二話 荒ぶれるオークを撃退!
何が何だかわからない。お互い見つめあう時間だけが過ぎていく。止まっていた時間を動かしたのはレティシアだった。
俺と抱き合っていたレティシアは歯をぎりりと鳴らすと、大きな瞳を吊り上げ、しなやかな動きで俺から距離をとった。俺への警戒は解かずに、部屋中をきょろきょろと見渡す。
「くっ……貴様何者だ! オークの仲間の魔術師か? こんな妙なところに連れ込み、私に何をするつもりだ」
レティシアは隙のない動作で剣を抜くと、切っ先を俺の眼前に突きつけた。そのまま、俺を壁に追いやる。
「ま、待てって! お、俺はただゲームで遊んでいただけで、なんでこうなったのかわからないんだ!」
「しらばっくれるつもりか? 私はビルゲート王国を守る使命がある。さあ、今すぐ元の場所へ戻せ!」
剣先が俺の鼻先にあたる。じっとりとした汗が、吹き出し頬を伝った。
レティシアの俺を見る視線が、さらに鋭く突き刺さる。剣先が細かく震え出したとき――レティシアの金色の髪の毛が空気を含んだように、ぶわと膨らんだ。
「後ろに何か――」
と、俺が言い終わらないうちに、レティシアは俺に向けていた敵意を自らの背後に向けた。横に薙いだ剣閃は、背後から迫っていたオークの腕に半分ほどめり込んだところで止まった。
「ンゴオオオゴゴゴオオオォォ!」
「ぎゃあああああぁぁぁ!」
突然のオークの咆哮に交じり、俺の悲鳴。ゲームキャラクターのありえぬ出現に脳みそは沸騰しかけている。
オークはめり込んだ剣を引き抜くと、レティシアごと床に叩きつけた。はじかれるように俺は部屋の四隅へと逃げ込む。胸に手をあて、早鐘を打つ鼓動を無理やり押さえつける。
なんだ? 何が起こっている? 冷静には程遠いが、一息ついたことにより部屋全体を見渡す余裕はできた。
背中から床に叩きつけられたレティシアは、体を逸らせ浅い呼吸を繰り返している。そのすぐそばではオークが血走った理性の感じられない視線をレティシアに向けていた。狭い六畳の部屋で、ここにいるはずのないゲームの世界の住人が対峙している。
半分ほど腕が切られていたはずだったが、オークは全く痛みがないかのように、仰向けで倒れているレティシアに覆いかぶさる。血走った眼はさらに大きく開かれ、呼吸は浅く早くなっていく。だらしなく開かれたオークの口からはなめくじの様な舌がのぞき、下半身には世にもおぞましいものがふるふると蠢いていた。
レティシアは恐怖におののいた表情で、喉の奥を「ひっ」と鳴らす。しばらくは抵抗していたようだったが次第に力は抜け、ついには固く握っていたこぶしを解いた。
「くっ、殺せ!」
オークはその言葉に醜悪な顔をさらに歪ませると、レティシアのプレートメイルを剥がそうと手を伸ばす。
まずいまずいまずい。我が家で凌辱物のAVがライブ上映されてしまう。なんとかしないと。
幸い、オークは俺のことは眼中にないようだ。レティシアのプレートメイルを剥がそうと必死になっている。
……なんだか妙に腹が立ってきた。ゲームのキャラクターといえど、勝手に俺の家で暴れて、見たくもない凌辱プレイを見せつけようとしている。
…………俺が好きなのは――――いちゃラブなんだよおおおぉぉぉ!
怒りが沸点に達した俺は、がむしゃらにオークの背中に組み付いていった。丸太のようなオークの首に腕を回し締め上げる。
が、オークのがちがちの筋肉には、俺なんかの力ではびくともしなかった。
オークはハエを払うように腕を振り上げると、俺の体は簡単に宙を舞った。床に体をしこたま打ち付けてしまい、痛みに体をよじる。
その時、組みひしがれているレティシアと目が合った。死んだような表情で、ただこれから起こる恥辱に身を任せている。
「……くっ……そおぉぉお!」
ありえぬ怪物への恐怖を打ち消し、俺はレティシアのすぐ横に落ちていた剣を手に取った。
ずしり、とした重みが俺に手に伝わる。手に吸い付くような持ちやすい柄と、シンプルな両刃の刀身。よく見ると、油を塗りこんだように輝く刀身には、刃こぼれひとつない。
俺はよろけながらも、両手で剣を肩の高さまで持ち上げると、オークの背中に向かって振り下ろした。
しかし、俺の攻撃はオークの強靭な体を切り裂くことはできなかった。先ほどのレティシアよりも浅く入った俺の攻撃は、オークにはまったく効いていない。
まるで大木に剣を打ち込んだようだ。俺の柄を持つ手には痺れが走り、感覚がなくなっていく。
さすがのオークも俺を本格的に鬱陶しいと思い始めたのか、屈するレティシアを尻目に、俺へと向き直る。腹に響くような足音で、壁に追いやられた俺に近づいてくる。
ああ……なんでこんなことに。俺はただ、エロゲをやろうと思っただけなのに……。
いくつもの青筋が浮き出たオークの顔は真っ赤に染め上がり、ピクピクとこめかみが痙攣しておる。相当お怒りのようだ。棍棒を放り投げ、こぶしを大きく振りかぶる。それを俺に目掛け振りぬく。
「うっひゃああ!」
間一髪。屈んだ俺の頭上をオークのこぶしが通り過ぎる。俺は身を低くし虫のように地面を這いながらオークから距離をとった。
足はがくがくと震える。代わりにオークの攻撃を受けた本棚はあっさりと砕け散り、奥に隠された俺のエロマンガコレクションは無残にも床に散乱してしまう。
ただの木片となり散らばった本棚を見ると、背筋に氷を突っ込まれたように悪寒が走る。
「ンゴブオオオオオオぉぉ!」
俺を殺せなかったからなのか。オークが全身を震わせ怒っている。
このままだと確実に殺される。
興奮からなのか。オークの股間に生えたアレも一緒になっていきり立っている。
うう……どんだけお盛んなんだよ。このオーク。
「くそっ……! 来るな!」
俺は手元に転がっていたエロマンガをオークに投げつける。無駄なことは頭ではわかっているが藁にもすがる思いだ。
オークは体にぶつけられたエロマンガをちらりと横目で見ると、イラついたようにぎりぎりと歯ぎしりをする。
ああ……もうだめだ。
俺はすべてをあきらめ、目を固くつむった。
…………が、いつまで経ってもオークは俺に攻撃をしてくることはなかった。うっすらと目を開けると、オークはそこら中に散乱しているエロマンガを食い入るように見つめている。背中を丸め静かにページをめくる様は、まるでひと気のない土手で見つけた湿ったエロ本を見ている小学生の様だった。
隙ができた。
「レティシアっ!」
レティシアは困惑してはいたが、オークの様子から勝機を感じたのか、床に転がった剣を手に取っていた。
が、強烈な殺気を感じたのか、オークはエロマンガを投げ捨てレティシアに向き直る。
くっ……。エロマンガくらいじゃオークの注意を惹き続けるほどの刺激はないのか。だったら!
俺から注意が逸れたオークの目をかいくぐり、テレビの電源を点ける。すばやくDVDプレイヤーを再生しオークにびしり、と指を突きつける。
「これを見ろおおぉぉ!」
俺の叫びにオークの注意がこちらへと注がれる。
「俺の秘蔵コレクションを見せてやるよぉっ!」
テレビに映るのはクライマックスだった。くんずほぐれつ、大人のプロレスごっこをする男女の姿だった。
どうだ! お気に入りのシーンで止めておいたんだ。
「んごっ! んごっ! んごっ!」
よし! 思った通りだ。オークの視線はクライマックスシーンにくぎ付けだ。あまりの興奮からか、オークはその場で腰をくいくいと振っている。
あまりのキモさに、俺は後ずさる。その隙間に一陣の風が吹いた。金色の髪をなびかせ、風のように間合いを詰めたレティシアはオークの股間目掛け、剣を上へと振りぬく。
「不浄な」
音もなく、オークのいきり立ったものは宙へと舞い上がり、そのまま白い霧となり消え去っていった。
レティシアはあくまでも冷静に、突き上げた剣を構えるとオークののど元に突き刺した。オークの体からは血液も流れることなく、指先から白い霧となり四散していった。
後に残るのは、レティシアの呼吸を整える音だけだった。俺も恐怖を吐き出すかのように、大きく息を吐いた。
死体も残らず、血液も出ないことを見ると、やはりゲームキャラクターなのだろうか。
レティシアは消えゆくオークに嫌悪の表情を向けると、洗練された動作で剣を鞘に戻した。
レティシアは尻もちをついた俺を見下ろしている。表情からは感情は伺い知れない。
そうだ。レティシアは俺のことをオーク側の魔術師と思っているのだった。ひょっとしたらその剣で俺を……
ごくりと唾を飲むと同時にレティシアは静かに膝をつき、頭を垂れた。
「先ほどの無礼をお許しください。どなたかは存じませんが、危ないところを助けていただき感謝しております」
俺は全身の力が抜けたようになった。殺されるかと思った……。
「あ、いや、別に……いいですよ」
いいですよ、とは言ったが部屋を見渡すと、本棚は壊れてるし、テーブルも壊れてるし、壁に穴は開いているしで、親が帰ってきたら激怒されそうだ。本当にゲームをしていただけなのに、なんでこんなことに……。
レティシアが顔を上げ、俺の目を見つめる。その純真な瞳に、へこんでいた俺の気分はどこへやら。胸が高鳴り全身が熱くなるのを感じる。
「レティシア・バルトホルトと申します。祖国の危機に迷いの森を抜けようとしておりましたところ、このような場所に……」
レティシアは落ち着かない様子で、俺の部屋を見渡している。突然、頬を赤らめると目を潤ませながら視線を床に落とす。
「あ……あの不浄な映像は……いつまで」
あ、しまった! ほっとしたせいで忘れていたけど、まだテレビには大人のプロレスごっこの映像が垂れ流されていた。
「ご、ごめん!」
俺はすぐにテレビを消した。
外の雨も幾分か勢いが弱まり、穏やかな夜になりつつある。俺は気まずくなってしまい、次の言葉を発せないでいた。
「あなた様のお名前は?」
レティシアは戸惑いを隠すように、声を張った。
「あ、俺の名前は直樹……と言います」
「ナオキ……様」
俺の名前をしっかりと心に刻み付けるように、口の中で何度も反芻している。突然立ち上がると、もう一度レティシアは深く頭を下げる。
「命を助けていただき感謝します。私は祖国の危機のため急いでいる身。このご恩は必ず……」
そう言うと、レティシアはパソコンのモニターを見た。先ほどの戦いでも幸い、モニターは破壊されることなく、迷いの森の美しい自然を写していた。
レティシアはモニターを両手でつかみ、もう一度俺を見ると会釈する。何をしようとしているのかわからず俺はレティシアを見守っていた。すると――。
ゴツンッ!
「……痛い」
レティシアがモニターに頭突きした。
頭をさすりながら、レティシアは疑問の表情を浮かべる。
「おかしい……たしかに、ここにゲートが開いているはずなのに」
レティシアはいぶかしげに、モニターに触れる。触れた場所から波紋が走るが、それ以上は何も起こる様子はないようだ。
「あ、あのー。どうしたんですか?」
何をしているのかわからず、俺は声をかけた。
「ゲートが……」
「ゲート?」
俺がモニターに触れてみても、先ほどの時のような波紋は発生しない。俺が向こうの世界の住人ではないからか?
「ゲートは遠くの場所へと人間を運ぶ高位の魔術です。確かにここから魔術の力を感じるのに……」
レティシアは自分の手のひらを見つめている。何かに気が付いたように、目を大きく見開くと突然、剣を腰の鞘から抜いた。
「うわっ」
驚く俺をよそに、大きく剣を振る。
「やはり、力が失われています。なぜ……?」
レティシアはそのまま力なく地面に突っ伏し、肩を震わせている。モニターを見つめる瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「早く戻らないと……。国へ帰らなければ……皆を助けなければ……」
レティシアは何度もモニターをさする。そのたび波紋が浮き出るがそれ以上は何も起こらない。うう、と喉の奥から苦しそうな声が聞こえる。
その声を聞いていると、いたたまれなくなってつい頭で考える前に言葉が出る。
「レティシアさん。あの、俺でよかったら、元の世界に帰れる方法を一緒に探そう。この家にいいし……俺が原因っていうのもあるかも……しれない? かな?」
レティシアはうなだれながら、顔だけを俺に向ける。
強く気高い女騎士。俺がスクリーンショットから感じた印象だ。しかし、今のレティシアの表情は不安で押しつぶされてしまいそうな少女の顔だった。
「レティシア、と呼んでください」
「え?」
レティシアは俺の手を強く握る。
「ナオキ様。ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
下心が微塵もなかったのかといえばう嘘になる。でも、強固なプレートメイル越しにも分かるくらいに肩を震わせている女の子を放っておくことなどできやしない。
雨は完全に止み、淡い月の明かりが部屋の中に差し込んでいる。
なんとか、レティシアを元の世界に戻すことができたらいい、と俺は思った。