変化
女王を脅すために使っていた人質を、縁によりすべて失った勇者。だが彼は無表情から一転、ふっと小馬鹿にしたような笑いを浮かべた。
「それがどうしたっていうんだい?」
勇者はわざとらしく両手を広げて肩をすくめる。いちいち癇に障る動作をする人間だが、この自信は虚勢ではないのだろうか。もしかしたら何か絶対的な勝算があるのかもしれない。私は縁の登場によって多少冷静になれた頭で、警戒を怠るなと自分に言い聞かせた。
「お前たちは僕に触れることすらできないんだ。近づいた瞬間、ああなるよ」
そう言って指し示したのは女王のそばに生える太い蔦。妖精を助けようと飛んでいったものだが、その先端はチリチリに焦げていて、大きく面積を減らしていた。女王はダメージを受けたことを分かっていたのだろう。図らずも自分の蔦が勇者の力を証明することになってしまい、気まずそうに視線をそらした。
「僕が今まで何も対策をしていないと思ったの? 不思議なお菓子のおかげでここに入れなくなって、時間がたっぷりあったからね。綿密に術を組ませてもらったんだ」
勇者は自分の策が効力を発揮した様子を見て、嬉しそうに笑う。
「悪いけど、何が何でもここは落として来いって言われているんでね。傷ひとつ負わせられないまま、死んでもらうよ」
瞳に暗い色を光らせて、勇者はますます口角をあげた。本当に不快、と私は改めて思う。他人の神経を逆なでするのが得意な人間だ。
それよりも、『落として来いって言われている』とはどういうことだろうか。もしかして、ここを狙っていたのは誰かに指示されてのこと? 確か勇者は集団で動いているとか、どこかに所属しているとかって雪那が言っていたし、他の勇者にそう言われてきたのだろうか。私は勇者がこぼした一言が気になって、この人間の背後にいる人物までも想像し始めた。これが組織的犯行なら、私が考えているより厄介な事案なのでは。
しかし、そんな思考は背後から発せられた不穏な声によって断ち切られた。
「えぁ」
喉から無理やり絞り出したような声は透のもの。何か起きたのは明らかで、嫌な焦りがゾワッと心臓に広がった私はすぐに振り向いた。鋭い動きに置いて行かれた長い髪が、一瞬私の視界を覆う。
「あ、えぅう、あぁ」
透は妖精の血が付いたままの口元や、その先の喉元を何度も掻いていた。と言ってもその動きは緩慢で力がなく、撫でるような動作にしかなっていない。口も力なくぱかっと開いていて、そこから言葉にならない音が漏れていた。
「高橋くん?」
以前ここを訪れた時は胸に妖精が詰まっているのを見てパニックに陥った透だが、今回はまた別種の異常事態のようだ。私は苦しそうに俯く透を咄嗟に支えようとして手を伸ばしたが、その前に透の膝から力が抜けて座り込んでしまった。私も膝をついて顔を覗き込むと、開いた口の端から唾液が零れ落ちている。そんなことに気を遣う余裕もないのだろう。これはヤバいと思ったが、私には原因がさっぱり思いつかず、大人を頼ろうと顔を上げた。すると一番近くにいた縁がするりと寄ってきて、顔をしかめながら透の顔を覗き込む。
「縁………」
縋るように名前を呼んだが、縁も首を傾げて原因が分からないようだった。「急にこうなったのかぁ?」と聞かれたので、私はたぶん、と答える。妖精の血が飛んできた時は普通だった気がする。またパニックになるのだろうか。それとも死に至る怪我か病か、毒でも盛られたのか。あ、あ、と声を漏らし続ける透に不安が募った。
「おや、透くん、体調が悪いのかい? こんなところに居たら、そうなるかもねぇ。もっと早く、魔物たちから引き離していればよかったかな」
そこに勇者の陽気な声がかかって、私は初めて勇者の目がこちらに向けられたことを感じた。不気味なルージュの花を生み出した張本人。ミロという名の妖精を変わり果てた姿にした人間。そんな男の視界に自分と、守れと言われた透が映っていることを認識した瞬間、私はわずかな恐怖と大きな警戒心が体を駆け巡るのを感じた。しかも勇者は私たちのほうへ一歩、間合いを詰めてきたので、距離があると分かっていても頭の中で黄色信号が光る。だから理性よりも本能が勝った行動をとった。勇者のほうを勢いよく振り返ると同時に、狼の声が口を突いて出る。
「ガルゥウ!!」
腹の底から発した威嚇の声は紛れもなく獣のものだ。いつも静かに収まっている自分の犬歯が先端を尖らせて伸び、下唇にあたるのを感じる。口の幅も常時より裂けているだろう。自分で自分の顔が狼に寄っているのを感じた。
狼人間は満月の夜に獣人へと変わり、秘めている力を完全に開放する。理性は一切なくなり、破壊衝動のみにその圧倒的な力を使う化け物へと姿を変えるのだ。だが私は、満月以外の時でもある程度は自分の中の狼をコントロールすることができる。これは大黒さんの言いつけで幼少の頃から訓練して身に付いたもので、完全な獣人の力は引き出せないものの、望めば5%ずつくらいのイメージで狼の力を発現させることができた。だが代わりに、引き出す力の度合いに応じて狼の姿に変化し、理性も消失していく。今回のように本能のほうが勝った時も、反射的に狼が出てきてしまうことがあった。
勇者は私に吠えられてピタリと動きを止める。依然として私はその視界に映っているが、こちらに近づいてこないことを確認して、後は低く唸るだけにとどめた。勇者は一瞬、驚いたように目を見開いたものの、唸る私を見て薄く微笑む。
「躾のなってないワンちゃんだね。君は何、犬が化けてるの? 獣人とはちょっと違うし。興味深いな」
興味を持つな、という思いを込めて、私は少し大きい声で唸る。だが横にいる縁から「やめときなぁ」と制止されてしまった。
「興奮すんな、大丈夫だからよぉ」
オレンジの小さい前足が私の太ももに乗せられ、私はそれをじっと見つめた。次いで縁の顔を見ると、いつもの笑っているような表情。自分の歯が自然と小さく戻っていくのを感じた。低く発していた唸りも徐々に消えていく。それを確認した縁は満足げに頷いて足をどかした。
私は縁のおかげで再び冷静になり、周囲のことに気を回せるようになる。いまだ苦しむ透の近くに女王がスルリと近づいてきたことも、勇者と私たちの間に立つ雪那と蓮太郎がこちらを窺っていることも把握できた。1人で興奮していた自分を省みて少し申し訳ない気持ちになる。しかし、今の自分にできることをしようと気を取り直し、私は透の様子を見ている女王に話しかけた。
「どうして苦しんでるか分かる?」
女王は困ったように眉を下げながらも頷く。
「魔力が一気に増えているわ。どうしたのかしら」
「治せる?」
「………あの人間の前では、ちょっと。集中するから無防備になってしまうの。どこか安全な場所へ」
女王が透を連れて移動しようと僅かに腰を上げた瞬間、私はもはや慣れてしまった危険な気配が猛スピードで向かってくるのを感じた。反射的に女王と透の胴を抱え、脚が持つ瞬発力を最大限まで引き出して前方へと飛び出す。一瞬前まで膝をついていた地面が爆発音と共に、毒々しい赤い光の玉によって抉られた。振り返れば女王の蔦と同じく焦げていて、草や土が焼かれた嫌な匂いが立ち込める。
「させないよ」
見れば勇者が殺気を隠さず微笑んでいた。突き出した右手からはかすかな煙が上がっている。躊躇わず攻撃してきたことから、本当に私たちを殺すつもりなのだと実感した。
「動いたら殺すよ。透くんもどうやら魔物側に堕ちてしまったみたいだし、遠慮する必要はないからね」
強気に言い放つ勇者に、外したくせに何言ってんのと言いたくなってしまったが、ぐっと我慢する。自分1人なら何発でも避けられるけど、苦しみにもがく透を抱えながらでは、いずれ当たってしまうかもしれない。再び狙われないように口をつぐんだ。
そのとき、力なく呻いていた透が突然、大きな声で叫んだため、私の鼓膜が不快に震える。私に無理やり移動させられたせいで透は地面に転がっていたが、変わらず口元に這わせていた手を今度は拳にして、痛みを耐えるように地面を叩いた。その後も何度も拳を叩き込みながら絶叫し続ける。私は豹変した透の様子に驚き、女王に何事かと問う視線を向けた。しかし、それも程なくして再び透へと戻る。変わったのは苦しみ方だけではなかった。
髪が、肌が、瞳が、その色を変える。髪と瞳は女王と同じ青へ。肌は血が通っていない死人のように青白く。もともと運動部で健康的な色合いをしていた透の色素は、布に水が染み込むようにみるみる変化していった。
まるで作り物のように青に染まった透は、その変化を終えると苦しみから解放されたように穏やかな呼吸を繰り返す。しかしその姿は、もはや普通の人間には見えないほど変わり果てていた。




