少しぶっきらぼうだったか。一つ年下の相手なので気を遣わない。体面を作った声などとうにない。
「こんな時間に……」
今に一〇時を示そうとする壁掛時計を仰ぎ、「どうした」
「そっちに台風が行ったの、見たから……」
千歳がおどおどと言った通り、始の住む地域を目下、台風が横断している。とはいえ、千歳は心配しすぎである。
「耐震強度不足の古い借家でもあるまいし、心配ないよ。バカだな」
強がるでもなく、始はそう言った。バカだな、なんて言ってしまったのは照れ隠しだった。両親に見捨てられたように留守番していて誰も心配なんかしないだろうと不貞腐れていた始である。千歳が心配の言葉を発したとき、ドキリとしたのである。
「ごめんね。余計なコトを、いったかな……」
と、静かな向こうで呟くように千歳が言った。始の耳には、ガタガタと震える窓や、屋外の豪雨や、吹き飛ばされてガタンガタンと喚き散らす看板の騒音を押し退けて、彼女の声が不思議と鮮明に届いた。
「別に、迷惑ってワケじゃないって」
気づけば、そうハッキリと応答していた。
「そう……。でも、ごめんね?」
と、小さい声をさらに小さくして申し訳なさそうに千歳が言った。「……切ったほうがいいかな?」
「切る」というのは通話のこと。「ほうが」と言ったのは千歳が電話を切りたくないと思っているからだろう――。始は、
「いや、いいよ。ヒマだし」
と、置きかけられそうな遠方の受話器を引き止めた。
それを始の気遣いと取ったのか、千歳は、
「ごめんね……」
と、何度目かになる萎縮にも似た謝罪。次いだ彼女の言葉に、始は絶句した。
「こっちもね、お父さんとお母さん、出掛けてるの。だから……」
……そうか!
始は今の今まで、失念していた。
両親が旅行先を告げた五日前、千歳の両親と現地で落ち合うことも言っていた。空越しに始が文句を垂れた「誰だか」は千歳の両親だったのだ。
……オレは何をいってたんだ。
始と彼女は、同じく三人家族。彼女の両親が外出しているなら、当然、千歳は独り屋根の下にいる。人見知りをするが、両親とは仲がいい。――千歳は寂しかったに違いない。
始は失念していた。
「ちょっぴり心細くて、ね?」
耳許の千歳の声に、始はわずか戸惑った。千歳が台風に見舞われた始を心配しただけでなく、自身の望みで電話を掛けてきたと判ったからだ。
始は戸惑いを抑えて、しっかりとした口調で応える。
「そっちがヒマなら、ちょっと、話し相手になってやるよ」
ぶっきらぼうな語尾になってしまったが、始の気持は伝わったようだった。
「やっぱり優しいね、ありがとう……。ハジメ君、あのね――」
千歳がやや声を弾ませて話題を持ちかけると、始は、失念によって擡げた罪悪感を拭えた気がした。
普段なら両親に怒られるような時間まで、二人は時を忘れて話し込んだ。
語らいは、思わぬ来訪者に文字通り唐突に横槍を入れられる。
ガシャーンッ!
早瀬家のリビングの南窓を、暴風で吹き飛ばされた何かが突き破った音だった。始の四メートル先で、遮光カーテンとレースカーテンが吹きすさぶ強風にバタタンバタタンッ、と、はためいている。
受話器が騒音を拾ったか。千歳が漠然ながらに惨状を想像したのだろう、驚いた声。
「大丈夫っ?すごい物音がしたけど……」
せかせかした声が、始の鼓膜をくすぐった。
「大丈夫、大丈夫!窓ガラスが何かで割れたみたいだけど平気だから!」
と、言葉とは裏腹に焦った声になったのは仕方あるまい。始はガラスを突き破った金属板を認めて、
……面倒なことになったな。
と、心の内で溜息をついていた。
読心を得手とする魔術師の如く始の心境を察して、千歳が申し出る。
「電話、いったん切ったほうがいいね」
心の機微については、千歳に敵いそうにない、と、始は苦笑した。
「そうしてくれると助かる」
「うん。もし、よかったら……」
「――電話する」
これくらいの応答ができなければ、男としてダメだろうとは、始でも判った。
ほどなくして、千歳と阿吽の呼吸で受話器を置いたのを始は感じた。
バタタンバタタンッ!
カーテンが激しく泣いている。勿論、カーテンに人格があるはずもないが、
「解ってるって!」
思わず対人的に言ってしまう始だった。
時計が深夜三時を指している。割れ落ちたガラスを片づけたり、風穴の空いた窓を塞いだりしたあとでは、さすがに電話を掛け直していい時間ではないだろう。それを承知で千歳は掛け直してほしいと言い、しかし、気を遣って通話を切ったに違いない。と、始は解釈した。
「悪いことしたかな」
始はふと蒸し暑さを感じ取り、気づく。
……話すのに夢中だった。
その理由は考えるまでもない。
「さて、片づけよっ」
赤ん坊のように泣き喚くカーテンをあやすために、気合を入れて奔走したのは言うまでもない。
ガラスの片づけや破れた窓の応急処置、金属板の撤去などをやっとこさ終えると、睡眠を摂った。
昼としては早い時間に目覚めた始は、自分が蹴っ飛ばしたであろう掛布団を正して、パジャマ姿のままリビングへ足を伸ばした。あり合せの厚紙を貼って塞いだ窓ガラスの隙間から、目に染みるような眩い陽光が射している。
割れていないほうの窓から空を見上げる。台風が去って澄みきった天色。
「いい天気だ」
窓ガラスが割れて間もなくは、暴れ牛のような烈風のお蔭で図らずも涼しかったが、今は空気が籠もってジメッとしている。始の自室よりマシとは言え、リビングも蒸していた。
窓を開くと、夜のけたたましさは何だったのかと詰問したくなるほど軽快なカララッという音を立てた。
蒸した空気と入れ代わるように、澄んだ外気が屋内に流れ込んでいく。頰を撫でて曲線を描く透明な流れが、なぜだか見えるようだ。
露香る窓辺から、青天をどこともなしに眺めて、深呼吸。
……そうだ。
始は、受話器を取るはずだった時間をちょっとした支度に充てて、確かな目的地を持って外へ出た。
涼しい。
鬱屈する自宅の空気から抜け出して、すっきりとした外気を切って歩く爽快感がたまらない。まるで始の心境を写したかのような清澄な風がそよいでいる。
……魚が風に乗って泳いでしまいそうだ。
と、ありもしないことを思うくらい、始は足取りが軽かった。
吸い込まれそうな天色を仰ぎ、歩く。
「久しぶりだな……。お金、足りるよな」
驚くも、嬉嬉として迎えてくれるであろう彼女の顔を思い描きながら、始は、なけなしの貯金とともに、幾久しい一人旅を敢行したのだった。
――始章 終――




