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CARD  作者: 竹内緋色
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 琥瑯は違和感を有していた。何も違和感がないことに違和感を有していた。椅子に座らされ、身動きが取れない。腕と椅子とが頑丈な鎖で固定されているからだ。琥瑯は昨日も全く同じことが起こっていたと思った。

「魔術師ってのはこういうスタイルが好みなのかい?」

 琥瑯は目の前の人物に話しかける。その人物は暖炉の前で大きな氷の入ったグラスを傾けていた。

「何のことだ?」

 琥瑯は目が覚めてから少しの間、目の前の人物が誰なのかが分からなかった。それだけ黒い外套が印象的だったのだ。そして、外套を脱いだ姿がごく普通の中年男性であったことにより驚かされていた。

「俺に何の用だ?炎術使い。」

 琥瑯は自分が危機的な状況に陥っているにもかかわらず、反抗的な態度をとることができていた。昨夜で十分になれたお陰であった。

「俺にはディグリーっていう名前があるんだよ。本名は捨てた。」

「何格好いいこと言ってるんだよ。」

 緑色のセーターを着たごく普通の金髪の中年男は暖炉の火に照らされ、グラスを片手にしていることから、かなりギザに見えていた。

「うん?一々文句が多いなぁ。お前も光術使いも。」

 先ほどまで落ち着いた口調だったディグリーは三枚目の口調へと変貌を遂げる。

「俺の名前はな―――」

「奉琥瑯だろう?」

 三名目から一変、刃物のような口調が琥瑯の胸に突き刺さる。暖炉の火から反射した男の瞳の輝きは刃物のように妖しい光を蓄えている。

 琥瑯は、この男は自分のなにもかもを既に知っていると確信した。

「そんなに驚くことじゃないだろう?お前はどこに行っても有名人だ。」

 琥瑯は生唾を飲んだ。ディグリーに反抗しようにも反抗できない。

「お前の体の隅々まで調べさせてもらった。」

 琥瑯は自分の体を見渡す。椅子に固定されている点以外、不審な形跡はない。

「まさか―――」

「まあ、な。これで違和感が解消した。そして、さらなる謎が深まった。」

 ディグリーは大きく息を吐いた。それは飲酒により引き起こされるものではなく、溜息であった。

「お前は何者だ―――というのは野暮か。それはお前にも分かりはしない。そうだろう?」

 琥瑯はうんともすんとも返事をしなかった。じっとディグリーを睨め付ける。そこに反抗の色はなく、ディグリーはその瞳に強い意志を感じ取った。

 魔物だな、とディグリーは思った。

「光術使いからどこまで聞いている?魔術師については聞いたか?」

 琥瑯は静かにうなずく。それとともにディグリーは自らの顔を手で押さえる。

「あのバカ。一般人を巻き込みやがって。」

 そういったディグリーの態度は琥瑯に奇妙な感覚を引き起こされた。その感覚はなんであるのか、と逡巡すると、案外早く答えは見つかった。ディグリーの態度が敵に対するものではないのだった。そこには悪意も敵意もなく、ひたすらに―――心配しているように感じ取れた。

「まあいいだろう。じゃあ、自分の体の異変については聞いたか?」

 琥瑯はうなずく。

「どこまでだ?体の中にカードが憑りついているってことくらいか?」

 琥瑯は頷く。

「それより先は?」

 琥瑯は首を振る。

「自分が変身している姿は知っているか?」

 琥瑯は目を見開いて強く首を振った。

「じゃあ、お前が俺と戦った記憶もないんだな?」

「病院でか?」

 琥瑯は初めて返事をした。自分の体の異変を一番知りたいのは琥瑯本人だった。

「そうか・・・記憶がないか・・・」

 琥瑯の心臓が高鳴る。視界がぶれる。

「結論から言おう。お前の中のカードは別のカードに反応して覚醒する。

 そして―――それはお前の抱えている問題とは全く関係がない。」

「どういうことだ!」

 琥瑯は叫んでいた。その言葉はディグリーが自分の症状についてよく知っていることを示唆し、その正体と解決法を知っていると暗示していたからであった。

「自分の中にあるものを全て見渡せ。そして、その像を何かに、誰かに投影しろ。」

 そう言うとディグリーは指をパチンと鳴らした。途端、椅子と琥瑯とを固く結んでいた鎖が音を立てて地面に落下した。

「何のつもりだ?」

 椅子から立ち上がった琥瑯はディグリーを一瞥して言った。

「言わなくても分かるだろう?ガキは家に帰れ。」

 琥瑯はディグリーに背を向けて去ろうとした。だが、歩みを止め、振り向いて言った。

「お前は何のために戦う?叶えたい願いがあるのか?」

 その問いにディグリーはグラスの酒を一口飲んでから答えた。

「俺の名前がまだディグリーでも炎術使いでもなかった頃、俺は娘のことを何も知らないダメな父親だったのさ。」

 それは返答にはなっていないにもかかわらず、琥瑯はそれで事足りるような気がした。

「送ってってくれないのか?」

「お前がそんな賜かよ。」


 琥瑯はスマートフォンで時間を確認しながら、どこに帰ろうか、と悩んでいた。時間は深夜一時をとっくに過ぎてしまっている。もう、真樹は起きていないだろう。

 琥瑯は今出てきた建物を眺める。それはファミリー向けの一軒家で、独り暮らしには向いていなかった。中に立派な暖炉があるようには外見からは測ることはできない。ディグリーに家族はいるのだろうか、と琥瑯は思った。ディグリーの家族に対する発言と父親のような態度に何か引っかかるものを琥瑯は感じ取っていたのだ。玄関を出る時、琥瑯はふと靴を見た。そこには琥瑯の靴しかなかった。西洋では靴を脱ぐ習慣はないのだったか、と琥瑯は思ったが、ディグリーが靴を室内で履いていたかについて思い出すことはできなかった。靴からは家族の有無は確認できない。だが、ディグリーから漂う焦げ臭さとともに琥瑯は寂しさを嗅ぎ取っていた。それは恐らく―――

 敵対している光術使いである葉原真樹と関りのある自分にやすやすと居場所を教えても構わないのか、と琥瑯は思った。恐らく何かしらの対策を取っているのだろう。あの家も一時の仮の住まいである可能性もある。

 このまま自分は真樹の家に帰ってもいいのだろうか。

 ディグリーが真樹の家を特定するために簡単に開放したのかもしれない。

 だが、それもないように琥瑯は感じた。ディグリーなら既に真樹の家を特定しているに違いないと思ったからである。そして、襲わないようにしている。病院での戦闘もそうである。あの時居合わせた琥瑯、真樹、ディグリーの中で負傷したのはディグリーのみであった。それはディグリーが真樹や琥瑯に怪我をさせないように注意していたからではないのか―――

 いつの間にか琥瑯は炎術使いディグリーを憎めないようになっていた。


琥瑯は様子見のために真樹の家へ向かっていた。実際は琥瑯の家への通過地点に真樹の家があったので、ついでに様子を見に行っただけであった。数メートルに一本しかない街灯に照らされたコンクリートを踏みしめながら琥瑯は歩いていった。そろそろ真樹の家だったような気がしていると、なんだか妙な音がしていた。スタスタスタと誰かが駆けてくる音だと気が付いたときにはもう遅かった。暗くて何が近づいてきていたのか判別できなかったが、それは琥瑯の腹を思いっきり蹴飛ばした。

琥瑯の体は数メートル跳び、激しく背中を擦って運動を止めた。

「なにすんだよ。」

 蹴られた腹とコンクリートで擦り下ろされた背中の痛みに耐えながら琥瑯は言った。

「アンタこそ何してたのよ!」

 想像していた声が聞こえて琥瑯は少し安心した。

「何ってまあ・・・」

 ディグリーについては伏せていた方がいいと思ったので、言葉に詰まる。

「犬に追いかけられてさ。街中を彷徨ってたんだ。」

 これで納得してくれるだろうとは琥瑯は思わなかった。だが、納得してくれないと困るのでもあった。

「バッカじゃないの?」

 上体を起こした琥瑯の前に立つ真樹は言った。

「どんだけ心配したと思ってるのよ!」

 真樹の涙の混じった声を聞いた琥瑯は胸が苦しくなった。

「泣いてんの?」

 不謹慎かと思ったが、そんな言葉しか琥瑯はかけられそうになかった。

「泣いてないわよッ!」

 近所迷惑になるほどの大きな声で真樹は否定した。

「アンタ、晩飯作るって言ってたでしょ?だから、早く作りなさい。」

「え?」

 琥瑯はキョトンとした。そして、今朝にそんな約束をしていたことに気が付いた。

「でも、もう晩飯って時間じゃないだろ。」

 琥瑯は晩飯を食っていないことに気が付いた。だから、初めはそれが自分の発している音だと思い込んだ。

 ぐううううう。

 我ながら物凄い音だと思った琥瑯だが、何故か真樹がお腹を押さえて顔を赤くしている。しばらくして琥瑯は気が付いた。

「ずっと待っててくれたんだな。」

 琥瑯は自然と笑顔になっていた。

「べ、別にそんなんじゃないんだから!早く帰ってご飯食べるわよ!」

 そう言って琥瑯に背を向け真樹は家へ向かう。

「夜に食うと太るぞ。」

「うっさい。」

 典型的なツンデレだな、と琥瑯は笑った。


薄い霧が外に立ち込めているのを岡嶋は窓から見ていた。その窓には薄く水滴が付いている。結露である。そんな岡嶋をよそに、署内は張りつめた空気に支配されていた。今朝も死体が発見されるのではないか。数日間連続で起こった殺人事件の情報を抑えるのはそろそろ限界であった。一部週刊誌ではすでにこの事件について取り扱った記事が作られているという噂まであった。だが、と岡嶋は考える。一体どの週刊誌が実際にこの町まで足を運んだのだろうか、と。岡嶋は記者が府警の幹部から聞いたことしか書かないだろうと決めつけていた。実際にこの町まで足を運んでいれば幹部などよりも好感が持てたのだが―――と、岡嶋は首を振る。岡嶋は一度好感を持った人物に情報を漏らしたせいで碌な目に遭ってはいなかったのだ。

「だが、犯人はどうする?」

 岡嶋は自分が誰に話しかけているのか分からなかった。

「人間は犯人というものがなければ納得しない。はい事故でした、災害でしたと言って、誰にも責任が降りかからないことなんて一度もありはしない。」

岡嶋は慌ただしい部署の中のソファで眠ることにした。常人ならばこの喧騒の中で眠ることなどできないはずだが―――一晩中暗闇に飲まれた町に目を光らせていた岡嶋には関係のない事だった。


PPPPPP

何が鳴っているのだろう、と思った瞬間には葉原真樹は目をかっぴらき、ベットから上体を起こしていた。そして、数秒間虚空を見つめた後、鳴っている目覚まし時計を手に取り、時間を見る。いつも起きている時間よりも30分は遅れている。早く行動しなければならないという思考をかき消すアラームを止めて真樹は急いで制服に着替える。時間を確認する前にアラームを消せばイライラせずに済んだのに、と今さらになって真樹は思った。何故いつもはアラームが鳴る前に起きているはずの自分が30分以上寝坊してしまったのか。それは、彼女が夜遅くまで人を待っていたからである。

着替え、髪を梳いた真樹は急いで階段を下りる。靴下で滑ってしまわないように気を付けながらもなるべく早く降りようとする。真樹はそのまま玄関から外に出ようとした。すると、どこかから温かい空気が真樹の鼻腔をくすぐった。空気より濃厚なそれは臭いであった。それも、食べ物のいい臭い。真樹は人知れずリビングの方に行っていた。

「お母さん?」

 すらっとした後姿を見て真樹は過去の残像を投影していた。

 振り向いたその人物は彼女の母親とは似つかない顔で、ひどく寂し気な顔を見せた。

「おはよう。真樹。」

 キッチンで炊事をしていたのは琥瑯だった。

「なにやってんのよ。」

 真樹がそう言ったのにも関わらず、琥瑯は何も言わずに席に着く。食卓にはすでに料理が並んでいた。

「あんまり時間がないんだけど。」

 そう言って真樹は席に着いたが、時計を確認するということはしなかった。

「真樹が何も言ってくれないから、何時に起きて何時に出ればいいのか分からなかったよ。」

 そう言って琥瑯はいただきますと手を合わせ食事を採る。真樹も同様に手を合わせ食事を採る。

「それだったら、一人で先に行けばよかったじゃない。」

 真樹の言葉には別段琥瑯のことを非難する意図はなかった。

「俺が一緒に行きたかったんだよ。」

 琥瑯はそう言って口元を緩めた。真樹はその様子を、余裕の笑みであると受け取った。恐らく琥瑯が本心で言ってはないと真樹は思っていた。琥瑯は自分のことを想ってそう言ったのだ、自分が行きたいと思う時、それほど余裕のある返答ができるとは真樹は思っていなかった。それは真樹にとって非常に意地らしくあったし、また、ほんの少しだけ嬉しくもあった。

「やはり、二次元世界における辻希美の影響力はすごいものだったのよ。」

 真樹はなんとなく照れくさく、また、このままだと真面目で暗い話しかしなくなるのを恐れて、自分でもよく分からない話題を振っていた。

「でも、それって古くないか?モー娘。隆盛期を知ってるのって、一番若くてももう大学生にはなってるんじゃないのか?」

「のんちゃんを侮辱するっていうの?のんちゃんは神なんだから。万人の心の支えなんだから。そういうのをデリカシーがないって言うのよ。」

「デカシリー?」

「それが通用するのは一部のマイノリティだけよ。大学生でも知らない子が多いんじゃないかしら。」


 何故こんなに居心地の悪い場所に居なければならないのか。琥瑯はそう思っていた。彼にとって教室は非常に居心地が悪かった。それは彼のせいではなく彼の周りの人間のせいであるのだが、琥瑯にはそれがどちらでも同じことであるような気がしていた。だから、彼は休み時間はほとんど教室にいることはなく、なるべく授業時間以外で教室にいることを避けていた。それゆえ必然であったのだろう。ほとんど誰も利用することの無い図書室に彼が行くのは。

 そもそも、図書室の利用者が少ないのには理由があった。きっとどこの学校でも基本的に利用者は少ないだろうが、この高校の図書室は図書室のある場所が辺鄙な場所であるので、立ちよる者が極端に減ってしまっていた。

 図書室は職員室や保健室のある棟の最上階にあった。ただでさえ職員室などに用事もないのに加えて、棟と棟との間には連絡通路などなく、最上階まで上がっていかなければならない。どこの学校でも同じであろうが、当然、エレベータなどない。だから、琥瑯にとっては楽園そのものだった。

 本を借りようとカウンターへ向かったときである。琥瑯は見知った顔にひどく驚いた。しかし、その見知った顔は琥瑯に気が付いていないようだった。

「はい。返却日は2週間後です。」

 そう言った人物は琥瑯に本を渡したが、琥瑯が反応を示さないので、顔を上げて琥瑯の顔を見た。その人物、鳳翔はあっ、と小さく声を上げた。

「鳳さんでしたっけ?」

 琥瑯はそう言った。

「あ、はい。奉くんでいいんですよね?」

 翔は上目遣いで琥瑯に聞いた。

「先輩ですので、敬語でなくていいですよ。」

 琥瑯は言った。昨日確認した限りでは、翔は一学年上であった。

「そうですか。でも、こっちの方がなんだかしっくりくるので。」

 そう言って翔はにっこりと微笑む。

「そういえば、昨日はどうしたんですか?みなさん、特に葉原さんがとても心配してましたよ?」

「真樹が?」

 虚を突かれたように琥瑯は言った。

「ええ。心配していたというより少し怒っていらっしゃったのかもしれませんけど。」

「はあ。」

 容易に想像がついて、琥瑯は苦笑いした。

「あの後、大丈夫でしたか?」

 心配そうに翔は言ってくる。あの後というのは琥瑯が錯乱していたときのことだろう。琥瑯は非常に言い辛かった。魔術師の件を抜きにしてもである。

「鳳さんは俺についての噂とかってご存知ですよね?」

 琥瑯は悲し気な表情をしていた。

「奉くんの噂ですか?」

 うーんと唸っている鳳は本気で知らないようであった。

「知らないなら大丈夫です。」

 そう言って琥瑯が去ろうとした時、翔は言った。

「噂なんて気にしない方がいいですよ。私はどんな噂があろうと奉くんがいい人だって知ってますから。」

 その言葉に琥瑯は胸の奥が熱くなるのを感じた。

「だって奉くんは私を助けて下さったのですから。」

 琥瑯は驚いて目をかっぴらいてしまった。

「あのことを覚えてらっしゃるんですか?」

 琥瑯は恐る恐る聞いた。

「それは、秘密ということにしておきましょう。」

 にっこりと翔は笑った。

「縫製人間ヌイグルマーってどんなお話なんでしょうね。」

 翔の言葉に琥瑯は自分の持っている本を見た。

「まだ読んだことないので分かりませんが、おもしろそうだなって思ったので。ちなみに、鳳さんのおすすめの本ってありますか?」

 翔は少し嬉しそうな顔をしながら言った。

「そうですね。どんな本もお薦めなので迷ってしまいます。そうなると、今読んでる本ですね。四畳半神話大系っていうものなんですけど、これはなかなかです。話の内容としてはなかなか軽快で、スラスラと読んでしまいがちになるのですけど、古い言い回しのお蔭で一文一文じっくりと読めて味わい深いんです。それに、これは少しネタバレかもしれませんけど、同じような内容が繰り返されるんです。それは普通はあるまじき行為なのですが、それがむしろ読者を引き込む最大の装置になっているんです。本当に、作者の森見登美彦さんは確信犯です。おそるべき密室殺人です。」

 目を輝かせて述べている翔に琥瑯は面白そうですねまた読んでみますとしか言うことができなかった。

「あなたは何をする人ですか?」

 琥瑯が去った後、翔の言った言葉を聞いていた者はいなかった。


「運命というものは、それ一つしか選択肢が残されていないという状況なんじゃないかと思うんだけど、どう思う?」

 歩いている琥瑯に声をかけるのは土師であった。

「俺は写真部に入るつもりはないって言ってるだろ?」

 うるさい蠅を追い払うかのように琥瑯は言った。

「なんというか、そんなことどうでもよくなったんだよね。」

 軽妙に話す土師に琥瑯は何の意図なく聞いていた。

「どういうことだ?」

 土師は気持ちが悪いほどの笑顔で言う。

「なんか、こうやって奉くんと話しているととても面白いんだ。きっと、それは奉くんが僕にとって非常に興味深いからなんだと思うよ。」

「気持ち悪い。」

「ひどいなあ。」

 琥瑯としては決して本心ではなく、50%以上は気持ち悪いと思っていた程度である。決して100%ではないのが琥瑯の良心であった。

 廊下の先が通路の交差している地点であった。そこで琥瑯は松ヶ崎綾が横切るのを見て、ふと足を止める。綾が琥瑯のことに気が付いていないと知ると、琥瑯は一息つく。

「何かあったの?」

 土師が聞いてきた。

「いや、別に。」

 そう言いながらも琥瑯は綾の後を目で追う。窓から綾の向かった先の窓の向こうを見て、綾がどこにいるのかを確認したが、見当たらなかった。もう既に去ったのだろう。

「油断は禁物だぞ。」

 琥瑯は振り向く。しかし、そこには土師しかいない。だが、さっきのは確かに―――

 琥瑯は表を向く。すると、綾がいた。

「後ろから声が聞こえたのに、なんで前にいるんだよ。というか、どこに隠れてたっ。」

「ふん。そんなもの赤子の手をひねるように簡単だから、話す気にもなれんわ。」

「いや、絶対アレだ。著者が何にも考えてないパターンだ。」

「そんなことはない!」

 名のある武闘家の出すような声で綾は言った。

「で、何の用だよ。部活なら入らないぞ。ましてや異次元格闘部など・・・」

「いや、勧誘はもういい。」

「え?」

 土師にも同じことを言われたばかりなので琥瑯は虚を突かれた。

「こうやってお前らと話している方が楽しいからな。」

 そう言って人差し指を鼻の下へもっていって、照れているような体を作る。甚だわざとらしい。

「お前、さっきの話聞いてたな。」

「てへっ。」

「態度急変し過ぎだろう。」

 琥瑯は綾のペースに合わせるのに苦労した。

 そんな時であった。

「奉琥瑯ってあれだろ?一家殺しの犯人の。」

「そうそう。後輩から聞いたんだけどさ、アイツ、体育の授業に出ないらしいんだ。」

「入れ墨とかしてるんじゃね?」

「いや、背中には苦悶に満ちた顔に見える痣が―――」

 ぎゃはははは。

 雑談し合う男子生徒二人が琥瑯達に気付かず、廊下を歩いていったのだ。琥瑯はただ顔を俯けて黙っているだけだった。

「おい、お前ら。」

 男子生徒二人は思わず振り返った。その目の先にいたのは綾だった。

「なんだよ。お前。一年生か。」

 三年生である彼らは綾の覇気ある声で呼び止められたことに少し驚いていたが、相手が一年生であることに気が付き、安心したようだった。

「さっき奉琥瑯がどうこうって話してたよな。」

「だからなんだってんだよ。」

 三年生は睨んで言った。

「私はな、そいつがどんな奴かってのをよく知らねえで噂話をさも真実のように言う輩ってぇのが大嫌いなんだよ。」

「んだ?女のくせにやろうってのか?」

「女のくせにだと?」

 ピリピリとした振動を男子生徒たちは感じていた。微細な地震が来た時のように震えているそれを綾が発していることに彼らは最後まで気が付くことはなかった。

「やめろ。松ヶ崎。」

 そう言って琥瑯は綾の前に立ちふさがった。

「退けよ。」

「いや。絶対に退かねえ。」

 琥瑯は綾が自分のために怒っていることが嬉しかった。それ故に、綾を悪者にしてはいけないと、人を傷付けさせてはいけないと、そう強く思った。

「なんだよ。来ねえのかよ。」

 三年生はひどく安心しているにも関わらず、そんなことを言った。

「なあ、先輩ら。」

 口を開いたのは琥瑯だった。

「噂話をするのはいい。でもな、本人の前ではしないほうがいいと思うぜ。」

 背を見せ、顔だけを向けた琥瑯を見て、男子生徒は今すぐ逃げ出したく思った。それほどに恐ろしい表情を琥瑯はしていた。だが、体が動かなかった。

「わ、わかったよ・・・」

 三年生は震える声でそれだけを言うと背を向けて去っていった。早歩きながらも走り出さなかったことに琥瑯は感心した。

「二度と突っかかってくんな。」

「すまない。」

 綾に琥瑯は言った。

「は?」

 綾はそう言ったが琥瑯は気にかけずに去っていこうとする。

「違うだろ?」

「え?」

 綾の言葉に琥瑯は歩みを止めて振り返る。

「お前が言うべきなのはそんな言葉じゃない。」

「そうだな。」

 琥瑯は天を仰いだ後、綾に目を合わせて言った。

「ありがとう。」


「はてさて、どうしようか。」

 琥瑯達の様子を一つ上の階から眺めていた少年はそう言った。片目が長い髪に隠されて、ゲゲゲの鬼太郎のようになっていた。その整った顔からは表情がないためか他人を突き放すような印象を与える。少年はそのことをとても好都合に考えていた。彼としては非常に行動しやすくなるためである。長い髪で隠れている耳にはイアホンをつけている。

「どうすればいいと思う?たみー?」

 彼はそれで誰かと通信しているわけではない。イアホンで聞いている歌手に問うているのであった。

「そうだね。そうするしかない。彼らの予定がどうなっているのか気になるところだけど、どうしようもないね。」

 独り言を平然と言っている少年に近づくものはいなかった。


 署内の空気が緩んだものになったことに憤りを感じて岡嶋は町中へ出てきた。

「死体が見つからなかったといってもな・・・」

 それで安心している空気が岡嶋には許せなかったのだ。犯人はまだ野放しだからだ。

 岡嶋は建物と建物の間の路地を行く。そこは暗くジメジメとしていて、ナメクジがいそうな場所だった。岡嶋はもうこの可能性しかないと考えていた。一件目は住宅街の森の中に死体は遺棄されていた。だが、それは遺棄ではなくその場所で殺されていた。一人目はその住宅街に住む主婦だった。胴を横に真っ二つ。それは第二被害者の男性も同じだった。第二被害者は少し離れたところにある公園で殺されていた。警察は第一の事件が起こったあと何もしていなかったわけではない。周囲の警備は行っていた。しかし、警察官の数には限りがある。そして、メディアへ情報を流さなかったせいで、起こってしまったのだと岡嶋は考えている。大抵犯罪というのは警察官が発見することは少ない。その多くは市民が発見している。犯人の目撃が皆無という点から、犯人は真夜中に移動していると考えられる。そして、あまり現場から距離が離れていない点から、徒歩ではないか、と岡嶋は考えていた。

 岡嶋は第三被害者の女子高生が死んでいたところから歩いて行ける、そして、なるべく離れている場所の路地裏を歩き回っていた。

 最初に気が付いた異変は臭いだった。かび臭い臭いとは全く違う、明確で鮮明な臭いが岡嶋の鼻腔に入ってきた。岡嶋はその臭いをよく知っていたので、警戒した。それは死の臭いであった。人体から飛び出した肉や脂肪が血液と混ざってできる、日常からかけ離れた臭い―――

 そして、岡嶋はそれを見つけた。

 初めはそれを岡嶋は積まれている段ボール箱かなにかだと錯覚した。形が全く違うにも関わらず、それが生き物であるとは信じがたかったからである。それほどに、生命力の感じられないものが岡嶋の前に横たわっていた。

「おい。大丈夫か?」

 岡嶋はそれを見つけた瞬間、駆け寄っていた。それは若い人間で、性別は男であった。胴は繋がっている。岡嶋はその点で非常にホッとした。衣服は白いワイシャツで、制服のようである。その制服はひどく汚れていて、何色とも言い表せない斑点が至る所に白いシャツを染め上げている。それはワイシャツだけでなく、人体にも降りかかっていた。そう。飛沫のように―――

 少年はカッと目を開く。そして、目の前に人がいることに気が付くと、叫び声を上げて逃げ出そうとした。しかし、岡嶋は逃さなかった。岡嶋は少年の両腕を掴み、少年の背中を胸で抱えるようにして捕まえた。

「じっとしろ。」

 岡嶋は考えていた。犯人が家に一々帰っていると、必ず目撃情報があるだろうと。それがないということは、犯人は家に帰っていない。そして、胴を真っ二つにするとなると、必ずその返り血を、血飛沫を浴びているはずだろうと。犯人が何着もの着替えを持っていない限り、犯人は血を浴びたままの恰好でいる可能性が高い。

 暴れていた少年は急に大人しくなった。それは気味が悪くなるほどだった。急に静かになったので、岡嶋は少年が意識を失ったのではないか、とさえ思った。大きな路地からの喧騒が聞こえてきた。

 少年はにゅっと首を伸ばし、岡嶋の目を睨んで言った。

「おじさんは真っ黒じゃない。黒いことには黒いけど、人間黒くない奴なんていないから。でも、僕の邪魔をするんだったら、死んでもらう。」

 直後に岡嶋が少年の拘束を解いていなかったら、岡嶋の腕は繋がっていなかっただろう。

 一閃。

 後ろに引いた岡嶋は自分の腕すれすれに薄い何かが通り過ぎるのを感じた。その後から、ひゅん、と風を斬るような音が聞こえた。

 壁に刺さったそれを見た瞬間、岡嶋は戦慄と歓喜の震えを止めることができなかった。

 それは建物の壁に深々と刺さっているにも関わらず、あっさりと壁から抜けてしまった。それは少年の腕から伸びていて―――少年の手には一本の日本刀が握られていた。

「危機に瀕して助かった人間が助かって幸運だったなんて言うけど、そもそも危機に瀕する状態自体が不幸だと、そう思わないかい?」

 そう言ってその人物は光差す大通りからこちらへ向かって来る。その人物は高貴な軍人のようにきらびやかな黒い軍服を身に纏い、腰には西洋のサーベルを二本さして、こちらへ向かって来る。顔にはその顔の上半分を隠すような趣味が悪いとしか言えない面を被っている。艶やかな前髪が彼の左目を隠していた。

「何者だ・・・?お前は・・・?」

 岡嶋は目の前に現れた奇妙な人物に言った。場違いな雰囲気に言葉が出なくなりそうになったが、必死に岡嶋は耐えた。

「そうだね・・・獺祭仮面とでも名乗っておこうか?」

「は?獺祭って日本酒の?」

「ああ。まあ、この名前についてはあまり聞かないでくれ。ただ、作者が日本酒にはまっているってだけだから。AMAZONで徳利とお猪口を購入したというのも全く関係のない話だ。」

 それより、と獺祭仮面は話を切って岡嶋に告げる。

「それより、早く逃げ給え。」

 刀を持った少年が前方に体重をかけたのを獺祭仮面は見逃さなかった。獺祭仮面はサーベルを一本抜く。そして、甲高い音が響く。

 岡嶋の耳のそばを何かが通りぬけた。ガラガラと後方で音を立てているのは細長く鋭い洗練された金属の破片、サーベルの刃であった。

「やっぱり普通の刀では太刀打ちできないね。油断してたら命のないところだった。」

 自分の生死に関わることであるのに、獺祭仮面は軽薄に言った。

「ところで、本当にどこか行ってくれないかな?警察官なら分かるでしょ?関係ない人間、もっとキツイ言い方をすれば力のない人間は現場に居ても邪魔なだけ。この戦場にはあなたは必要ないんだ。」

 岡嶋は背筋が凍るのを実感した。幾度となく犯罪者を威圧してきた岡嶋が逆に威圧されることになるとは彼は思ってもみなかった。獺祭仮面はすでにもう一本のサーベルを抜いている。そして、弾丸のように襲いかかってくる少年の日本刀をサーベルで受け止める。甲高く響く金属同士のぶつかる音とともに今度はサーベルは―――折れることはなかった。

「魔力を込めたものであれば受け止められるわけか。魔力同士の干渉から見て、切れ味の原因は魔力にあるんだね。」

 弾き合う刃同士はぶつかる瞬間に青い稲妻を発していた。それが魔力の干渉であることを岡嶋は理解することはない。互角にやりあう少年と獺祭仮面を見て、岡嶋は自分がどれほどちっぽけで無力な存在であるのかを思い知らされた。

『人間如きが関わるべきでない事象というのがこの世には多く存在するんだ。』

 岡嶋はそう言っていた知り合いの医師の言葉を頭の中で反芻させていた。

『それは人間なんかよりも高位な存在の関わっていることだからだ。』

『それを神のみぞ知る(デウス・エクス・マキナ)と呼ぶ。』

 その瞬間、岡嶋は大通りに向かって走り出していた。


 琥瑯が体に違和を感じてほどなくして真樹が琥瑯を見つけた。琥瑯は自分の中に流れている感覚を奇妙なもののように感じていた。それは興奮に似たようなものであるにも関わらず、そこには何の感情的なものが存在していなかった。言うなれば、無色透明の興奮であろうか。

「敵が現れたわ。」

 真樹はそれだけを告げて去っていく。琥瑯は無色透明の興奮に飲み込まれそうになるのを必死でこらえて、真樹を追う。

 学校からそれほど離れていない場所で、それは起こった。唐突に一人の男が飛び出してきたのだ。そこは何もなく、誰も気に留めないような小さな路地であったからである。そこから飛び出してきた人物を琥瑯も真樹も知っていた。そして、その男のことを印象的に覚えているのは真樹の方だった。真樹は胃がムカムカするような不快感を抑えて言った。

「ここよ。」

 男の出てきた路地であった。そこが現場であることを琥瑯は分かっていた。その場所に近づくにつれ、だんだんと無色透明の興奮が強くなり、飲み込まれそうになっていくからであった。しかし、琥瑯はそれを必死に耐えた。かつての琥瑯は他人に迷惑をかけないようにという一心で自分の中のものを抑え込もうとしていた。だが、今は

―――自分に負けたくない―――

 そういう想いが芽生えていた。それがディグリーの言っていた、自分自身を見つめるということではないかと思ったからである。

 小さな路地へと進んでいくと、日常ではあり得ない、剣と剣の交わる音が響く。真樹はナイフを取り出し、光の刃を出現させる。そして、進んでいった先には、実に奇妙な光景が広がっていた。そこは建物の間と間にできた何もない広い空間だった。夕刻であるのでもうほとんど光が差すことはない。その場所で、場違いにもマントを羽織った仮面の男と汚れた制服の少年とが剣と剣を交えていた。真樹はどちらがカードなのか迷ったが、琥瑯は少年と目が合った瞬間、心臓が握られるような感覚が走ったので、少年がカードであることを瞬時に理解した。

「遅いじゃないか、君たち。」

 仮面の男が言った。

「誰よ、アンタ。」

 男の奇妙な恰好に思わず真樹は気の抜けた返事をしてしまう。

「我が名は獺祭仮面。それより、この正義をなんとかし給え。」

「正義?」

 真樹は思わず顔をしかめたが、それが汚れたワイシャツ姿の少年のことであるのを理解した。

「彼は正義に寄生されているらしい。それがどういう状態なのかは知らんが―――後は任せた。」

 気が付くと獺祭仮面は真樹と琥瑯との間のわずかな隙間をぬって、颯爽とその場を後にしていた。真樹が呆然としたことには疑いの余地はない。真樹は獺祭仮面に呆気を取られて、琥瑯の異変に、いや、変異に気が付いていなかった。

「ねえ、大丈夫なの?」

 真樹が見たのはそれまた異様な光景だった。琥瑯の顔の右半分が白く変化していた。そして、服までもが道化の衣装のように白く装飾のついたものに右半身の一部だけがなっていた。だが、様子を見てもそれ以上肌や衣装に変化していく様子は見られない。

 抑え込んでいる?

 真樹はその様に考えていた。

 一方、琥瑯はただ日本刀を持った少年を見ていた。そして、こう思った。自分に似ている、と。何かに取り憑かれ、苦悩しているのが見て取れたからである。

 少年が襲いかかってくる。真樹はその場で身構えたが、琥瑯は前へ進んでいた。そして、刀に向かって手を突き出す。すると、刀は琥瑯の手の寸前で受け止められたかのように止まり、まるで熱いものに触ったかのように少年は勢いよく下がっていく。

 真樹は何が起こったのか理解できなかったが、乗っ取ろうとした?と、直感的に思った。

「黒い。お前らも黒い。見えるぞ。お前らの罪が。」

 その言葉を聞いて琥瑯は動きを止めてしまった。


 少年には幼いころから特殊な才能があった。いや、これは才能などと呼んでいいものではないのだろう。それは彼にとって呪いのようなものであった。

 少年には幼いころから普通の人には見えないものが見えていた。

それはどんな人間にもあった。幼いころ、少年にはそれが何を示しているのかが分かっていなかった。常に人の胸の中心あたりに丸いものが写されていた。それには色があって、彼と同年代の保育園児は色が白かった。中には黒くなりかけているものもいたが。そして、大人は例外なく黒かった。どうも、歳をとっていくにつれて黒くなっていくものなのだということは少年には理解できていた。しかし、それだけだった。幼い少年のこの奇妙な才能を共有するものなどこの世にはいなかった。母親に一度言ってみたことがあった。母親は初めは子どもの妄想かなにかだと思い込んでいて、笑顔ながらに聞いていたが、だんだん顔が怪訝になってきた。幼い少年には彼の見えている世界が他の人間にも見えていると思っていたからなおさらである。母親の様子を見て子どもながらに、これは母親には言ってはいけないことだ、と分かった。友達にも言ったことがあった。だが、帰ってきた答えはこうだった。

何言ってるか分からない。

子どもはきっぱりと物を言う。それが少年の心を傷つけたことは言うまでもない。だから、少年はこの才能を封じた。自ら封じたというわけではなく、自分をひどく否定しただけであったが、その時を境に人の胸に丸い何かが浮かんで見えることはなくなっていた。それは小学校に入るよりもずっと前の話である。

だが、能力を封じても少年は幸せになることはなかった。少年には常に閉塞感がのしかかっていた。それは本当の自分を封じている反動でもあり、今見ているものが本物であると確信が持てない不安感であった。少年は小学校に進学するころには綺麗さっぱり才能については忘れていたのだが、その感覚は拭い去ることはできなかった。

少年は現実を否定することをしなかった。しかし、受け入れたわけでは決してなかった。見えている世界、目に写る風景は自分の住むべき居場所だ。だが、何かが違う、何かが足りない。その感覚も誰かに共有されることはなく、少年はあらかじめ共有するつもりもなかった。それが理解されないことを、才能のことを忘れているにも関わらず、覚えていた。

少年は厭世的な視点を取るようになっていた。世界を否定していたら彼は苦しまずにいられたのかもしれない。だが、彼は現実から逃れることをしなかった。それをすれば、なんだか負けた気になるし、自分の居場所がこの世界にしか、現実にしかないことをよく知っていた。それ故、彼は満たされたことが一度もなかった。

そして、それはなんの前触れもなく訪れた。

彼が朝起きると、母親がおはよう、と挨拶をした。そして、どうしたの?と声をかけた。だが、少年は答えることができなかった。母親の胸に丸く黒いものが写されているからである。幼少の頃の記憶はすでに滅せられているので、少年はそれが何を意味するのかが分からなかった。だが、この世界に合い慣れないものであるのは瞬時に理解した。それ故に、彼はパニックに陥ったのである。

少年はなんとか平静を取り繕い、一日を過ごした。彼の周りには胸の黒い人間しかいなかった。それはひどく不思議ながら、同時に彼にひどい不快感を味合わせる色だった。彼は目を背けながら過ごした。これから自分はどうなってしまうのか。考えるだけで恐ろしかった。

少年は深夜になってコンビニへ行こうとした。深夜には人に会わずに済むからである。

「あれ?北山さんちの―――」

 鬱蒼とした林に近いスペースの近くで少年は近所の主婦と出会った。何をしているんだろう、と少年は不思議に思ったが、すぐに目を逸らす。彼女も黒かった。しかし、主婦は何を思ったか、得意げな顔をして、少年の手を引いて森林の中へ連れ出した。

 そして、

「おばさん、夫が相手してくれないから寂しいの。」

 と言った。

 だが、少年は彼女の目を見ていなかった。ただ、胸にある黒く丸いものを見ていた。

「どうしたの?」

 主婦は動かなくなった少年を怪訝に思い、言った。

 少年は主婦の黒いものを見ていた。それは今までにないほど真っ黒で深いものだった。それを見つめているうちにその中に引き込まれそうになった。そんな時、黒い丸いものにヴィジョンが映った。

 それはかなり凄惨なものだった。この主婦が他の家庭の夫や息子と肉体関係を持ち、相手を脅し、尚且つ表沙汰にされたくなければと、母親や妻にも金を要求する。そんなことを何度も繰り返している映像だった。

 その時、少年の中からカチリという音がした。それは人体が発するには余りに機械的で、体のどこから発せられているのかが分からなかった。その音を現代の人がどれだけ聞き覚えがあるのかは計り知れないが、それは刀の鍔の鳴る音だった。

「お前は黒い。真っ黒だ。罪深い。罪深い者は断罪する!」

 そして、全ては終わっていた。彼の手には一房の日本刀。背後からは血の噴水。そして、鈍く者が落ちる音。靴にドロリとしたものか流れてきた。

「はははははは。」

 少年はこの時理解した。自分が何故現実から目を背けなかったのかを。それは、彼が裁くものであったからである。少年は生まれて初めて自分の居場所を認識した。

 だが、少年はすぐに正気を取り戻した。手の中の日本刀はいつの間にか姿を消している。少年は目の前の惨劇を見て、逃げ出した。

 少年は自分の犯した罪を自覚していた。そして、自らが裁かれることを恐れた。身を隠せる場所を探した。そこは現場から離れた別の住宅街の鬱蒼とした公園だった。そこは人気がないのか子どもが一切訪れることもなく、少年はゆっくりと休むことができた。

 空がだんだん暗くなってきたころ、少年はふと目を覚ました。誰かが話している声がする。そのことに気が付いた瞬間、少年は身構えた。しかし、少年に話しかけたものではないと分かり、周りを周到に見回す。物陰から様子を窺ってみると、ベンチに座っているスーツを着たサラリーマン風の男がいた。その男が通話をしているのだった。

 男の胸が見えた。

 その色は、主婦と負けず劣らず真っ黒だった。

 ヴィジョンが映った。

 男は、普段はサラリーマンとして働いているが、裏の顔はヤクザに関わる金の取立人であった。人を殺さない程度に痛めつけ、生きる恐怖を味合わせ、その者が自分で死ぬことがあっても何一つ顔色を変えない。そこには損したという感情と面倒なことが終わったという安堵感、そして、次の仕事があるという倦怠感があった。

 彼にとっては会社の仕事と借金の取り立ては同じようなものだったのだ。

 そして、今電話しているのは取り立てをしている者で―――

 少年は物陰から姿を現した。

「何なんだよ、お前。」

 通話中にもかかわらず驚いた男をしり目に少年は言った。

「正義の名の下に、貴様を断罪する。」

 そして、また一つことが終わった。

 その時、携帯は通話中であったが、そのことを警察に通報しなかったということは、そういうことだろう。

 我に返った少年は逃げ出そうと考えたが、

 まだ時間は早い

 そう考えて公園に隠れていることにした。

 それは冷静そのものだった。死体のそばで過ごすというのは常人では考えられないことであるが、少年はもとより常人ではなかったのである。特殊な才能に芽生えていても、精神は普通の人間であるはずである。が、少年は才能の有無に関わらず、常人ではなかったのだろう。

 血に染まったはずの刀は滴る水によって洗い流されていた。

 少年は夜になって再び行動を開始した。そして、人通りのなくなった大通りから狭く暗く誰も通らないような路地へ身を潜めた。

 この時、一人の男性によって少年の姿を目撃されているが、男は少年が殺人犯なのだとは思っても見なかった。男はなんとも思わず去っていった。

 少年は虚ろな目つきのまま一日を過ごした。眠っているのか、起きているのかが判然としない、その境目を行き来していた。

「あれ?どうしたの?」

 少年に話しかける者がいた。その少女を少年は知っていたし、少女の方も少年を知っていた。少年は少女に密かな恋心を抱いていた。それ故に、彼女の胸の内を見てしまったときに、怒りを隠せなかった。

 少女の上半身と下半身は離れた。刀から滴る水によって血と肉と油の混じったものは綺麗さっぱり流し落とされる。刀身は透き通るほどに無垢であった。

 少年は見た。少女があらゆる人間の交友関係、恋愛関係をこじらせ、死に追いやっている事実を。それを楽しんでいる様を。

「この妖刀村雨丸と俺の能力『狂気』があれば、この世の罪を裁くことができる。『正義』の名のもとに。」

 彼の目には一枚のイラストが映っていた。黒い下地の中にある三角形に一筋の線が伸び、三角形の向こうへと伸びた線は七色に分離する。それはピンクフロイドのThe Dark Side of the Moonのアルバムジャケットのイラストだった。和名は『狂気』。自分の能力にピッタリな名前だと少年は自覚した。

 滝沢馬琴という目の不自由な人物が江戸時代に口述し書かせた作品に南総里見八犬伝という作品がある。その作品の中に、村雨丸という刀が出てくる。その刀は鞘から抜くと同時に水が滴り、刀身の血肉の汚れを落とすという伝説の、しかし、実在のしない刀だった。


 少年と琥瑯、真樹は長い間戦っていた。だが、勝負はつかない。村雨丸に触れることなく攻撃を少年に加えることは不可能に近かった。そして、二人は少年に危害を加えるつもりはなかったので、防戦一方となってしまっていた。琥瑯はともかく、真樹の身体は普通の人間と変わらない。限界に近付いていた。

「大丈夫か?」

 息を荒げる真樹のそばに琥瑯は寄り、言った。琥瑯もそれなりの疲労があるらしく、額に汗が浮かんでいた。

 その時、琥瑯は油断した。少年が素早い身のこなしで琥瑯と真樹の元へ向かって来る。琥瑯が終点を覚悟した時である。

 キイン、という金属音とともにそれは現れた。

「コイツは連続通り魔の犯人。」

 無表情の顔に平坦な声の人物は言った。琥瑯にはそれが独り言なのか違うのかが判然としなかったが、自分に言ったことであると信じたかった。

 制服に代わり、多くのフリルのついた服を着た少女は所謂ゴスロリというものであった。黒を基調とした服装が、その肩に担がれている奇妙な刃物、死神の持つ大鎌と見事に調和していて、不自然さを感じさせない。

 その少女の名を琥瑯は知っていた。

「V3・・・」

 V3は琥瑯の方を見ずに、正義に告げる。

「魔法少女V3の名の下に、26の秘密をもって切り刻む!」

「魔法少女⁉」

 魔法少女の言葉に反応したのが真樹であった。その顔は驚愕を通り越した、形容しがたいものであった。

「魔法少女なんて、あり得ないわ。伝説上の話じゃ・・・」

 V3は何も気にせず、ただ正義にだけしか眼中に映っていないようだった。

「秘密のその一・影閃。」

 そう言ってV3は鎌を大きく振る。すると、鎌の刃から黒い閃が飛び出す。正義はそれを村雨丸で凌ぐ。

「影術・・・まさか、魔法少女が影術使いなの?」

 驚愕のあまり、真樹はV3にしか興味が無くなっているようだった。琥瑯はV3の言った連続通り魔という言葉を気にしていた。それが噂になっていたものではないかと思ったからである。一方の正義もまた、魔法少女に対し、驚きを隠せなかった。

「なぜ、お前は白い?真っ白だ。そんなことあり得ない!」

 正義は叫びつつ、V3に向かっていく。彼はどうしてもV3を殺さなければならなかった。そうしなければ、彼を支えていた何かが崩れ去る予感があったからである。

「お前は罪深い。自らの意思で人を殺した。カードに飲み込まれていたわけではない。」

 影閃三角。

 そういうとV3は三振り大鎌を振り回す。すると、黒い刀閃が三角形をなし、正義に襲いかかる。

「うおあぁぁぁ。」

 正義も縦に一閃。村雨丸から飛び出した水の刀閃は三角形の影閃とぶつかり、互いに消滅する。消滅後、立っているのがやっとなくらいの風圧が誰にも同等に吹き抜けた。

「人間、生きている限り罪を負うものだ。なぜだ。何故お前は罪を一切負っていない?そんなことがあるのは生まれてすぐの赤子くらいだ!」

 正義が跳び、V3に上から大きく断ち切ろうとする。

「秘密のその二・影刃。」

 そうV3が唱えた時にはすべてが終わっていた。

 村雨丸は琥瑯の前の地面に刺さった。そこには二つの手が握られたままであった。その先にあるはずの手首からが無くなっていた。そして、正義は、今やもうただの少年になった存在は手首のあった場所から大量の血液を流し、後ろに倒れた。その口からはこの世のものとは思えぬ悲痛な叫びが発せられていた。

「生きていないのであったら、どうする?」

 村雨丸は光の粒になってV3の手元に集まる。それは一枚のカードに形を変える。

 そうを吐き捨てると、魔法少女V3は跳んで、夜の闇へと消えていった。路地に残るのはこの世のものとは思えない悲痛な叫びと手首から離れた二つの手と、救急車のサイレンの音だった。


「ふう。頑張った甲斐があったな。」

 その様子を建物の上から眺める者があった。その者は顔の上から半分を覆う趣味の悪い仮面を外し、言った。そして、マントや装飾を外すと、それは軍服などではなく、学ランであった。

「これで僕が霊術使いでないことがよく分かっただろう?」

 いつもの独り言かと思いきや、今回はそうではなかった。

「その名をやすやすと申されるとは・・・それこそあなたが霊術使いであることの証拠ではないですか。」

 小さな老人がどこからか姿を現した。

「まだぬかすか。」

 彼自身、霊術使いを恐れているのであったが、それを老人の前では決しておくびにも出さない。魔術師の分類の中で最強とされる霊術使いに狙われるのを避けるため、彼は水の属性のカード・正義を手に入れなかったのだ。

「霊術使いならば容易いことでしょう。全系統の魔術の行使など。」

 彼自身、霊術使いを見たことがなかったが、老人の言うように、全系統を使いこなす者であると言い伝えられている。

「影術使いが魔法少女とはな。」

 彼は話を切り替えようと、言った。

「ええ。ですが魔法少女という存在は・・・」

「そうだ。魔術を使うことはない。さっきの魔術は魔武器の作用だろうよ。」

「あの鎌がそうなのでしょうか?」

「それは知らない。」

 いつの間にか、地術使いは消えていた。しかし、彼はそれを気にも止めない。

土人形(ゴーレム)。ユダヤの秘術か。品のない。」

 状況を楽しむように深く息を吸って彼は言った。

「法王は彼に任せよう。」

 地面には、カードの出現を知らせる陣が浮かんでいた。


「ここか?」

 夕闇が空を深い藍色に染め上げる。

「そうね。」

 真樹と琥瑯はとある山のふもとまで来ていた。その山には名前があるのかもしれないが、だれもその名を気にすることはないだろう。地図にさえ記述があるのか怪しい。その山には数日前に土砂崩れが起き、山が崩れていた。長い間雨が降っていないのに何故なのかというのが少し話題になったが、道路を作る時の欠陥が問題なのではということになると、話題は急速にしぼんでいった。田舎ではよくあることである。

「これを俺がやったのか。」

 普通の姿に戻った琥瑯はがけ崩れの跡を見て言った。

「正確には弾き飛ばしたってだけなんだけどね。」

 琥瑯を思ってか、真樹は静かに言った。

「俺の力は一体何なんだ?」

 琥瑯は独り言のように言った。それはこちらが知りたいぐらいだ、と真樹は思ったが、伏せておく。大かた予想はつくものの、それを言ってもいいのかさえ真樹には判断できない。

「あのさ。」

 真樹は勇気を振り絞って言う。

「アンタは巻き込まれただけだから、魔術師とかカードとかの争いに首を突っ込まなくたっていいのよ。」

 すると琥瑯は

「そうだね。」

 とあっさり言った。

 真樹はそのあっさり加減に、ひどく不安に駆られた。琥瑯がいなくなってしまったらどうしよう、という不安であったのだが、真樹はそれに気が付かず、ただただ不安に駆られているという不快感だけが背筋に走っていた。

「でも、」

 と琥瑯は黒くなりゆく空を見上げて言った。

「もう目をそむけたくないんだ。逃げたくないんだ。」

「別に逃げたって誰も非難しないわ。」

「そういうんじゃない。そういうんじゃないんだ。」

 琥瑯の目は決してぶれることはなかった。

「俺は何かから逃げる自分が嫌いなんだ。だから、もう目を背けない。現実がどれほど過酷であっても。もう、決めた!」

 そうして琥瑯は山道を駆け上る。

「なんだかなあ。」

 そういう真樹の顔は笑っていた。心底嬉しそうな顔であった。

「で、法王はどこだ?」

「この真上よ。」

 真樹にだけ見えている。琥瑯には見えない。

 ふと、何かがおかしいと真樹は感じた。何故琥瑯は変身していない?

「真樹。法王を見えるようにできないか?」

「できるけど、バレるわよ。」

 それは魔術師にでもあるし、一般人にもという意味でもあった。だが、琥瑯は言った。

「大丈夫。すぐに片づける。」

 根拠のない自信であったが、真樹は信じてみたく思った。だから、法王の太陽光線を屈折させている魔術を解いた。そんなものは真樹は既に解析済みだった。

「ありがとう。信じてくれて。俺も自分を見つめて、自分から逃げない。だから、真樹に言っておかなくちゃならない。」

 真樹は思わず唾を飲んでしまった。顔が火照り、心臓の鼓動が脳内まで聞こえてくる。

「俺は、女なんだ。」

「え?」

 キョトンとしている真樹などお構いなく、琥瑯は法王を睨む。

「俺は女である自分を認める。だから、力を貸せ。今我が目前でひれ伏せ!『道化』」

 琥瑯の胸の中心から黒い光が噴き出し、琥瑯の眼前で一枚の物質となる。正義と似たそれはカード本体であった。

「俺に宿れ!『道化』」

 琥瑯はカードに触れた。すると、カードは反応し、不思議な光が琥瑯の体を包む。そして、光が引いていき、現した姿は・・・

「いきなり女子ってカミングアウトの跡は、魔法少女?」

 白く道化をモチーフにしたドレスは、V3よりも遥かに魔法少女のように見える姿だった。

「よし、行くぞ!真樹。」

 フリルのたくさんついた衣装で飛んでいこうとする琥瑯に向かって真樹は言った。

「法王の魔術属性は光。私の光術は効かない。」

「向こうにできないのか?」

「無理ね。」

 存在自体が光の魔術でできている存在を無効化できるはずがなかった。

「なあ、真樹。なんか俺にはアイツが倒せそうな気がする。だから、後方支援を頼む。」

「え?」

 琥瑯は高く跳び、法王の上になる。毎回置いていきぼりになっている真樹は不満を募らせるが、

「私にできるのはこのくらいか。」

 とブレザーを脱ぎ、それに呪文を唱える。

 琥瑯は今自分の中から溢れてくる力がなんなのか、それがどういう原理で起こっているのかを知らない。だが、なんとなく、分かった。琥瑯は腕を振るう。そこから、黒い斬撃が繰り出される。それを食らい法王は衝撃で揺れる。法王は光線を繰り出した。

 琥瑯は法王から繰り出された光線をドッジボールのように受け止めた。そして、法王に投げつける。法王に傷一つつかないのは分かっていた。光線の被害を消滅するための行動だった。琥瑯の放った光線の玉は法王の結界により相殺されて消える。

「そういえば、制限時間があったわね。」

 真樹は苦し気に言った。法王は光線を放った後、エネルギー切れを起こすのか、消えていってしまうのであった。琥瑯は落下中で、行動できそうにない。また失敗か、と真樹が自分のふがいなさを悔やんだときである。

 炎を纏った、いや、炎でできた三つの龍の咢が法王にぶつかる。そして、行動を制限する。

「炎術?アイツ横取りする気?」

 炎術使いディグリーは姿を見せなかった。どこからかから様子を見ているのだろう。だが、その足止めも長くはもたない。法王は光線を放ち、炎の龍を殲滅する。

「コンノヤロウ!」

 真樹は地面を割りながら進んでくる光線に向かってブレザーを、鏡面と化したブレザーを上に押し上げる。

「こんなこと、何回もやってたら死ぬわ!」

 真樹は鏡面と化したブレザーを使って光線を跳ね返したのだった。それは魔術師というよりも格闘家の荒行にも近いものであった。真樹の機嫌はいつもより悪くなる。

「おっさん!法王を逃がすんじゃないわよ!琥瑯!飛んで決着を着けなさい!」

 どこからか聞いていたのか、炎渦巻く三匹の龍が法王を炎に包む。そして、琥瑯は法王のさらに上を、さっきよりも高く、飛んでいた。

「うおおおおお。」

 琥瑯は力を右手の拳に全て移す。右手からあふれ出す黒い閃光は落下していく琥瑯の衣となり、見る者に黒い隕石が落ちてくるように見せた。

 そして、琥瑯は法王を貫き、法王は消えていった。

「琥瑯!」

 真樹は琥瑯のもとへ走っていく。

琥瑯はクレーターの中心で仰向けになっていた。手には一枚のカードが。

「このネナベが。」

「別に男だって言ってなかっただろ。」

「男子の制服着てなんなのよ。胸が私より大きいってなんなの?」

 真樹は琥瑯の胸のふくらみを恨めしそうに見つめていた。

「ふう。それより、まだ終わってないぜ。」

 そういうと、琥瑯は立ち上がった。

「何言ってるの?休まないと―――」

 しかし、真樹は目の前に現れた人物を見て口を閉じた。

 炎術使いディグリーが歩いてきていた。


 ペンを取り出し構える真樹を琥瑯は制止する。

「なんなのよ。」

 真樹は目で強く訴えるが、琥瑯は何も言わず、ディグリーを見つめていた。

「お前は俺や真樹が危ない目に遭わないために、俺たちを降板させようとしている。違うか?」

 ディグリーは、それがなんだ、という目で静かに琥瑯を見つめていた。

「お前のお蔭で俺は自分を見つめ直すことができた。非常に感謝してる。」

 ディグリーは炎の龍を出現させる。

「だから、俺もお前の中の否定している自分を自覚させてやる。」

 炎の龍が琥瑯を狙って迫ってくると同時に琥瑯もディグリーに向かって突っ込んでいった。そして、迫りくる炎を避けながらディグリーに向かって進んでいく。そして、ディグリーのそばまで行き拳を握りしめ―――ディグリーの拳が琥瑯の腹部を直撃していた。

「Awaken The Soul」

 ディグリーのはめていたグローブから爆発が起こる。その勢いで琥瑯は投げ飛ばされていた。無防備な琥瑯を炎の龍が襲う。琥瑯は大きな音を立て、背中から地面へと墜落した。ディグリーは重い足取りで琥瑯のもとへと向かっていく。その間真樹は何もできないでいた。真樹は自分がディグリーの実力を測り間違えていたことに戦慄していた。琥瑯との戦闘で自分が手加減されていたことを知り、まだ実力を隠し持っている炎術使いを前に体が動かなかった。

「さあ、カードを渡して貰おうか。」

 倒れている琥瑯の手には法王のカードが握られていた。ディグリーは動かない琥瑯のそばでしゃがみ、琥瑯の手の中のカードをひったくる。

「道化は奪わないのか。」

 琥瑯が言った。普通の人間ならばすでに息絶えているはずである。だが、琥瑯は言葉を紡いだ。

「さっきの戦闘で疲労していただろう。今回は見逃してやる。」

「お前だってまだ真樹に空けられた穴が塞がってないだろうに。」

 琥瑯は体を動かせなかった。全身が鉛のように重い。だが、伝えなければならない。

「いいのか?そんなに甘くて。」

 その言葉にディグリーは舌打ちをして、足早に去っていった。

 真樹はディグリーの姿が見えなくなって少しして、やっと我に返った。

「大丈夫?」

 真樹は琥瑯の顔を覗き込んで言った。その顔が余りにも泣き出しそうな顔だったので琥瑯は思わず笑ってしまった。

「心配すんなって。」

 そう言って親指を立てグッドの意思を示し笑った。

 そしてすぐに琥瑯は意識を失った。


「これでよかったか?」

 ディグリーは言った。それに対し相手は言う。

「道化も奪っておいた方が良かったんじゃない?」

 その人物は顔の上半分を仮面で覆い隠した奇妙な男だった。

「契約では法王だけだろう?」

 イラついた声でディグリーは言った。

「いや、法王以外は君のものとして持っておいていいんだよ。」

 仮面の男はディグリーの様子に気付いているのかいないのか、飄々とした口調で言葉を紡ぐ。

「見逃すのか。甘いんだね。」

 投げかけられた言葉に返事もせずディグリーは去っていく。

「光を使えるのは光術だけじゃないんだよ。」

 誰もいない一室で男は一人呟いた。


「一年前、とある住宅街で一家3人が死傷するという事件が起こった。4人いた家族の内死亡したのが父と母、意識不明の重体となったのが長女であった。容疑は一人の少女にかけられた。当時現場にいた少女は何故か一人だけ無傷であったからだ。少女は事件の時のことを何も覚えていないと証言した。そして、この事件で最も奇怪なのが、少女がこの家の娘だと言い張ったことであった。だが、戸籍上少女がその家の子である証明がなく、また、その少女の戸籍さえ見つからなかった。

 少女は証拠不十分として不起訴となった。少女は精神に支障をきたしたのか、それ以来男性の服装をするようになった。

 4人家族のうち長男はその事件以来消息が不明である。」

 ベッドに横たわっている少年―――両手があるべきところに手がなく包帯で包まれている少年を一人の男が見下ろしていた。その男は神妙な面持ちで少年を見つめている。それは少年に同情しているのではなく、数学の問題を解いているように何か難しいことを思案しているようであった。

この男のことを理解できる人間はこの世には存在しない。


何かが終わり、何かが始まった場所。そこに数名の男女が集まっていた。椅子は倒され、かつて団らんの場所であったはずのリビングは至る所に蜘蛛が巣を作っていた。

「始まりの場所に呼び出して、何の用なのよ。」

 女の一人が言った。

「あやつの考えておることはわしにもわからぬ。」

 白いひげを蓄えた老人が言った。様々な話声が飛び交う部屋を一人の男が静止させる。

「来たようだぞ。」

 威厳の化身とも思える男の声に誰もが言葉を奪われた。

「いやあ、皆さんすでにお集まりのご様子で。」

 そんな部屋の中に一人の人物が入ってきた。それは男とするよりかは少年と形容した方がよく、首から大きなカメラを下げていた。

「何のために俺たちを呼んだ。魔術使い(マジシャン)。」

 魔術使いと呼ばれた少年は言った。

「これから人とカードとの狭間を語り合おうと思いまして。」

 気が付くと少年は手品師のようなタキシードに身を包んでいた。


眠いです。

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