反撃
もし黄昏時に会ったら、曖昧になった世界の境目から時空を超えて迷い込んだ人だと思うだろう。昼間に会ったとしても、重篤な病気を抱えた人物か、生まれつきの色素異常を持った人間だろうと考える。夜なんかに会ったら、確実に「ヤバいものを見た」を感じるに違いない。透は姿形こそ人間のフォルムを残していたが、その色と醸し出す雰囲気は、人間の理解と想定を超えるものに変化していた。
布を染めたようにムラなく色づいた真っ青な髪、光を通さない湖面に大量の薬剤を撒いて変色させたかのような碧眼。そこまでならまだ、注目はされるだろうが染めたとかカラーコンタクトを入れたとかで通せるかもしれない。しかし、ほのかに青く光っているような白さを持つ肌は、明らかに異質なものだった。青い血が通ってなければ、きっとこんな色にはならない。
力なく横たわる透の変化に私は絶句していたが、横にいた女王はスル、と動いて透の顔に手を伸ばした。顔の角度を変えさせて、血の付いた頬を親指で擦る。
「………もしかして、飲んだのかしら」
それが妖精の血のことを言っていると悟り、私は透の代わりに「たぶん」と答えた。
「じゃあ、そのせいかもしれないわね」
女王がひどく落ち着いた様子で言うので、この状態を心配していないのだろうかと不思議に思い、私は女王をじっと見る。その視線に気づいた女王は「もう安定しているから、大丈夫よ」と微笑んだ。
「おーい、ひと段落したかい? そろそろ次いきたいんだけどー」
やっと静寂を取り戻した空間に元気な声が響く。勇者の空気を読まない言葉は私たちに向けられたもので、私は感情が高ぶるのを感じた。まともに相手をしていたら怒りっぱなしになるのは分かっているので、表情には出さないがやっぱり腹立たしい。いちいち馬鹿にしたような発言をするのはどうにかならないものか。
勇者を見ると余計に怒りそうなので視線を透に固定する。しかし、私の耳がぼそっと呟かれた雪那の声を拾ったため、勇者により近い位置にいる2人が気になって顔を上げた。急なことで言葉は聞き取れなかったが、何か言われたらしい蓮太郎は同じく囁くほどの音量で「………ああ」と了承を返す。このボリュームなら勇者には聞こえてないだろう。実際に勇者は鼻歌を歌いながら何やらポケットを探っている。この隙に何か打ち合わせしているのだろうかと、私は2人の会話に耳を澄ませた。
すると、蓮太郎の背中に隠れる位置で、雪那が「桜」と私を呼ぶ。突然の呼びかけに驚いたが、私は返事をする代わりにチラッと雪那へ視線を遣った。蓮太郎に遮られて見えないことを利用し、雪那も横目で私を見ている。そのまま、私にしか聞こえない囁きを続けた。
「勇者を煽れるか。もう一度、攻撃させたい」
予想外の言葉に思わず目を見開く。どういうこと、と視線で問うたが、雪那は時間がないためか説明はしてくれなかった。代わりに「当てさせないから。やってくれ」と僅かに焦りを含んだ声で続ける。私は一瞬、躊躇したものの、この場では雪那を信じるしかないと決心した。私はひとつ頷くと、視界に入れないようにしていた勇者を睨み付ける。
「次って何、あの赤い玉? さっき外したくせに何言ってんの」
溜まっていた苛立ちを吐き出すだけなので、言葉はスラスラ出てきた。高まる緊張と心臓の音は無視して、眉を顰める勇者に挑発的な笑みを向ける。女王が横で制しようとする仕草を見せたが、私たちとは反対方向へ逃れていた縁がいつの間にかこちらへ来ていて、可愛い前足で女王の手を押さえた。近くにいたのなら、内容は聞き取れずとも、耳の良い縁にも雪那が何か話しているのは聞こえただろう。私は縁に感謝しながら強い言葉を放ち続けた。
「言っておくけど、あんなの何回でも避けられるから。後ろの2人と1匹を抱えながらでも余裕だよ」
俺もかぁ、と縁が背後で笑う気配がする。それが心強く感じられて、私はますます挑発的に笑って見せた。
「そんなことしかできないのに、私たちに勝ったつもりになってバカみたい!」
笑いながらそこまで言うと、眉間にシワをよせていた勇者は急にニッコリ笑って、ポケットから手を出す。そこには様々な赤色が混ざり合うビー玉がひとつ握られていた。
「本当に躾がなっていないようだね」
勇者がビー玉を掲げて何事か呟くと、それはボッと発火して先ほどの赤い玉になる。視線は私に向けられたままで、こちらに投げるつもりなのはすぐに分かった。私は一応、透と女王の腕を掴んで、いつでも逃げられるように準備する。でも雪那を信じているから、ギリギリまではここに留まるつもりだ。
「そんなに早く死にたいなら、お望みどおりに」
そう言うと勇者は、再び私の聞き取れない言葉を紡ぐ。今度は先ほどより長い言葉だ。すると赤い玉はボッボッと燃え上がる音を立てながら、一回り大きく成長した。顔の3倍はある大きさのそれを、勇者は投げる態勢に入る。私はぎゅうっと全身に力を入れた。
勇者の右手が鋭く前に出されると同時に、赤い玉が燃えながら一気に距離を詰めてくる。こちらへ近づくごとに大きくなっているようにも見えた。私の体の大半を覆い尽くすのではないだろうか。対峙する覚悟を決めた私はどこか冷静に観察をしていたが、一方ではどのタイミングで逃げようかと冷や汗をかく自分もいた。でも、もう少し。当てさせないと言っていたから。一秒もない間に、様々な葛藤が頭を巡る。
そうして赤い玉の熱さを僅かに感じた瞬間、ここが限界だと悟り、透と女王を掴む腕に力を籠めた。これ以上待っていたら死んでしまう。しかし、今まさに足を動かそうとしたとき、視界の端にフェードインしてきた蓮太郎が目に入った。腕には雪那を抱えて、飛ぶ勢いで私たちと火球の間に割って入る。燃えてしまう、と恐怖を感じた私はひゅっと息を呑んだ。
だが彼らが玉に接触した瞬間、金色の火花が激しく散って、赤い玉は進行を止める。よく見ると蓮太郎に抱えられている雪那が杖を前に掲げて赤い玉を食い止めていた。だが玉の勢いがよほど強いのか、支える蓮太郎の足がズズッと土を抉りながら後退していく。蓮太郎の踏ん張りが利かなくなったら終わりだと思った私は、後ろにいる縁に「ここお願い」と早口で言って彼らのほうへ飛び出した。一瞬で2人のもとまで到達し、ここにいる誰よりも強い力で蓮太郎の背中を支える。確かに圧は強いが、私が動かされるほどではない。私はこれ以上後ろに下がらないよう全身に力を入れた。赤い玉と私たちにサンドされている雪那から苦し気な息が漏れ聞こえたが、背後がしっかりしたからか、次の瞬間にはバッティングするように腕を振るい、赤い玉をはじき返す。再び金色の光が散ったそこから勢いよく飛び出した玉は、そのまま投げた本人のもとへ帰っていった。
私は蓮太郎の背中でよく見えなかったが、赤い玉が勇者の立つ場所を激しく抉ったのは分かる。爆発音が先ほどよりも大きく破裂し、辺りに焦げた臭いが広がった。私は蓮太郎の影からひょいっと体を傾けてその結果を確かめたが、残念ながら勇者は生きている。だが慌てて逃げたのだろう、地面に座り込み、コートと右腕は焦げて真っ白な服の面影もなかった。右腕からは血も流れているようで、嫌だと思いながらも鼻を利かせると肉の焦げる臭いがする。だらりと垂れた右腕はもう使い物にならないだろう。
蓮太郎に地面へ降ろされた雪那は、息を整えながら驚愕に目を見開く勇者へ静かに話しかけた。
「お前、外からの攻撃を防ぐ結界を張っていたんだろう。防ぎながらダメージも負わせる術は見事なもんだったけど、自分の魔力は攻撃にカウントされないんじゃないかと思ってな」
だから私に勇者を挑発させて、赤い玉を打たせたのかと合点がいく。女王の蔦が焦げたように、勇者から一定距離近づくと私たちは負傷してしまう。だから私たちがいくら攻撃しても勇者には傷ひとつ付けられないはずだった。だが勇者の魔力は勇者への攻撃ではない。たとえそれが跳ね返ってこようとも、勇者に向けられた攻撃ではないから、勇者が組んだという術をすり抜けてしまうのだ。雪那はそれを跳ね返すため、俊足である蓮太郎に自分を運ばせたのだろう。あの玉は早すぎて雪那には到底追いつけないものだ。
雪那の言葉を聞いた勇者は、苦虫を噛み潰したような顔で苦し気に息を吐いた。
「てっきり召喚が得意なんだと思ってたよ」
「一言もそんなこと言ってないけど」
同じ魔法使いだと言う勇者の言葉をバッサリ切り捨てた雪那は、仕切り直すように「さて」と続ける。
「今なら死に方を選べるぞ。全身の血を抜かれるか、大きな牙で首を食いちぎられるか、同胞の手で爆死するか」
そう言いながら雪那の立てた人差し指には美しい炎がポッと灯った。爆発とは程遠い火力だが、怒りに任せて何度もリビングを焦がしている雪那の火は、これの何倍にも膨れ上がることを私は知っている。「大きい牙」って私のことだろうけど、できれば私はあんな勇者の首になんて噛みつきたくないから、失血か爆発を選んでほしいところだ。
攻撃を防げても、この怪我では妖精を制圧できないのは明らかで、それは勇者も分かっているのだろう。たとえ左手で攻撃しても全てはじき返される。このままじっとしていれば怪我はしないが、いつかは飢える。ならば降伏しろと要求する魔物に向かって、勇者は憎々しげに睨み、歯を噛み締めた。
「…………ハハッ、仕方ないか。怒られるだろうけど、ここは諦める。だから見逃してくれ」
急に力を抜いて軽く笑った勇者は、死に方ではなく第三の道を提案する。だがそれに対する私たちの答えはノーだ。無言で首を横に振った雪那に、勇者は乾いた笑い声を出した。
「君は残酷だね。まぁいいさ。逃げる方法なんていくらでも」
そう言って勇者は再びポケットを探る。またビー玉みたいな道具を取り出すのだろうか。もしかしてそれが勇者の逃げ道となるのかもしれない。私は魔法のことなんてさっぱり分からないけど、いつでも飛び出せるように神経を集中させた。一歩でも逃げ出そうとしたら、すぐに捕まえてやる。近づけないけど。吠えたり威嚇したり、やり方はいろいろある。
しかし、そんな私の気合は発揮できずに終わった。勇者がポケットを探り出した瞬間、庭の入り口で凛とした少女の声が響いたのだ。
「それは困りますね」
気配も匂いも感じられないのは毎度のこと。でも最後の砦として頼られ信頼される彼女のことを警戒したりなんてしない。木々の影から姿を現した、真っ黒なドレスワンピースに身を包む純子は、いつもの穏やかな顔で笑っていた。
ゆっくりと草を踏みしめながら、しかしまったく音を立てずに進んでくる純子を見て、勇者は困惑の表情を浮かべる。
「なんだい、お前は………」
純子は勇者と一定の距離を空けて歩みを止めた。そこが結界の境界線なんだろうか。私がそんなことを考えていると、純子は勇者からの質問には答えず、眼鏡の奥でニッコリ笑った。
「さようなら」
純子がそう言い放つと、彼女の背後から瞬時に黒い影が飛び出す。触手のように何本にも別れたそれは容赦なく勇者を縛り上げ、何重にもなって勇者の体を覆い尽くした。外からの攻撃が自分に到達すると思っていなかったのだろう。勇者は影に塞がれた喉の奥で悲鳴を上げていたが、その狼狽えた声も、驚愕を映した瞳も、一瞬で消えていく。真っ黒な塊になった勇者は1回ぎゅっと強く巻かれ、影がほどけた時には跡形もなく消えていた。




