接触
枝葉でついた細かい傷は、洋館に着くまでに治っていた。それよりも私に吹っ飛ばされた透が手のひらを擦りむいていたので、純子が丁寧に消毒してやっている。温かい飲み物を人数分用意して彼女が座るのを待ち、改めて透に話を聞いた。
「それで高橋くん、話したいことって?」
思い切り不安な顔をした透は一口お茶を飲んで喉を潤し、口をもごもごしながら逡巡した後、口を開く。その瞳は放課後に会った時と同じように、深淵のような闇を湛えていた。
「この間、うちに変な人が来たんだ」
やっと発した言葉の続きがなかなか出なかったが、私達は焦らずじっと彼を見つめて、先を促した。
「………俺が自分の部屋から1階に降りて来た時、玄関に見慣れない靴があってさ。こっそりリビングを覗いたら両親と真っ白な服着た男が話してて、両親が深刻そうな顔してたから、隠れたまま話を聞いてたんだ」
その時の緊張を思い出したのか、透は詰めていた息を吐き出し、再びティーカップに口をつける。かちん、とカップを置く小さな音を合図に、彼はまた話し始めた。
「祖父さんの庭のことを話してた。あそこには"よくないもの"がいるから、お祓いをしなきゃいけないって。両親はオカルト的なことは半信半疑で、だからこそ庭をどうするかって揉めてたんだけど、今まで起きた事故とか、おかしなこととかぴったり言い当てられて、だんだん両親も信じ始めて……」
透はぎゅう、と音がしそうなくらい拳を握りしめる。爪で怪我をしないか気になったが、話の腰を折るのはよろしくない。黙って彼の言葉の続きを待った。
「両親は最初、そいつの話に否定的な態度とってたのに、最後はよろしくお願いしますって頭下げちゃったんだ。でもそいつ、見るからに胡散臭いし、俺は両親が騙されてるんじゃないかと思って……今から走れば、帰っていった縁さんに追いつけるんじゃないかと思って、家を出ようとしたんだ」
毎夜、透の様子を見に行っていた縁が、おや? という顔をして目を見開く。
「なんだぁ? もしかして、あん時その怪しいやつぁ、家にいたのかぁ」
「気づかなかったの?」
私が聞くと「まったく」と縁が首を振った。危険なものなら気づけるはずの彼に気取られないのは逆に怖い。得体の知れなさを感じて、私も少し不安になった。
「でも結局、家を出る前にそいつに話しかけられて、出られなかったんだ。急いで靴を履いてたら、いつの間にかすぐ後ろにいて」
わずかに震えながら透が当時の恐怖を話す。
「ニコニコしながら挨拶してきてさ、どこに行くのって聞かれたからコンビニにって咄嗟に答えたんだけど、そしたら自分も帰りがけに寄るから案内してくれって言われて、そのまま一緒に少し歩くことになって……。いろいろ、学校のこととか、友達のこととか、最初は他愛のない話題を振られてたんだ。でも」
『きみ、花の匂いがするね。バラの香りだ。お祖父さんのバラ園に行っているのかな?』
今までの話題と同じトーンで振られた話に、透は息をのんだ。すぐに否定しなくては、と思うのに上手く言葉が出ない。なんとか捻り出した「いいえ」に、真っ白な服の男は残念そうな顔をした。
『そうかぁ。実はさっきも、君はバラ園に行くんじゃないかと思って声をかけたんだよね。君のご両親よりも、君のほうが詳しいんじゃないかと思ってさ。勘だけどね』
柔らかな笑みと共にあるのは、「分かっているぞ」と脅すような、底の見えない真っ黒な瞳。透は何も言えなくなり、速足でコンビニに向かうが、男も同じスピードで付いてきた。
『お友達と行ってるのかなぁ、とかさ。そういうことに詳しいお友達。いるでしょ?』
笑いながら見つめてくる男を見ないようにしながら、透はまた「いいえ」を捻り出す。男は一層楽しそうに笑みを深くして、『本当?』と問いかけた。
『僕もこの道長いからさぁ。なんとなく、そうかなぁって人が分かるんだ。だから君が心配なんだよ。危険なことをしているんじゃないかって。知っていることを話してくれれば、力になれるよ』
直後にコンビニが見えてきたので、透はその言葉には答えず、「あそこです!」と半ば叫ぶように目的地を指さした。しかし、男は店内には入らず「おしゃべりしてるとあっという間だね」と言いながら透に別れを告げる。
『怖がらせちゃったかな? ごめんね、見ず知らずに人間にたくさん話しかけられて、いい気分はしないよね。でも君を心配しているのは本当だから……見守ってるね』
最後に不気味なほど穏やかな笑みと声音で告げて、男は闇夜に紛れていった。
透が弱々しく告げた内容に、空気が湿気を吸ったように重くなる。妖精が私たちのことを話した時点で存在は知られていると思ったが、透と繋がっていることまで察しているとは。バラ園のことでも手一杯なのに、別方向から脅威が迫っているなんて、いよいよ危険な局面に立たされているのかもしれない。
「つけられてるんじゃないかとか、見張られてるんじゃないかとか考えると、言うべきか迷ったんだけど。でもやっぱり伝えようと思ってあそこに行ったんだ。本当は放課後か、一緒にバラ園について行って話せないかと思ったんだけど……」
続けられた透の言葉に、私は自分が犯したミスを呪った。今日話しかけられた時、ちょっとおかしかった透の様子を思い出す。ちゃんとそれを指摘して、話を聞いていればよかった。あの時聞いたところで事態は変わらなかったかもしれないけど。
「その話が本当ってぇんなら、今日のことも知られてっかもしれねぇなぁ」
縁が可愛い顔を難しそうに歪めて考える。
「お前さん、カマかけられたんだろうさ。本当に俺たちと繋がってんなら、怪しいヤツが来たってんで報告するだろうってなぁ。バラ園に行ったことも、俺たちと合流したこともどっかで見てんだろ」
「え、じゃあ今もですか?」
透が怯えて身をすくめながら縁に問う。だが縁はふさふさの毛を揺らして首を振った。
「お前さんを監視してただけってんなら、この家にいる限りそりゃねぇな。お前さん自身が監視の道具ってんなら話は別だが」
もし透自身が監視の媒介とされているなら、いかに悪意を跳ね除ける洋館といえども、住人が招いたものとして結界はスルーされる。竜の心臓のように自ら相手を懐に潜り込ませた形になるのだ。だが遠隔で見ていただけなら、この洋館のシステムとして場所が分からないようにどこかで撒いたはず。周辺をうろうろしていたら怖いけど、と私が考えたところで、同じことを考えたであろう雪那がそれを確かめるよう求めてきた。
「監視道具にされていないかは後で確かめるよ。それよりも、ここの場所を見つけようとしてるかもしれないから、蓮太郎か桜か、ちょっと周りを見て来てくれないか」
「あ、私行くよ」
私は挙手しながらすくっと立ち上がる。
「敷地の外には出ないほうがいい?」
「中から見える範囲で構わない」
「了解! じゃあちょっと見てくるよ」
重苦しい空気の中にいるよりは、体を動かしていたほうがよっぽどいい。これからの議論を大人たちに任せて、私はすぐにリビングを飛び出した。




